【香川県のワニ信仰13】香川県の金刀比羅宮拝殿にてご祈祷を受け神楽舞を観賞! 本殿背後の禁足地の洞窟に金毘羅大権現の像は安置されているのか? 金光院住職 宥遍は金毘羅大権現の神窟を開きご神体拝見により神罰を受けたのか? 金毘羅大権現像はどこに?

◼️2023/7/31

香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮の本殿にて宮司さんにご祈祷をして頂き、巫女さん達の素晴らしい神楽舞を観賞した。

●拝殿にてご祈祷頂いた。

●拝殿の天井。昔は銀を使用したが、黒く変色するため、今は漆

●金刀比羅宮の拝殿にて神楽舞舞を観賞

●2923/7/31に拝殿にて神楽舞と雅楽演奏を披露して頂いた巫女さん達

●ご祈祷後に頂いた落雁 (らくがん)

※落雁(らくがん): 米や豆、蕎麦、栗などから作った澱粉質の粉に水飴や砂糖を混ぜて着色し、型に押して固めて乾燥させた“打ちもの”と呼ばれる干菓子。

◼️本殿背後の禁足区域の洞窟に金毘羅大権現像は安置されているのか?

香川県の金刀比羅宮の本宮の北透垣は神饌殿のさらに右側にある。

●拝殿と右横の神饌殿

●神饌殿背後にある北透垣 (すえがき)

●北透垣の内側は禁足地の森

この北透垣は、神職も入ったことがないとされる禁足区域の森への進入を防ぐ。

この森の中に洞窟があり金毘羅大権現が鎮座しているという信仰がある。

そして洞窟内に金毘羅大権現像が安置されているとの言い伝えがある。それを見た住職は神罰を受けたと伝わる。

明治時代の1868年に神仏分離により、金毘羅大権現から大物主命と崇徳天皇が祭神となった。

この神仏分離の際には多くの仏像が焼かれて処分された。

2023/7/31に、宝物殿2階に神仏分離により焼かれるのを免れた数体の仏像が展示されているのを見た。

では、神仏分離の際、この禁足地の洞窟に安置されていたとされる金毘羅大権現の像はどうなったのか?

2023/7/31にご祈祷と神楽の舞をして頂いた後、金刀比羅宮の神職の方に、神仏分離の祭に洞窟に安置されていた金毘羅大権現の像はどうなったのか質問させて頂いた。

回答としては、この点については、神職の方でも分からないとの事。

神職の者でもこの神域の森に入ることはできないので分からないとのこと。

また、禁足地の森の洞窟に金毘羅大権現像があるのかどうかも確認されていないとの事だった。

ただ、金刀比羅宮近くの松尾寺には金毘羅大権現の像はあるとのこと。

◼️松尾寺 (香川県仲多度郡琴平町)とは?

●松尾寺(まつおじ)

香川県仲多度郡琴平町にある高野山真言宗の寺院。

山号は象頭山。

院号は普門院。

本尊は釈迦如来で、新四国曼荼羅霊場第16番札所。

象頭山松尾寺の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅権現になったとする。

だが、長曽我部による讃岐国侵攻で多くの古い記録が焼失し金毘羅大権現の記録があるのは近世以降である。

それまで松尾寺は現在の本宮の場所に十一面観音菩薩立像が本尊の本堂があり、守護神である三十番神の堂が左奥にあった。

善通寺で修行をし長尾城城主の弟である宥雅は、当地の一角にあった善通寺の塔頭である称名院に入り、松尾寺金光院を創立し院主となり、1573年(元亀4年)には現在の四段坂の下の北側に金毘羅堂(金毘羅王赤如神御宝殿)を建立し、新たな守護神として金毘羅神を勧請し金毘羅権現として祀り、金光院はその別当になる。

その後、1579年(天正7年)長宗我部元親が当山を讃岐の宗教上の拠点にしようと侵入してくると長尾一族のため政敵になっていた宥雅が堺に亡命するや長曽我部は配下であり土佐の修験者である宥厳を院主に据え、1584年(天正12年)には仁王門(現・賢木門)を建立するなど寄進をした。

しかし、秀吉軍との戦いで5年ほどで長曽我部勢力は讃岐から撤退することとなる。

元親は1600年宥厳を土佐に呼び戻し、後を継いだ弟子で高野山の僧であった宥盛が院主となり金毘羅権現の信仰を広め隆盛し、後発の塔頭だった金光院が全山を支配するようになる。

そして、境内は大きく整備され、薬師如来像が鎮座していた金毘羅堂は行者堂となり、その薬師如来像のために新たに現旭社の場所に薬師堂が造られ、寺院本尊だった観音像は本堂脇に造られた観音堂に移され、本堂は神社形式で金毘羅権現を祀る本社となり、本坊に護摩堂と弘法大師堂を建立して祈祷寺の要素も導入した。

1606年宥盛は自らの像を作って本殿脇に祀り1613年突如として消え天狗になったと云われた。→ 讃岐三大天狗 金剛坊 → 奥社

京都の僧澄禅が1653年(承応2年)に四国巡拝した日記には、秘仏金毘羅大権現の本社があり、その左側に十一面観音の頭の10面像が外された聖観音像として祀られる観音堂が建ち、その後ろ堂には不動明王と毘沙門天を脇仏として配した法衣長頭襟姿の宥盛像が祀られていたと記されている。

さらに1813年(文化10年)には薬師堂が当山で最大の建物となる金堂として二万両の寄進により建て直され、立派な薬師如来と薬師十二神将を見える形での金毘羅大権現として、金毘羅大権現の本社、宥盛像とともに信仰の対象とされ隆盛した。

そして、日本一社として分霊はご法度としても金毘羅信仰に熱心な全国の有力者によって各地に分祀され金毘羅権現社ができていった。

明治元年(1868年)のとき象頭山金毘羅大権現は神仏習合の社で別当の松尾寺金光院と塔頭の神護院・尊勝院・萬福院・真光院・普門院があったが山内を取り仕切っていたのは金光院19代院主宥常であった。

明治新政府の神仏分離は当山も包み込むことになり、宥常は5つの塔頭の院主ら幹部を集めた協議をし、その結果は金毘羅はもと天竺の神で此山に飛来して給ふたもので日本の神々とは関係ない故に神仏分離の対象にはあたらないので従来のままの祀り方でとの方針が決定、それを陳情するため宥常らは京に上ったが、京都の寺々の惨状を目の当たりにして政府の方針である神仏混淆の禁止・社僧に還俗を命ずることをしなければ御山を維持できないことを確信し、帰山してからは次々と変革を断行していった。

その結果、金毘羅大権現が鎮座してから付けられた山号であった象頭山から琴平山へ、村名は金毘羅村から琴平村へ、社名は変遷のゆえ金毘羅大権現から金刀比羅宮へと変え、主祭神の名は大物主神と定め、相殿に崇徳天皇を祀り、普門院を除く松尾寺金光院と4つの塔頭はすべて廃寺とし所有物は全て神社へ移行することとなり、多くあった仏式の堂や祠は神式の摂社となったり取り壊され、仏像仏具経典は、現在の宝物館に残されている十一面観音(重文)や護摩堂の不動明王などの他は売却され、残ったものは焼却された。

なお、観音堂後堂に祀られていた宥盛像は他の物と一緒に焼却されたとも、奥社で今も祀られているとも云われている。

しかし、いち早く当寺に移された南北朝の弘法大師像(県文化財)の他は、かろうじて持ち出せた室町期の金毘羅権現像(当寺住職はこれが本社本尊と主張している)および前立金毘羅権現、鎌倉期の釈迦如来像(当寺本尊)、愛染明王像、江戸後期の釈迦涅槃図(縦320×横756cm)などが普門院松尾寺である当寺に奉安されている。

松尾寺に伝わる金毘羅大権現

ところで、普門院の院主宥暁と尊勝院院主は最後まで神仏分離に反対しており、また、普門院は大門(元仁王門)の外にあり檀家の葬儀を執り行っていたため存続を認められ、明治3年仁和寺末寺となり、明治5年院主宥暁と弟子2名ともに、現在は金刀比羅本教総本部になっている場所から、金光院の別荘のあった現在地に普門院松尾寺として移動し、その後、共に出た宥音(宥智は早世)が明治7年に22世松尾寺住職となり、次には宥尭が23世となり法灯を継承していった。

◼️金光院住職 宥遍と金毘羅大権現

金光院住職 宥遍は、金毘羅の神窟を開き神体拝見の罰で愛宕山の松の枝に引き裂かれていたと言う言い伝えが残る。

●琴平町の愛宕山

◼️江戸時代に金光院に来た人物の金毘羅金毘羅の描写。

頭に頭巾、左手に数珠、右手に檜扇

 ●天和二年(1682)岡西惟中の『一時随筆』の中で「形像は巾を戴き、左に数珠、右に檜扇を持玉ふ也、巾は五智の宝冠に比し、数珠は縛の縄、扇は利剣也、本地は不動明王とぞ、二人の脇士有、これ伎楽、伎芸といふ也、これ則金伽羅と勢咤伽、権現の自作也」

●延享年間に増田休意は「頭上戴勝、五智宝冠也、(中略)左手持二念珠・縛索也、右手執二笏子一利剣也、本地不動明王之応化、金剛手菩薩之化現也、左右廼名ご伎楽伎芸・金伽羅制叱迦也」

◼️日本歴史地名大系の金刀比羅宮と金光院別当 宥遍の解説

https://kotobank.jp/word/金刀比羅宮-65575

●金刀比羅宮 (ことひらぐう)

香川県:仲多度郡琴平町金毘羅村金刀比羅宮

[現在地名]琴平町

琴平山(象頭山、五二一メートル)東側の中腹に鎮座する。

祭神は大物主命、崇徳上皇を相殿に祀る。旧国幣中社。

平田篤胤の「玉襷」に「彼象頭山と云ふは(中略)元は琴平と云ひて、大物主神を祭りしを、仏書の金毘羅神と云ふに形勢感容似たる故に混合(淆)して、金毘羅と改めたる由」とあるように、もとは金毘羅大権現と称した。

明治元年(一八六八)七月、現社名に改称した。

創建年不詳。

象頭山金光こんこう院松尾まつお寺の住職が代々別当を勤めた。

金刀比羅宮所蔵の史料によって、金光院の代々は次のとおりである。

〔金光院別当〕

初代には元徳三年(一三三一)に善通寺誕生たんじよう院を中興した大徳宥範僧正があてられているが、金毘羅大権現との関係は不詳である。

以後、二代の宥遍までの約二〇〇年間はとくに明らかでない。

🔸二代目の宥遍は金毘羅大権現の神窟を開き、御入定の神体を拝したために神罰を受けたと伝わる。

愛宕山にて無残な姿で見つかった。

元亀元年(一五七〇)没。

🔸三代 宥雅は当時、那珂郡と鵜足郡の南部に勢力をもっていた西長尾城(現満濃町)城主長尾大隅守の縁者という。

元亀四年松尾寺に金毘羅宝殿を建立。

天正七年(一五七九)土佐の長宗我部元親の侵攻に当たって、一山の宝物と記録を携えて泉州堺(現大阪府堺市)へ落居。

その後、生駒家に対して、金光院の正当な住職であることを訴えて帰参を願ったが許されなかった。

🔸四代の宥厳は長宗我部元親の庇護によって住職となったと推定される。

天正一二年一〇月に元親が寄進した仁王門の棟札、文禄五年(一五九六)の観音堂鰐口の銘、慶長三年(一五九八)の大井おおい八幡宮造立の棟札に名前を残している。

同五年没。

🔸五代宥盛はのちに金剛坊とよばれる剛毅な僧で、現在象頭山の守護神として奥社に祀られている金刀比羅本教の教祖である。

慶長六年に毘沙門荒神こうじん社を建立。同九年に護摩堂本尊を新調。

宥盛によって金毘羅大権現の信仰が確立された。

同一八年没。

🔸六代目は慶長一八年に入山。

金光院や町方で重立となり、門前町の有力者となる菅納家・木村家・荒川家・小国家などの人々を招いた。

初めての山下家出身の金光院別当。

正保二年(一六四五)没。

🔸七代宥典は正保二年に入山。

慶安元年(一六四八)三月、将軍徳川家光から社領三三〇石の朱印状を受ける。

高松藩主松平頼重の寄進によって、境内の諸堂の建築と修復が行われた。

山麓からの参詣道もほぼ現状に近い状態にまで整備されたという。

寛文六年(一六六六)没。

🔸八代宥栄は寛文六年に入山。

六代目の実弟山下盛包の子。

◼️金毘羅権現(こんぴらごんげん)とは?

香川県琴平町の象頭山に天竺から飛翔し鎮座した山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、本地仏は不動明王、千手観音、十一面観音など諸説ある。

明治初年の神仏分離・廃仏毀釈が行われた以降は、大物主とされた。

その神仏分離以前は、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の香川県琴平町の金刀比羅宮)が別当として奉斎し、讃岐の金毘羅大権現を総本宮とし日本全国の金毘羅宮および金毘羅権現社に勧請され祀られていた。

🔸由来

象頭山松尾寺普門院[1]の縁起によれば、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の由来との伝承から、これが象頭山金毘羅大権現になったとされ、不動明王を本地仏とした。

クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。

クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、金毘羅権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。

特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現は祀られていた。

なお、薬師十二神将の筆頭である宮比羅大将が松尾寺に元々、祀られていて、それを金光院 第二代院主 宥雅が1573年に新しく金毘羅堂(金毘羅王赤如神御宝殿)を建立し祀ったことから金毘羅権現になったともいわれている。

◼️宮比羅(くびら)とは?

仏教の水運の神で、天竺霊鷲山の鬼神で、薬師如来十二神将の筆頭である。

宮毘羅、金毘羅、金比羅、禁毘羅とも書く。

梵語ではクンビーラ(Kumbhīra)またはキンビーラ(Kimbhīra、「何を恐れることがあろう」の意)で、『月灯三昧経』のサンスクリット原本ではKimpiloと綴られる。

十二神将としては宮比羅大将ともいう。

●由来

ヒンドゥー教のガンジス川の鰐の神クンビーラが仏教に取り入れられ宮比羅大将となった。

薬師瑠璃光如来本願功徳経では、「爾時衆中有十二薬叉大将俱在会坐。

所謂宮比羅大将…」と薬師如来十二神将の筆頭に挙げられ、「此十二薬叉大将。一一各有七千薬叉以為眷属。」「若有流布此経或復受持薬師琉璃光如来名号恭敬供養者。我等眷属衛護是人。皆使解脱一切苦難。諸有願求悉令満足。」と説かれる。

金光明経鬼神品第十三では、「聴是経者 摩尼跋陀 大鬼神王 富那跋陀 及金毘羅 阿羅婆帝 賓頭盧伽 黄頭大神 一一諸神 各有五百 眷属鬼神」と金毘羅の名で記される。

大宝積経菩薩蔵会第十二之二金毘羅天受記品第二では、「爾時世尊。於彼中道不移其処 令諸長者建立聖果 以如来威勢入王舍城 四衆囲繞容儀庠序 時有護王舍城諸天薬叉大善神王 名金毘羅 作如是念 今者如来形相殊異 於世間中最勝難遇 堪受人天之所供養 我等今当応以種種上妙供具奉獻如来 作是念已 便以最勝飲食具足香味成就妙色 奉上於仏 爾時世尊 愍其所獻故為納受 時金毘羅王所領大薬叉衆六万八千在虚空中咸生随喜 以清遠音唱言 善哉善哉 時金毘羅即以此義告其衆曰 我已奉仏上妙供具 汝等亦応以諸供養施苾芻僧 当令汝等於長夜中利益安楽 諸薬叉衆受王教已 即以上供施苾芻僧 時諸僧衆哀受其供…」と詳細に説かれる。

宮比羅大将は弥勒菩薩を本地仏とする。

同じくヒンドゥー教の神で毘沙門天の前身であるクベーラと名前が似るためよく混同されるが両者は全く別の神格である。

また、宮比羅の起源は鰐の神クンビーラではなく、仏教説話において仏陀を守ったとされるヤクシャのクンビーラではないかという指摘もある。

●金毘羅信仰

クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。

クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)では海上交通の守り神の金毘羅大権現として信仰されてきた。

特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現として祀られていた。

◼️パリのギメ東洋美術館にある金毘羅大権現像

◼️まとめ

●金刀比羅宮の本殿裏に神職も入れない禁足地の森があり、そこに洞窟があり金毘羅大権現が鎮座していると言う信仰がある。

●金光院別当の宥遍は金毘羅大権現の神窟を開き、御入定の神体を拝したために神罰を受け、愛宕山にて無残な姿で見つかったと伝わる。

●2023/7/31に金刀比羅宮の拝殿にてご祈祷を受け、巫女さん達による神楽舞を観賞した。その後、本殿裏の森にある洞窟内に鎮座する金毘羅大権現の像は神仏分離後も安置されているのか質問した。

回答としては、神域の森は禁足地となっており、神職の者でも入れない。洞窟の中に金毘羅大権現の像があるかどうか確認されていない。ただ松尾寺に金毘羅大権現の像がある。

●金光院の金毘羅大権現の像を見た者の描写は、頭巾を被り、左手に念珠、右手に扇もしくは笏を持ち、伎楽・伎芸の両脇士を従える。→ 山伏、天狗のような姿。役行者のようでもある。

この金光院にあった金毘羅大権現像が現在、松尾寺にあり、松尾寺の住職はこれが本尊だと主張している。

金刀比羅宮の本殿裏の神域の森の洞窟内の金毘羅大権現像が松尾寺にある像と同一の像かどうかは不明。

金刀比羅宮の参道。一之橋にて。地元の酒造会社 金陵の看板。鞘橋は元はこの地にかかっていたが洪水で流された後、現在地に掛けられた。

◼️香川県のワニ信仰1-12


【香川県のワニ信仰1】金毘羅さんはワニの神様! ゾウ(ガネーシャ)を祀る八栗寺の聖天堂! 主祭神がワニに乗って来た三木町の和爾賀波神社と鰐河神社! ワニの正体は? 神武天皇の父が生まれた屋島の鵜羽神社! 

【香川県のワニ信仰2】金毘羅(こんぴら)さんはワニの神様! 祭神の大物主神は大国主神で大黒天の起源はシヴァ神! 象頭山に鎮座し境内にゾウの像! インドから移住してきた出雲族が支配! 

【香川のワニ信仰3】香川のワニ信仰(水神)を追う! 高松市田町商店街の琴平神社(祭神:大物主神、蛇神、水神、雷神。元は金毘羅大権現=インドのワニの神様クンピーラ神)! 

【香川県のワニ信仰4】高松市屋島 鵜羽神社(うのはじんじゃ)は神武天皇の父が生まれた場所! 軒下の木鼻はゾウの彫刻! 境内遺跡から製塩用の「炉」や1-7世紀の土器片も発見された!

【香川県のワニ信仰5】出雲族の足跡を追う! 香川県高松市屋島の鵜羽神社近くの 八坂神社訪問! 御祭神: 須佐之男命 スサノオノミコト (出雲系国津神、大国主命の先祖? 徐福? 饒速日? インド神話のインドラ神の化身 牛頭天王?)

【香川県のワニ信仰6】インドのワニ神 クンピーラ(金毘羅)に乗った女神ガンガーとは? 三木町の鰐河神社と和爾賀波神社の祭神 豊玉姫はワニに乗ってやって来た!

【香川県のワニ信仰7】出雲族はいつ頃、なぜインドから出雲に来たのか? ドラヴィダ人とは? DNA鑑定は? 他の伝承には出雲族の移住について残っていないのか?

【香川県のワニ信仰8】金刀比羅宮の祭神 大物主神の正体は? 出雲族が象頭山に行宮しワニ神クンピーラを祀ったのが起源で、そこが琴平神社になったのではないか?


【香川県のワニ信仰9】出雲王家末裔の口伝「出雲王国とヤマト政権」を紹介した動画! 口伝書の内容とは?

【香川県のワニ信仰10】讃岐に祀られる豊玉姫と倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ)と卑弥呼の関係は?

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【香川県のワニ信仰12】日本にワニが生息していた! 幻のワニの学名は豊玉姫! 阪大で高校生が発見! インドガビアル科!

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