【香川県のワニ信仰11】讃岐に祀られる倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ) の正体は? 記紀、社伝、ホツマツタエ、伝承からの推論! 出雲王家口伝に伝わる百襲姫は? 水主神社の謎とは?

🟣【古事記・日本書紀】に見る倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)とは?

名前の意味は?

『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。

名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。

百襲姫という名は数々の勲功をあげたこと(襲は勲功の意味)によるもので、実際に「日本書紀」の記述にも、百襲姫はたいへん聡明で英知に長け、霊能力が優れていたと記されている。

なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。

また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。

生まれた時期と亡くなった時期は?

崇神(すじん)天皇の治世時期が、3世紀後半と推定すると、倭迹迹日百襲姫は、日本書記で崇神天皇の治世を助けた記述があることから、2世紀晩期〜3世紀前半ごろに生まれ3世紀後半頃に亡くなったと推測される。西暦200年代を生きたと推測される。弥生時代晩期から古墳時代初期。

生まれた場所は

「黒田庵戸宮」(くろだのいおどのみや)(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺)とされる。

孝霊神社: 奈良県磯城郡⽥原本町⿊⽥262

亡くなった場所は?

日本書記の崇神天皇の治世を助けたとの記述や箸墓古墳に葬られたとされることから奈良県桜井市。

宮内庁により、奈良県桜井市の箸墓古墳に葬られたと治定(じじょう)される。

縄文時代

始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に1万6000±850年前と考えられている。終期は概ね約3000年前 とされる(諸説あり)。

弥生時代

紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代

古墳時代

弥生時代に続き,大和朝廷が日本国家の統一をなした3世紀後半―7世紀の時代。多くの大型古墳が造られたことは,鉄器の普及と農耕生産の向上に伴い社会的身分の差が生じたことを意味するとされる。

箸墓古墳(はしはかこふん)

3世紀後半に築造された奈良県桜井市箸中にある古墳。形状は前方後円墳。実際の被葬者は不明だが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている。

また、笠井新也の研究以来、邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかとする学説がある。周濠部分は国の史跡に指定されているほか、一部が「箸中大池」としてため池百選の1つにも選定されている。百襲姫の陰部に箸が突き刺さり、絶命したことが名前の由来である。

日本書記にある倭迹迹日百襲姫の記述

『日本書紀』崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳)に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという。

同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰(穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神(大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命と市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される。


また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を殺せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。

大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという。この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。

崇神天皇

実在した可能性のある最初の天皇とする説があり、考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半と推定される。

稚日本根子彦大日日天皇(開化天皇)の第二皇子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)で後の物部氏の系譜に連なる。異父兄に彦太忍信命(磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王(神功皇后の祖)。19歳で皇太子となる。

父帝が崩御した翌年の1月13日に即位。2月16日に従妹の御間城姫を皇后とし、活目命(後の垂仁天皇)や倭彦命らを得た。即位5年から7年にかけて疫病が流行したが、大物主神を祀ることで治めた。即位10年、武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の反乱を鎮め、四道将軍を各地に派遣した。即位12年に戸口を調査して初めて課役を科したことで御肇国天皇と称えられている。即位65年、任那から朝貢があった。即位68年、崩御。

●邪馬台国

邪馬台国は、2世紀~3世紀に日本列島に存在したとされる国のひとつ。邪馬台国は倭女王卑弥呼の宮室があった女王国であり、倭国連合(邪馬台国連合)の都があったとされている。

🟣【百科辞典】に見る倭迹迹日百襲姫

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)

記・紀にみえる孝霊天皇の皇女。

母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。

「日本書紀」によれば、崇神(すじん)天皇7年三輪(みわ)山の大物主(おおものぬしの)神のおつげをつたえ、10年武埴安彦(たけはにやすひこの)命の謀反(むほん)を予言。

のち結婚した大物主神の正体が小蛇と知っておどろき、夫の怒りをかう。

後悔してすわりこんだとき、箸(はし)で陰部をついて死んだ。

墓を箸墓という。

別名に倭迹迹姫命。「古事記」では夜麻登登母母曾毘売命。

出典 : 講談社 デジタル版 日本人名大辞典

倭迹迹日百襲姫命 (やまとととびももそひめのみこと)

《日本書紀》に登場する巫女的な女性。

《古事記》では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。

謀叛の予見,神憑りによる神意の伝達などで崇神天皇を助けたとある。

姫は蛇体の大物主(おおものぬし)神の妻となるが,その正体に驚いて夫の怒りをかい,後悔のあまり箸で陰部を撞いて死ぬ。

よって姫の墓は箸墓(はしはか)とよばれた。

奈良県桜井市にある大規模な前方後円墳がそれだといわれる。

姫を邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)に比定する説もあるが,ともあれ大古墳の主という伝承自体,当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。

出典 : 世界大百科事典 第2版

🟣【水主神社社伝】香川県東かがわ市 水主神社

水主神社(みずしじんじゃ): 香川県東かがわ市にある、倭迹々日百襲姫命を祀る神社。式内社で、旧社格は県社。

●境内案内図

本殿右手には、祭神の母・倭国香姫命を祀る国玉神社。本殿後方には、祭神の父・孝霊天皇を祀る孝霊神社がある。

境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、 山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多 くの文化財が納められている。

国の重要文化財として、木造御神像3躯(倭迹々日百襲姫命坐像・倭国香姫命坐像・大倭根子彦太瓊命坐像)、木造男神坐像1躯、木造女神坐像4躯、木造狛犬1対、雷文螺鈿鞍がある。県文化財として木造狛犬と文安5年奉納の木造獅子頭がある。

水主神社で購入したお神札

・大水主大明神

水主神社の由緒書きに見る倭迹迹日百襲姫

水主神社(延喜式内社)

御祭神 倭迹々日百襲姫命(日本書紀)

夜麻登々母々曽毗売命(古事記)

◎倭迹々日百襲姫命

奈良県黒田慮戸(現在の奈良県磯城郡田原本町黒田)に居を定める。御年七才より黒田を出、八才にして水主宮内に着き給う。成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆成し水徳自在の神と称へられ奈良時代にはすでに神社形成をなしていた。

◎水主三山(熊野三社)

山嶽信仰 増吽僧正が遷宮すると伝えられる。

  • 新宮神社(虎丸山)御祭神 伊邪那美命(国生冥界との深き神)
  • 本宮神社(本宮山)御祭神 早玉男命(禊祓を司どる神)
  • 那智神社(那智山)御祭神 事解男命(龍神㈬・食物豊穣を司どる神)

◎水神社 御祭神 水波女命(井戸を司どる神)

◎水主神社別当寺 大水寺(開基は不詳)

水徳山宝珠院神宮寺 寛文年中に大水寺と改める。

本尊は 阿弥陀如来(円光寺へ)

不動明王、二童子(与田寺へ)

十一面観音(坂出・観音寺へ)

  • 江戸末期まで、神仏混合
  • 明治元年三月、神仏分離令
  • 明治二年二月二十五日、正式に廃寺となる。

◎伝教大師 最澄(七六七~八二二)

延暦九年(24才の時)水主神社・大水寺に参籠する。

比叡山延暦寺創建す。(22才の時)天台宗

◎弘法大師 空海(七七四~八三五)

水主神社境内地於て閼伽井水を堀り水主神社に奉献する。(現在の閼伽谷の井戸)

高野山金剛峯寺・善通寺・真言宗

弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹迹日百襲姫は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。


姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。


境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは 縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。


社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。


與田寺へ向う途中の弘海寺付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え、「チンチン同しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか。」とこどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました

昭和61年3月  香川県」

境内にある天磐船(うつぼ船)

「社伝によると今から二千有余年前 水主神社御祭神倭迹々日百襲姫命都皇居今の奈良県桜井市黒田幼き頃より神意を伺い、まじない、占い、智能のすぐれた御方と言われ都皇居に於いて塵に交なく人もなき皇居の黒田を出られお船(うつぼ船)に乗りまして西へ西へと波のまにまに播磨灘今の東かがわ市引田安堵の浦に着き水清き所を求めて今の水主の里宮内にお着きになり住われ(ここを大内と言う)土人に弥生米をあたえて米作り又水路を開き雨祈で雨を降せ文化の興隆をなされた御人といわれる。水主神社社務所」

●平成に東かがわ市に変わるまで水主神社があるあたりの地名を「大内(おおち)」と言った。大内郡から大川郡大内町、そして東かがわ市へと変わった。

大内と言う名は百襲姫が住んでいた住居を付近の人たちが「大内」と称したことに由来する。

🟣【高松市・船山神社の社伝】に見る倭迹迹日百襲姫

🟣【讃岐の一宮 高松市・田村神社】に見る倭迹迹日百襲姫

🟤水主神社、船山神社、田村神社の社伝や記紀、その他の伝承から推測される倭迹迹日百襲姫の正体は?

推論1、水主神社、船山神社の社伝にある通り、実際に讃岐に来ていた巫女的存在の姫。奈良でのヤマトの大乱を避けて讃岐に派遣されて来た。水主神社や田村神社がある一帯の水路開拓、農業発展に繋がった。

ヤマトトトヒモモソヒメは、大和の、脱魂型の巫女、多くの勲功があった姫と言う意味となり、複数いても不思議ではない。また、複数の姫のエピソードが融合されている可能性もある。

よって箸墓古墳に眠るとされる倭迹迹日百襲姫とは別の倭迹迹日百襲姫が讃岐の土地に来ていた可能性がある。水主神社近くには、姫の御陵があるし、宮を置いた船岡山自体が古墳であり、倭迹迹日百襲姫は被葬者である可能性がある。

推論2, 中央(奈良)から派遣された農業水利技術集団が崇拝していた巫女或いはその集団のシンボルとして水神 倭迹迹日百襲姫を祀った。ひとつの可能性として、倭迹迹日百襲姫は、弥生時代に中央(奈良)から派遣された先進的な農業水利技術をもつ集団が崇拝する巫女、或いはその集団を象徴する シンボルではなかっただろうか?

奈良から水主の土地にやって来て、水路を開発し、灌漑と稲作の技術を伝え、水主一帯の農業発展に大いに貢献し民を潤したとすれば、その集団は、土地の人からすると崇める対象になったであろう。

水主の土地に住む者が、その技術集団のシンボルとして、その集団が崇拝していた巫女 倭迹迹日百襲姫を祀ったのかもしれない。

水主一帯では、現在も、大内ダムが豊富な水源となり、水主米と言う美味しいブランド米が作られている。

🟣水主神社の謎 1

境内の神陵の由緒は?

水主神社の社務所前にある神陵は、どのような背景で祀られているのか?

『古今讃岐名勝図絵』

「今を去る百年ばかり前、大水主の社僧疑を発し、潔斎沐浴して一七日ここへ参籠し陵を掘り返せしに、下に石棺ありけるを見てたちまち心気恍惚として人事を覚えず、やや久しくして目を開き見れば元の如く土埋めありしとなり。ここにおいて世々の住僧も伝へ聞いて尊敬しけると古老いへり」

=> この説明の真意は? 石棺が出て来たのが、真実であれば誰が埋葬されていたのか? 倭迹迹日百襲姫か? ホツマツタエにあるように、倭迹迹日百襲姫は三人いたのか? 姉二人は水主の地で亡くなり、妹がその後、高松に移り住み百襲姫となったのか?

🟣水主神社の謎 2

山上にある姫の御陵に埋葬された人物とは?

水主神社境内の山上には、姫の御陵があるが、そこに埋葬されているのは倭迹迹日百襲姫なのか? 倭迹迹日百襲姫は宮内庁により、奈良県桜井市の箸墓古墳に埋葬されたと治定されているが、、。

水主神社が所蔵する「大水主大明神和讃」によると「そもそも当社は当国(讃岐国)の一品一の宮なるべきを御妹に禅[ゆず]りまし」とある。

倭迹迹日百襲姫には妹がいて、倭迹迹日百襲姫(姉)は水主の土地で亡くなり、山上に埋葬された(古墳が残る)のか?

倭迹迹日百襲姫(妹)は、姉亡き後、水主の土地から高松の船岡山へ移り、その後、現在の田村神社がある土地に宮を置き地元の農業発展に貢献したのか?

🟣水主神社の謎 3

水主神社の和讃の最後にある「そもそも当社は当国(讃岐国)の一品一の宮なるべきを御妹に禅[ゆず]りまし」とは倭迹迹日百襲姫の妹に譲ったと言う意味か? 現在の香川県の一の宮 田村神社に譲ったのか?

「水主神社」に所蔵されている「大水主大明神和讃」とは?

応永十七年(1410年)増吽(ぞううん)僧正が作ったと伝えられ、明応五年四月
五日、僧宥旭(ゆうきょく)が書写した後、さらに高松無量寿院にあった一巻を同寺住職の増進(ぞうしん)が延宝五年(1677)に書写して水主神社へ納めたもの。

日本書紀や古事記には、倭迹迹日百襲姫に妹がいたと言う記述はない。しかしながら、倭迹迹日百襲姫と言う名称は、ヤマトのトトヒ(鳥飛: 脱魂型の巫女)、モモソ(多くの勲功があった)姫と言う意味であるから一般名詞としてとらえると、複数いても不思議ではない。

水主神社が所蔵する「大水主大明神和讃」の記述や姫の御陵、神陵の存在から推測されることは、倭迹迹日百襲姫は三人おり(或いは三つ子)、姉二人が水主の地で亡くなり、或いは、一人は水主の御陵、一人は船岡山古墳に埋葬され、妹が、倭迹迹日百襲姫として後世に伝えられたのかもしれない。

🟣【ほつまつたゑ】の記述

『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子生む 名は皆ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』32文

ホツマツタエには、3つ子を産むとある。

記紀では倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)。モモソ姫とトト姫が一緒くたになっているのか??

🟥【2022/6/14記】実は、2022年5月頭に現地調査を終え、上記の記事と推論を書いたのだが、その後、書店に注文していた出雲王家末裔の口伝「出雲王国とヤマト政権」が届いた。その口伝にある倭迹迹日百襲姫は、記紀や社伝に書かれていることとは全く違った内容となっている為、記事内容が混乱すると思い、出雲口伝の内容をここで紹介するかどうか、色々考えていたのだが、口伝にも倭迹迹日百襲姫の幼少の頃のことは書かれていない為、紹介することにする ↓

🟣【出雲王家口伝】「出雲王国とヤマト政権」 (大元出版)

出雲王国の王家である登美家 末裔の口伝では、倭迹迹日百襲姫は、登美家の分家 太田家の娘であり、孝霊天皇の皇女ではない。

吉備津彦命とワカタケヒコは、倭迹迹日百襲姫の弟ではなく、父のフトニ大王 (孝霊天皇)と共に出雲に攻め入り出雲族を降伏させた。

吉備津彦命は、岡山県の吉備津彦神社、吉備津神社に祀られている。

出雲の口伝では、倭迹迹日百襲姫は纏向遺跡の辺り(登美家の分家である太田家の領地)で祭祀を行った。そして、倭迹迹日百襲姫の世話をしたのが、八咫烏と呼ばれた太田タネヒコである。彼が三輪山の祭主となり、倭迹迹日百襲姫が巫女となり三輪山西部で祭りごとを行いヤマトに平和をもたらした。その事が魏志倭人伝にも書かれている。

太田タネヒコは、物部の九州からヤマトへの第一次東征の時、大乱の世の中にあったヤマトを鎮めるため物部を利用しようと考え、和歌山から奈良へと案内し導いたため、八咫烏、トビ(登美家)の案内と呼ばれる。

物部の第一次東征は、倭迹迹日百襲姫の巫女的カリスマ性により、民衆の心を掴めず失敗に終わる。

その後、物部は、第二次東征では宇佐家の豊玉姫、娘の豊姫(台与)を巫女としてヤマトに攻め入り東征に成功した。

↓ 田村神社の境内にあり違和感を覚える八咫烏の像の真の意味は、その隠された事実(倭迹迹日百襲姫とその世話をした八咫烏の太田タネヒコ)を暗に表しているのではないか‼️ 田村神社は秦氏が創建した神社である。

魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は二人の巫女が融合して書かれている。

一人は箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫。

もう一人は、(香川県三木町の和爾賀波神社や鰐河神社、男木島などに祀られる)豊玉姫。

豊玉姫は、大分県の宇佐家の娘で、物部氏と組み、ヤマトに攻めたが、奈良への途中、広島辺りで亡くなり、後に娘の豊姫(台与)が、ヤマトを治めた。豊玉姫の夫は、イニエ大王である崇神天皇。崇神天皇は一度も奈良の地には足を踏み入れていない。

大分県の宇佐神宮には古墳があるが、豊玉姫が埋葬されている。

●魏志倭人伝に見られる卑弥呼は、桜井市の出雲王家 登美家の分家の娘 倭迹迹日百襲姫と大分の宇佐家 豊玉姫が融合されて書かれている。

桜井市の三輪山の祭主が太田家の太田タネヒコ、姫巫女が、倭迹迹日百襲姫。

記紀にはモモソ姫はフトニ大王(孝霊天皇)の娘とされているが、太田家の娘。

この姫巫女(ヒメミコ)が魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」と書かれた。

239年に魏へ使いを出して100枚の鏡を受け取った「邪馬台国」の卑弥呼は倭迹迹日百襲姫ではなく、宇佐家の豊玉姫。

太田家の領地は、纏向遺跡(まきむくいせき)と呼ばれている。倭迹迹日百襲姫は纏向遺跡に住んで祭りごとを行なった。

🟣香川のワニ信仰1-11


【香川県のワニ信仰1】金毘羅さんはワニの神様! ゾウ(ガネーシャ)を祀る八栗寺の聖天堂! 主祭神がワニに乗って来た三木町の和爾賀波神社と鰐河神社! ワニの正体は? 神武天皇の父が生まれた屋島の鵜羽神社! 

【香川県のワニ信仰2】金毘羅(こんぴら)さんはワニの神様! 祭神の大物主神は大国主神で大黒天の起源はシヴァ神! 象頭山に鎮座し境内にゾウの像! インドから移住してきた出雲族が支配! 

【香川のワニ信仰3】香川のワニ信仰(水神)を追う! 高松市田町商店街の琴平神社(祭神:大物主神、蛇神、水神、雷神。元は金毘羅大権現=インドのワニの神様クンピーラ神)! 

【香川県のワニ信仰4】高松市屋島 鵜羽神社(うのはじんじゃ)は神武天皇の父が生まれた場所! 軒下の木鼻はゾウの彫刻! 境内遺跡から製塩用の「炉」や1-7世紀の土器片も発見された!

【香川県のワニ信仰5】出雲族の足跡を追う! 香川県高松市屋島の鵜羽神社近くの 八坂神社訪問! 御祭神: 須佐之男命 スサノオノミコト (出雲系国津神、大国主命の先祖? 徐福? 饒速日? インド神話のインドラ神の化身 牛頭天王?)

【香川県のワニ信仰6】インドのワニ神 クンピーラ(金毘羅)に乗った女神ガンガーとは? 三木町の鰐河神社と和爾賀波神社の祭神 豊玉姫はワニに乗ってやって来た!

【香川県のワニ信仰7】出雲族はいつ頃、なぜインドから出雲に来たのか? ドラヴィダ人とは? DNA鑑定は? 他の伝承には出雲族の移住について残っていないのか?

【香川県のワニ信仰8】金刀比羅宮の祭神 大物主神の正体は? 出雲族が象頭山に行宮しワニ神クンピーラを祀ったのが起源で、そこが琴平神社になったのではないか?


【香川県のワニ信仰9】出雲王家末裔の口伝「出雲王国とヤマト政権」を紹介した動画! 口伝書の内容とは?

【香川県のワニ信仰10】讃岐に祀られる豊玉姫と倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ)と卑弥呼の関係は?

【香川県のワニ信仰11】讃岐に祀られる倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ) の正体は? 記紀、社伝、ホツマツタエ、伝承からの推論! 出雲王家口伝に伝わる百襲姫は?

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