◼️徳島県の碁浦御番所の役人兼庄屋を代々、務めた八田家に伝わる古文書の原本は研究目的で一切合切全てが貸し出されたが、返却催促にも応じず所在不明となってしまった。
古文書の一部の記録は、東かがわ市歴史民族資料館が撮影していた写真から解読、製本化され徳島県立図書館や徳島市立図書館、鳴門市立図書館などで閲覧できる。
🔹歴史民族資料館に残されていた一部の古文書の写真を解読し製本にした『碁浦御番所 八田家文書』 滝よし子、森順子 著
八田家文書の中に日本の歴史上、不都合となる記述が発見されたと推測される。 阿波風土記を始め、本当の日本の成り立ちに関する情報や天皇家の本当のルーツについて書かれた文書は焚書とされてしまう。
例えば、蜂須賀家と徳川家にあった阿波風土記は明治期に回収され世の中から姿を消してしまった。
このような例は日本各地で見られる。
🔹八田家文書の後書きに、古文書類は研究目的で一切合切が貸し出されたが、催促しても返却されず所在不明となってしまった旨が書かれている。
八田家文書が一日も早く全て戻ってくることを強く希望する‼️
🔹八田家は徳島県板野郡碁浦で代々、役人兼庄屋を務めた。八田孫平の長女である八田キヨは私の高祖母で、江戸時代に高松藩松平家に普請方として仕えた森家に嫁いできた。
🔹戸籍謄本。弘化三年生まれの八田キヨ。
※私の曽祖父 森虎太郎の妹 森トヨは、明治時代に東かがわ市黒羽(くれは)の三谷家へ嫁いだが、この三谷家は瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんの家系で、峰八さんの家は18世紀から代々、製糖業を営んでいた。瀬戸内寂聴さんの父は峰八さんの三男で名前を三谷豊吉と言い、瀬戸内家の養子となり、徳島市の眉山近くで神仏具店を営んでいた。この関係から私の大伯母(曽祖父の娘)は東かがわ市引田の積善坊での三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんとも交流があった。
実は、笠置シヅ子さんは東かがわ市黒羽の三谷家で生まれたが、この三谷栄五郎さんの家系も江戸時代から黒茂という屋号で和三盆を造る製糖業を営んでいた。今は分家の孫黒茂が和三盆の製造を受け継いでいる。
🔹瀬戸内寂聴さん
🔹瀬戸内寂聴さんが書かれた『場所』の中に父親の生まれ故郷である東かがわ市の黒羽を訪れたときのエピソードが書かれている。『木瓜の香り』は阿波水軍 森家の出自と家系について書かれた書籍。
🔹笠置シヅ子さん
🔹高祖母の実家 碁浦御番所とは?
角川日本地名大辞典より
🔹神戸市の三宮駅から鳴門市北灘町碁浦までは車で1時間半くらいの距離にある。
🔹高祖母 八田キヨの実家。 徳島藩と高松藩の境にあった碁浦御番所。 御番所跡は国道11号線建設の為、埋め立てられ現在は道路になっている。
🔹碁浦御番所で使われた三ツ道具
🔹碁浦漁港
🔹江戸時代に四国遍路途中の松浦武四郎や測量中の伊能忠敬らもこの碁浦御番所を訪れた。
🔹松浦武四郎。 日本で最初にサンカについての記述を残した。
松浦 武四郎(まつうら たけしろう)
文化15年2月6日〈1818年3月12日〉 – 明治21年〈1888年〉2月10日
江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家・浮世絵師・著述家・好古家。
雅号は北海道人(ほっかいどうじん)、多気志楼など多数。
蝦夷地を探査し、北加伊道(のちの北海道)という名前を考案したほか、アイヌ民族・アイヌ文化の研究・記録に努めた。
🔹『四国遍路道中雑誌』1844年。松浦武四郎が 19歳の天保7年(1836年)に四国八十八ヶ所霊場をまわった紀行文をまとめた3巻からなる弘化元年(1844年)の草稿。
🔹碁浦御番所跡の石碑
🔹高祖母 八田キヨの父 八田孫平が書いた文書
🔹江戸時代に高松藩松平家に普請方として仕えた森家に嫁いできた八田家(阿波秦氏)の高祖母は阿波浄瑠璃が非常に上手かったと伝わる。 高祖母の孫は自宅で琵琶を教えるほどの腕前だった。
阿波の板野郡は古代から秦氏が居住した土地でもある。日本の歴史上、秦氏は能や雅楽などの伝統芸能にも深く関わっていた。
🔹阿波秦氏の居住地分布
阿波国 板野郡
【参考】讃岐秦氏の居住地分布
香川県では香河郡(現在の高松市)に秦氏は多く居住していた。讃岐一宮の田村神社は元々は秦氏の氏寺であり、宮司は秦氏が務めた。高松市の峰山、紫雲山、大田周辺には古墳も多く残る。
🔹大化の改新以降、秦氏は、その出自を知られないように苗字を変えた。
ハタ・ハダという読み方は替えず、当てる字を変えた・・・畑、端、秦、畠、波田、波多、波蛇、羽田、八田、半田、矢田
前記の苗字に野・山・田をつけるケース・・・波多野、秦野、畠山、畠田、畑川、畑中、広幡、八幡など
🔹明治生まれの私の大伯母(祖父の姉)のインタビュー記事 (昭和39年の神戸新聞)
記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の上手かった祖母(八田キヨ)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダー、2.26事件時の勤務、神戸大空襲で自宅は焼失するも夫婦共に生き延びる、GHQ宿舎での電話交換手、昭和天皇の宿泊など。
大伯母の母は東かがわ市黒羽中村の永峰家(黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)の長女で、大伯母の父(私の曽祖父)の妹が東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ為、大伯母は三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんと交流があった。瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんは東かがわ市黒羽で江戸時代から代々、讃岐和三盆の製造をする豪農だった。三谷家の三男だった瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんは大伯母にあたる須磨の瀬戸内家の養子となり、徳島市で神具店を経営していた。
東京ブギウギなどのヒット曲を持つ歌手の笠置シズ子さんが生まれた東かがわ市黒羽の三谷家本家も屋号を黒茂といい製糖業を営んでいた豪農だった。今は分家の孫黒茂の三谷製糖が東かがわ市馬宿で和三盆の製造を継続している。
※浄瑠璃
三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。
詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。
江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。
単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる。
◼️阿波風土記
🔹小杉榲邨(こすぎすぎむら) :
著書「阿波国徴古雑抄」。明治5年、『阿波古風土記考証』を出版した時、回収騒動に発展した。阿波風土記は現在、所在不明となっている。歴史上、不都合な事(記紀とは異なる事)が書かれていたと推測される。
例えば、播磨国風土記には宇治大君(=宇治天皇、ウジノワキイラツコ)の記載がある。応神天皇(竹葉瀬の君、宇佐家の末裔)の皇子 宇治大君が即位し、現在の宇治上神社と宇治神社がある場所に宮を置いていたが、後に仁徳天皇となる星川建彦の策略により宇治川にて暗殺された。現在の奈良県天理市の皇子村にいたウジノワキイラツコの息子(皇子)と親族たちは自分たちも殺されると思い瀬戸内海を渡り、讃岐国屋島東側の岬に身を潜めた。奈良県天理市の皇子村は庵治(おうじ)村と漢字を変え、高松市屋島東側を庵治(あじ)と呼んだ(庵治石で有名)。
讃岐国の庵治には皇子神社を建立し、現在もウジノワキイラツコの恐怖を忘れぬように船祭りのだんじりでは台座で白い死に装束に赤い血を表すタスキをかけて太鼓を叩く少年達を激しく揺らし回転させる。赤色は血を意味する。同じく高松市の鶴尾神社はウジノワキイラツコを祭神とし、裏山の石清尾山には多くの古墳が見られるが、これらはウジノワキイラツコの一族の古墳と推測される。
別の話しとなるが、天皇家に皇后を多く出した和邇氏も渡来して来た日本海側の痕跡を消されている。日吉神社と名前を変えられた和邇部神社も閉鎖された。一方、日本海側から渡来してきた新羅の王子だったアメノヒボコは、田道間守や神功皇后の先祖であるが、兵庫県の出石神社の祭神として今も土地の人達に崇敬されている。
🔹秦氏の居住地分布
但馬国 出石郡
🔹池辺真榛:
阿波出身の国学者。延喜式の研究を行っていたが、阿波の歴史についても深く知りすぎてしまい、その後、阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863年)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げた。
◼️『出雲と蘇我王国』斎木雲州著の中にも貸し出した古文書が再三返却依頼しても戻らなくなる例が書かれている。
日本の歴史に都合が悪い文書類を収集して、その内容を闇に葬る一団が存在する。
阿波風土記を始めとした日本各地から回収された古文書類はどこにあるのか? 宮内庁管轄の書庫に厳重に保管されていると推測される。 天皇家のルーツや記紀と異なる本当の日本の古代史が書かれてある古文書は東大の歴史学者たちにより偽書とされ、焚書とされる。
日本には記紀に書かれた神話の歴史とは異なる真の日本の成り立ちが隠蔽され続けている。 奈良時代に書かれ正史とされてきた歴史を今さら変えるわけにはいかないのだ。 国家権力が正史といったらそれが正史となるのだ。 歴史は勝者によって作られる。
本当の日本の成り立ちは大まかに言えば、縄文時代に住んでいた出雲族(ドラビィダ族、背が低く、手足が長い身体的特徴を持つ)、アイヌ人、琉球人らが大陸から渡来してきた大量の人たちによって征服され、同化していったと言うのが、大きな流れだ。 国津神系の人たちは出雲族、天津神系は大陸からやって来た人たちと言うことだ。
後から日本へやって来た人たちは、日本の原住民で自分たちに従わない人たちを土蜘蛛(背が低く、手足が長く洞窟生活を送っていた為、土グモと呼んだ)や蝦夷(エミシ)、鬼、隼人、熊襲などと蔑称し、武力により僻地へ追いやった。 東北弁(出雲弁)が話される地域と渡来人によって追いやられた人たちが住んだ地域 は一致する。またゲノム解析により縄文人の血を引く人は東北地方に多いという結果がでている。 和歌山県のナグサトベや東北の英雄 アテルイの話し、鬼退治の昔話など日本各地に原住民の伝承が残る。
🔹中国の歴史書には、倭人は入れ墨をしていたという記述があるが、縄文人は入れ墨の習慣があった。アイヌ人、琉球人、ドラビィダ系民族にも入れ墨の習慣があった。縄文時代の土偶にも入れ墨の紋様が見られる。
中国の歴史書には入れ墨をした中国周辺の民族(夷人、古越人、倭人など)の記述がたびたび見られることから、中国文明の周辺では入れ墨の文化が普及していたと考えられる。
弥生時代にあたる3世紀の倭人(日本列島の住民)について記した魏志倭人伝によると、邪馬台国の男はみな入れ墨をしていたという(「男子は大小と無く、皆黥面文身す」の記述)。
一方で中国では、先秦の時代から入れ墨は犯罪者を区別するために行われていた。
🔹縄文人の痕跡を現代人に探る ゲノム科学で迫る先史時代
縄文人の痕跡を現代人に探る ゲノム科学で迫る先史時代 – 日本経済新聞記事
🔹渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ
渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 日経サイエンス – 日本経済新聞記事