【タブー】「東京ブギウギ」の作詞家 鈴木勝さんはバイリンガル、3度の結婚、波瀾万丈の人生! 仏教学者 鈴木大拙博士の子息! 妻の池真理子さんが「東京ブギウギ」の歌詞の大部分を作詞したのか?

◼️鈴木 勝(すずき まさる) とは?

別名: 鈴木アラン勝

1916年7月7日 – 1971年6月27日

日本の作詞家。

「東京ブギウギ」の作詞家として知られる。 

養父は鈴木大拙。

通称・アラン。

筆名にビクター・ベルウッドなど。

◼️略歴

出生の詳細は不明だが、スコットランド人の父と日本人の母のハーフとする説がある。

鈴木大拙と妻のベアトリス・レイン・スズキは勝を実子として届けているが、大拙の日記や書簡などから養子であることが明らかにされている。

鈴木大拙博士

ベアトリス・レイン・スズキ

鈴木家にもらわれた日を戸籍上の誕生年月日としているが、実際にはその時点で生後1年くらいだったと言われ、鈴木家遺族によると、三越の断裁師のスコットランド人が日本女性に産ませた私生児ではないかとされる。

真宗大谷派の小学校を経て、1929年に京都府立京都第三中学校に入学し寮生活を始めるが、素行の悪さに手を焼いた大拙によって1931年に高野山中学に転校させられるも暴力事件を起こし、停学処分を受けたが、大拙の嘆願書により1934年に卒業し、同志社大学に進学。

日本語と英語のバイリンガルであり、1936年、1937年と第3回と第4回の日米学生会議の代表に選ばれ、参加している。

このとき知り合った東京女子大生の久保ノブと1939年に結婚し一女を儲けるも、他の女性を妊娠させる事件を起こす。

大学卒業後はジャパンタイムズを経て1942年に同盟通信社に勤務し、特派員として妻子とともに上海に赴任、終戦により1945年に帰国、英文雑誌の記者のほか、上海で親しくなった服部良一の紹介でコロンビアレコードにも出入りしはじめる。


1947年に発表された「東京ブギウギ」は、勝のアイデアを元に当時の妻(勝は再婚。1959年離婚)で歌手の池真理子が作詞したとされる。

作曲者の服部によると、勝の持ってきた作詞が気に入らず、二人でさらに手直ししたという。


その後も書籍や歌の翻訳や映画の字幕、通訳など、語学力を生かした仕事を続け、三度めの結婚もし、日米を行き来し仕事をしていたが、1961年に未成年のバーの女給を監禁し強姦したとして逮捕され、「昭和最大の不肖の息子」などと週刊誌で報道される。

大拙はかねてより勝の酒癖の悪さに心を痛めていた。

果たして三人目の妻とも離婚したが、1970年に咽頭癌で入院したのをきっかけに、成長した娘の池麻耶とも再会し、入退院を繰り返したのち1971年に娘に看取られ、亡くなった。

◼️家族

🔸3回結婚している。

子供は婚外子も含めて3,4人いたと言われる。

🔸最初の妻の久保ノブは法学者の久保久治の娘で日米学生会議で滞米中に知り合い、一女を儲けたが、勝が二番目の妻となる歌手の池真理子と一緒になったため離婚し、娘とともに渡米。

🔸池真理子は東山ダンスホールで勝と知り合い、一時英語を習っていたが、戦後コロンビアレコードのビル内で偶然再会し、一女を儲けた1951年に入籍したが、その半年後に勝が三番目の妻となる式場美香子と一緒になったため離婚。娘は実業家・教育家の池麻耶。

🔸式場美香子は式場隆三郎の娘で、人妻だったが、1953年に勝と入籍、1965年に離婚。

◼️主な作品

🔸池真理子「スヰング娘」作曲:平川英夫

🔸笠置シズ子「東京ブギウギ」作曲:服部良一

🔸服部シスターズ「ブギー・カクテル」黒澤明、藤浦洸と共作詞、作曲:服部良一

🔸映画「果てしなき情熱」挿入歌「ブギカンタータ」作曲:服部良一

🔸映画「踊る龍宮城」挿入歌「さよならワルツ」作曲:レイモンド服部

◼️2人目の妻 池真理子さん

🔸ヒット曲「愛の散歩」は仮題は「まり子ブギ」というものであったが、何らかの事情から改題発売/延期となった。

吹き込みは笠置シヅ子の「東京ブギウギ」発売前であり、もし諸事情がなければ「ブギの女王」は笠置では無かった可能性がある。

なお「愛の散歩」作曲の平川英夫は、服部良一の高弟である。

🔸「東京ブギウギ」作詞時、夫であった鈴木勝がなかなか詞が書けず、池が手伝い、曲を聴きながら大部分を作詞した。

◼️池真理子さん 愛のスイング

◼️「東京ブギウギ」とは?

鈴木勝の作詞、服部良一の作曲、笠置シヅ子の歌唱により、1947年発表(ただしレコード発売は翌年1月)されてヒットしたブギのリズムによる日本の歌謡曲。

「青い山脈」「リンゴの唄」などと並んで、終戦直後の日本を象徴する曲として有名。

◼️概要

1947年12月公開の日本映画「春の饗宴」劇中歌。

東京ブギウギの大ヒットは、当時笠置が10月14日から翌月まで公演を行っていた「踊る漫画祭・浦島再び竜宮へ行く」(日劇)の挿入歌として歌われたことがきっかけとされている。

ただし、この曲が最初に歌われたのはそれ以前の9月、大阪の梅田劇場(現・HEP)でのことであった。

作曲した服部は、電車に乗っている時レールのジョイントの音と吊革の網棚の淵に当たる音からメロディを思いつき、急ぎ駅を降り飛び込んだ喫茶店のナプキンに書いた。

ただし、小川寛興の証言では、楽譜を紛失した服部が記憶をもとに書き直したものとしている。

なお、笠置の吹き込み時にはスタジオに米軍関係者も詰めかけ、彼らの声援の中大乗りの雰囲気で行われた。

当時、歌手は直立不動で歌うのが通例であったが、笠置は舞台上をダイナミックに動き回りながら歌い踊っており、その姿は戦後の解放的な気分の反映であるとされた。

発売当時のレコード売上は27万枚を記録した。

1968年時点での累計売上は70万枚。

このあと「大阪ブギウギ」・「名古屋ブギウギ」などご当地ブギが作られた。

NHK紅白歌合戦では、1953年12月の第4回で笠置によって歌唱されている。

1993年の第44回では「服部良一メドレー・紅白バージョン」の一節として少年隊が、2005年の第56回では松浦亜弥が本楽曲を歌唱した。

日本音楽著作権協会(JASRAC)の著作権使用料分配額(国内作品)ランキングでは、2012年度と2013年度の2年連続で年間4位、2014年度の年間5位、2015年度の年間8位と4年連続でトップ10入りを記録した。

また、アメリカでもColumbiaから笠置シヅ子が歌ったものが、Tokyo Columbia Orchestra名義で45回転のシングルレコード(レコード番号Columbia 4-39954)として発売されている。

笠置シヅ子は1955年にこの曲を再録音している。この再録音版は1974年にステレオ化された。

1976年に公開された映画『犬神家の一族』に、劇中この曲が流れるシーンがある。

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