こんにちは。
トリリンガル讃岐PRオフィサーの森啓成 (モリヨシナリ)です。
今回は、私が新卒で最初に勤めた会社の新人研修中に同期の者たちと体験してしまった不可解な出来事と30年後に判明した事実についてです。
目次
- 【禁忌】土地の記憶――30年後に暴かれた、封印された古代の血脈と、その忌まわしき真実
- 199x年、新人研修で足を踏み入れた「異界」。それは、歴史の闇に葬られた血塗られた物語の序章だった――
- 消え去った光、響き渡る絶叫――そして「◯◯」の出現
- 責任者がひた隠したかった「過去」の断片
- 30年の時を経て明かされた「タブー」――あの丘は、◯◯だった…!
- 仁徳天皇の闇――「宇治大王」と和邇氏の血塗られた因縁
- 企業を呑み込んだ、抗えぬ「呪い」の末路
- 資料と地図
- 高松市庵治町にある皇子神社のだんじりの意味
- 『播磨国風土記』における「宇治天皇」の記述箇所
- 奈良県天理市庵治町と櫛山古墳(双方中円墳)
- 宇治神社(宇治宮)と奈良県天理市の庵治町
- 高松市西春日町の鶴尾神社の祭神
- 鶴尾神社と石清尾山古墳群の双方中円墳
- 小豆島の皇子神社、高松市庵治町の皇子神社
- 和爾賀皮神社、鰐河神社
- 高松市庵治町の皇子神社と高松市西春日町の鶴尾神社
- 鶴尾神社と和爾賀皮神社
- 全国の双方中円墳一覧
- ウジノワキイラツコの母は和邇氏出身の宮主宅媛 (みやぬしやかひめ)
- 年表
【禁忌】土地の記憶――30年後に暴かれた、封印された古代の血脈と、その忌まわしき真実
199x年、新人研修で足を踏み入れた「異界」。それは、歴史の闇に葬られた血塗られた物語の序章だった――
今から約30年前、私は新卒として入社した会社で、新人研修に臨んでいた。N県の研修所に約1ヶ月間、泊まり込みで様々な座学や実習を受ける日々。30名を超える同期たちと共に、未来への希望を胸に抱いていた。
研修期間中、私たちの宿泊場所は会社の研究所敷地内で3度ほど変更された。そして、研修も終わりに差し掛かった頃、私たちは3ヶ所目の宿泊施設へと移動した。その日は、日没後に研修施設へと到着したため、外は既に漆黒の闇に包まれていた。窓の外には、ぼんやりとだが「小さな山のようなもの」が見えたのを覚えている。5~6名に分かれて割り当てられた部屋は、8畳ほどの広さだった。
消え去った光、響き渡る絶叫――そして「◯◯」の出現
その夜、消灯時間が近づき、部屋の小さな木製机の上に置かれた卓上ライトの豆電球だけを残し、皆、眠りについた。静寂が支配する中、突如、ありえないことが起こった。
自然に消えるはずのないその豆電球が、フッと、まるで誰かの息吹に吹き消されたかのように、突然その光を失ったのだ。その瞬間、肌を粟立たせるような、言いようのない「妙な雰囲気」が部屋を覆った。そして、ほぼ同時に、隣の部屋から、悲鳴とも驚愕ともつかない叫び声が聞こえてきたのだ。
何事かと皆が飛び起き、部屋の電気を点けて隣の部屋へ駆けつけると、彼らもまた、「急にフッと電気が消えて、何かを見た」と口々に語った。彼らの証言によれば、それは「白く細長いモヤ(煙)のようなもの」だったという。
信じられないことに、別の部屋でも同じ現象が起きていた。電気が急に消え、得体の知れない「変な感覚」に見舞われたというのだ。どうやら、外にある小高い丘に面した3つの部屋で、全く同じ「異変」が同時に発生していたことが判明した。奇妙なことに、これら3部屋の廊下を挟んだ向かい側の部屋では、電気も消えず、何事もなかったという。つまり、私が眠っていた部屋と、その両隣りの部屋、計3部屋でだけ、その「現象」は起きたのだ。
その後、「不思議なこともあるもんだ」「気色悪いなぁ」「怖い、怖い」と皆が口々に言いながらも、なんとか恐怖を押し殺し、再び寝床についた。私もまた、眠りに入った。
深夜、何故か突然、目が覚めた。全身に張り付くような、冷たい悪寒。そして、左側に、はっきりと「気配」を感じた。体が動かない。金縛りだ。必死に眼球だけを動かし、左側を見た、その時――そこに、人がいた。足を趺坐(あぐら)の形に組み、静かに座っている。手は胸のあたりで合わせていた。どうやら目をつぶって、何か、お経のようなものを唱えているようだったが、耳には何も聞こえない。まるで、修行僧のような姿だった。不思議と全く恐怖感はなかった。何かをされるような気配もなく、ただ一心に、何かを唱え続けている。それがどれくらいの時間だったのか、私には分からない。その後、私は再び眠りについていたからだ。
責任者がひた隠したかった「過去」の断片
翌朝、起床して朝食の時、別の部屋の同期数名も、私と同じような、あるいは酷似した「不思議な体験」をしたと騒いでいた。朝食時に同席していた研修の責任者が、私たちの話を聞き、「昨夜、不思議な体験をした者は、朝食の後、別室に来るように」と指示した。
別室に集まったのは、私を含め6名。同じ体験をした者はもっといたのだが、ここに来たのは6名だけだった。研修責任者は私たち一人ひとりに、どんな体験をしたのかを尋ねた。皆がそれぞれの体験を語り終えた後、責任者は、私たちに「この件は外部には口外しないように」と、念を押すように言ったのだ。
「今後もこの研修施設には多くの社員が研修を受けに来るのだから、へんな噂がたっては良くない」――そう言っていたが、その言葉には、どこか「隠したい何か」があるように感じられた。そして、彼は、衝撃の事実を口にした。
「宿泊した部屋のあたりには、元々、祠があり、その祠を移動させて、この施設を建てた。」
さらに、彼は続けた。「以前にも、同じような現象が起きたことがある」と。その時の私には、あの「現象」も、そしてあの「修行僧」の姿も、全く恐怖を感じさせるものではなかった。むしろ、何か気高い、清らかなものを感じたほどだ。だから、私はその場所にかつていた人の「残像」が、時空を超えて現れたのだろう、くらいにしか思っていなかった。しかし、この研修責任者の言葉は、後に明かされる恐ろしい真実の、最初の断片だったのだ。
30年の時を経て明かされた「タブー」――あの丘は、◯◯だった…!
その後、私は大阪市内にある所属部署に配属され、日々の業務に追われる中で、あの奇妙な体験を思い出すことはなかった。
あれから30年以上が経ち、なぜかは分からないないが、私は、日本の古代史、特にヤマト政権の成り立ちについて強い関心を持つようになり、様々な書籍を読んだり、現地にも赴いている。
そして先日、何気なくGoogle Earthで、次に訪れてみようと思っていた古墳を見ていた時だった。私は、信じられない事実に、鳥肌が立つほどの衝撃を受けた。
30年前の新人研修で宿泊した建物から見えた「小さな山のようなもの」。あれは、ただの山ではなかったことが分かった。それは、巨大な古墳だったのだ。当時、私はそのことを全く知らなかった。そして驚くべきことに、その宿泊施設は、その古墳に接するようにして存在していた。
さらに調べていくと、その古墳は、藤原家以前に天皇家に多くの皇后を嫁がせていた、ある一族の古墳であることが分かった。
奈良県某市に位置し、天皇家に后妃を輩出し、古代ヤマト政権において絶大な力を持った古代豪族、和邇氏(わにうじ)の有力者の墓であるとされているのだ。
今、Google Earthで、あの宿泊施設を改めて見てみると、それは紛れもなく、その古墳の敷地だった場所に、建てられているのがわかる……。そして、研修責任者が言っていた「祠」。それは、古墳の「造り出し(つくりだし)」と呼ばれる部分で、かつて祭祀を行っていた神聖な場所のことだったのだ。
「造り出し」は、古墳において納棺後の祭祀(追善供養)を行うための場であったと考えられている。それは、故人を弔い、その魂を鎮めるための、現世と異界を繋ぐ境界線であり、決して侵してはならない領域であった。私たちが泊まった宿泊施設は、その聖なる場所を削り取って建てられていたのだ。
そして、あの夜、私の前に現れた「修行僧」のような姿。それは、その聖域で祭祀を行っていた、和邇氏の祭司の残像を見てしまったのではないだろうか……? この時、私の背筋を凍らせたのは、単なる怪奇現象ではなく、遥かなる古代からの土地の記憶だったのだ。
仁徳天皇の闇――「宇治大王」と和邇氏の血塗られた因縁
古墳、そして和邇氏。その間に、さらに恐ろしい因縁が浮かび上がってきた。それは、記紀(『古事記』と『日本書紀』)に描かれた応神天皇崩御後の皇位継承を巡る、血塗られた闇の歴史だ。
記紀では、応神天皇の皇太子であった菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が、兄である大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲り、最終的に自害したという「譲り合いの美談」が語られている。
しかし、『播磨国風土記』には「宇治天皇」という記述があり、これが菟道稚郎子を指すとされる。もし彼が実際に「天皇」、すなわち「宇治大王」として即位し、現在、宇治神社が建っている場所が宇治宮だったとすれば、記紀の美談は、真実を隠蔽するためのものだったことになる。
そして、この「美談」の裏に、皇位継承を争っていた仁徳天皇による菟道稚郎子の暗殺があったのではないかと言うことが推測できる。
この恐るべき仮説が事実だとしたら、その後の歴史は大きく変わる。菟道稚郎子の皇子(子)と、その母、そして和邇氏の一族は、菟道稚郎子が宇治川で暗殺された後、仁徳天皇の追手から逃れるため、奈良の「庵治(おうじ)」を離れ、遠く離れた讃岐国(現在の香川県)へと決死の逃避行を遂げた。

讃岐の地では、逃れてきた一族が菟道稚郎子を祀る神社を建立した。香川県高松市庵治町には、まさしく菟道稚郎子命を祭神とする「皇子神社(おうじじんじゃ)」がひっそりと佇む。そして、同じく高松市の「鶴尾神社(つるおじんじゃ)」もまた、菟道稚郎子を祀っている。全国的に見ても稀な菟道稚郎子を祭神とする神社が、なぜこの讃岐の地に集中しているのか。それは、この地に古代の血脈が逃れ、鎮魂を求めた動かぬ証しではないだろうか。

さらに戦慄すべきは、鶴尾神社の裏山に広がる「石清尾山古墳群(いわせおやまこふんぐん)」だ。この古墳群の中には、和邇氏の特徴的な「双方中円墳」が3基も存在する。あの宿泊施設が建てられた場所にあった古墳もまた、この珍しい双方中円形を呈すると形容される。この古墳こそ、仁徳天皇によって暗殺された菟道稚郎子の皇子が、和邇氏一族の手によって讃岐の地に密かに葬られた墓なのではないだろうか――。
つまり、あの研修施設は、仁徳天皇によって闇に葬られたとされる「宇治大王」の血族と、和邇氏の怨念が宿る、極めて神聖かつ危険な場所を侵していたのだ。
企業を呑み込んだ、抗えぬ「呪い」の末路
私が新人としてあの地で怪異を経験したのは199x年のこと。聖なる古墳の「造り出し」を削り取り、古代のタブーを冒涜した代償は、じわじわと、しかし確実に現れ始めた。
私はその企業を数年後に退職したのだが、その企業は、その後、業績悪化の一途を辿っていったのだ。そして、20xx年、ついにその企業は外国企業の子会社として買収され、その独立した歴史に幕を下ろした。
これは、単なる経営戦略の失敗だったのだろうか? それとも、聖域を侵したことへの、土地が持つ記憶からの「呪い」だったのだろうか。
今、Google Earthで見る、あの朽ち果てた建物は、私たちが見てはいけないものを見てしまい、触れてはいけないものに触れてしまった、忌まわしき過去の亡霊のように、静かに、しかし確かな存在感で、そこに佇んでいる。
土地は全てを記憶している。 そして、その記憶は、時として、無知な人間に、静かに、そして確実に、牙を剥くのだ。
この土地は、今もなお、何かを語り続けているのだろうか? そして、あなたは、その声が聞こえるだろうか?
資料と地図
※古墳に隣接して建設された建物

後円部の造出し部分が建物の建設により削り取られており、古墳の全体像は不明となっている。



造り出し部分は旧地形から判断して現存部分より6-7m長かったと推定されている。その削り取られた部分に祭祀場があり、私たちは時空を超えてその土地が持つ記憶の残像を見たのだろう。

高松市庵治町にある皇子神社のだんじりの意味
※【動画】庵治の船祭り。王之下だんじり。江の浦 練り。 この祭りのだんじりは、仁徳天皇の策略により、宇治川で乗っていた舟を激しく揺らされ川に落ち溺死した宇治大王(ウジノワキイラツコ)が味わった恐怖を忘れぬよう後世に伝える為にその場面を再現している。
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赤いタスキをつけた子供が激しく揺らされる。赤いタスキはウジノワキイラツコの血を表している。

※『播磨国風土記』に「宇治天皇」の記述があり、これは菟道稚郎子を指すものと見られています。
『播磨国風土記』における「宇治天皇」の記述箇所
『播磨国風土記』の飾磨郡(しかまぐん)の条に、「宇治天皇の世」という記述が登場します。
具体的な文脈としては、以下のような内容です。
- 「飾磨郡 飾磨御宅(しかまのみやけ)」の項に、「大雀(おほさざき)の天皇の御世に、人を遣りて、意伎(おき)・出雲・伯耆・因幡・但馬の五の国の造等を喚(め)したまひき。是の時に、五の国の造、すなはち召しの使もて水手(かこ)と為て、京に向かひき。これをもちて罪と為したまひ、すなはち播磨の国に退ひて、田を作らしめたまふ。」という記述があります。
- この記述に続けて、「宇治天皇の世に、この宅を定め賜ふ。」という形で、「宇治天皇」の記載が登場します。
つまり、『播磨国風土記』は、飾磨御宅の設置時期について、仁徳天皇(大雀天皇)の時代と、それに続く(あるいは関連する)「宇治天皇の世」に定まった、と述べている形になります。
記述の内容と意義
『播磨国風土記』における「宇治天皇」の記述は、事績や具体的なエピソードを伴わず、「宇治天皇の世」という形で、ある時期を示す表現として使われています。
この記述が重要なのは、以下の点です。
- 記紀との違い: 『古事記』や『日本書紀』では、菟道稚郎子は仁徳天皇に皇位を譲り、自害したとされており、正式に即位して天皇になったとは明記されていません。しかし、『播磨国風土記』に「宇治天皇」という明確な「天皇」の呼称で記されていることから、実際に彼が一時的にでも皇位に就いていた、あるいはそれに近い権力を行使していた可能性を示唆するものとして、研究者は注目しています。
- 「天皇即位説」の根拠の一つ: この「宇治天皇」の記述は、菟道稚郎子が実際に天皇として即位していたという「天皇即位説」の、有力な根拠の一つとされています。もし即位していたとすれば、記紀の「譲位の美談」は、後の皇統の正当性を確立するために、実際の歴史を修正・美化したものであるという解釈が生まれます。
- ヤマト政権の複雑な実態: 『播磨国風土記』の記述は、ヤマト政権初期の皇位継承が、記紀に描かれるような単純なものではなく、より複雑な権力闘争や複数の権力者の存在があった可能性を示唆していると解釈されます。
このように、『播磨国風土記』の「宇治天皇」の記述は記紀の記述と異なる視点を提供し、日本の古代史における皇位継承や初期のヤマト政権の実態を探る上で、重要な史料となっています。
奈良県天理市庵治町と櫛山古墳(双方中円墳)
※ウジノワキイラツコの皇子一族が住んでいた天理市庵治町と櫛山古墳(双方中円墳)。庵治は元は皇子と言う漢字を使っていたが、仁徳天皇(星川建彦)の策略によるウジノワキイラツコの殺害後、仁徳天皇による襲撃を恐れて漢字を変えた。
ウジノワキイラツコの母は和邇氏、父は応神天皇(竹葉瀬の君)。高松市西春日町の鶴尾神社にはウジノワキイラツコと応神天皇、応神天皇の母 神功皇后を祀る。神功皇后は辰韓の皇子 天日槍(アメノヒボコ)の子孫。天日槍(アメノヒボコ)は兵庫県の出石(いずし)神社に祀られ古墳が現存する。

宇治神社(宇治宮)と奈良県天理市の庵治町
※宇治天皇(ウジノワキイラツコ)が暗殺された宇治宮近くの宇治川、ウジノワキイラツコの皇子と母が住んでいた奈良県庵治

天理市の庵治町と和邇下神社

高松市西春日町の鶴尾神社の祭神
神功皇后 (応神天皇の母)
応神天皇 (ウジノワキイラツコの父)
ウジノワキイラツコ

鶴尾神社と石清尾山古墳群の双方中円墳
※鶴尾神社裏にある石清尾山古墳群。双方中円墳が3基もある。

小豆島の皇子神社、高松市庵治町の皇子神社
※ウジノワキイラツコの皇子と母、和邇氏一族が、奈良県庵治から讃岐へ逃れる際に立ち寄った、或いは一部の者たちが住んでいた小豆島の皇子神社、高松市庵治町の皇子神社



和爾賀皮神社、鰐河神社
和爾氏の一部の者は、現在の三木町に移動し、和爾賀皮神社、鰐河神社を創建した。


高松市庵治町の皇子神社と高松市西春日町の鶴尾神社

鶴尾神社と和爾賀皮神社

全国の双方中円墳一覧
双方中円墳 – Wikipediaja.m.wikipedia.org

ウジノワキイラツコの母は和邇氏出身の宮主宅媛 (みやぬしやかひめ)

年表
歴史上の年代は、特に古墳時代以前については諸説あり、確定的なものではない点にご留意ください。
上記の記事の時代的流れは、
応神天皇崩御
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宇治天皇 (菟道稚郎子: ウジノワキイラツコ)即位 (宇治宮: 現在の宇治神社)
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仁徳天皇による宇治天皇(菟道稚郎子)の暗殺
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菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子と和邇一族の讃岐への移動
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仁徳天皇即位
↓
和邇氏一族が讃岐で皇子神社、鶴尾神社、和邇賀皮神社、鰐河神社を創建
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和邇氏一族が石清尾山に双方中円墳を築造
- 応神天皇崩御:
- 『日本書紀』では310年(応神天皇41年)とされます→4世紀前半
- 仁徳天皇即位:
- 『日本書紀』では313年(仁徳天皇元年)とされます→4世紀前半

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧 – Wikipediaja.m.wikipedia.org
- 赤土山古墳築造:
- 4世紀後半(古墳時代前期後半)
- 櫛山古墳築造:
- 4世紀前半〜後半(古墳時代前期後半)
- 石清尾山古墳群 猫塚古墳築造:
- 4世紀前半
- 石清尾山古墳群 鏡塚古墳築造:
- 4世紀前半
- 石清尾山古墳群 稲荷山北端1号墳築造:
- 石清尾山古墳群全体としては3世紀末〜7世紀初頭にわたりますが、稲荷山北端古墳は双方中円墳であり、猫塚古墳や鏡塚古墳と同様に4世紀前半頃の築造と推定されることが多いです。
- 三木町 和爾賀皮神社創建:
- 創建時期は不詳とされています。社伝では豊玉比売命が鰐に乗って上陸したと伝えられます。