【香川県のワニ信仰6】インドのワニ神 クンピーラ(金毘羅)に乗った女神ガンガーとは? 三木町の鰐河神社と和爾賀波神社の祭神 豊玉姫はワニに乗ってやって来た!

🟣ここまでの香川県のワニ信仰推論

まず、出雲王国の末裔 富家の口伝によると出雲族は、インドにルーツを持つドラヴィダ人(縄文人)

4000年以上前にアーリア人の侵攻を受けクナ国のクナト王に率いられてシベリアを経由して北海道に辿り着き、日本海を南下して砂鉄の取れる川がある出雲にやって来た。「出雲王国とヤマト政権」富士林雅樹著

【推論】私が推測するに、出雲族の大国主命の一団は、出雲王国の勢力範囲を広げるべく瀬戸内海を渡海→屋島西の鵜羽神社辺りに辿り着く→新川を遡り三木町の鰐河神社、和爾賀波神社あたりへ移動→三木町辺りから琴平町へ宮を置く場所を求め象頭山へ辿り着き行宮→屋島から琴平町象頭山へ移動する過程で、インドでの信仰の影響を受けていた出雲族(=ドラヴィダ人)は、水不足で悩むこの一帯に水神であるワニを神格化したクンピーラ(金毘羅)を祀っていったのではないだろうか。

その後、ワニ神 クンピーラは、日本には馴染みのないワニであった為、蛇神、龍神へと変化した。

屋島から三木町、琴平町一帯には異様に金毘羅(クンピーラ神)、出雲系国津神の大物主神を祀る神社が多い。大物主神は蛇信仰の三輪山にも祀られている。出雲大社は龍蛇信仰。

香川県木田郡三木町の鰐河神社、和爾賀波神社の社伝に伝わる祭神の豊玉姫がワニに乗って来て鎮座したと言う由緒は、インドでの信仰の影響を受けていた出雲族(=ドラヴィダ人、縄文人)がもたらしたクンピーラ(ワニ)に乗った女神ガンガーを表すと推測記紀の神話にある豊玉姫の神格は鰐神、龍神、真珠、巫女であり、インドの女神ガンガーとワニ神 クンピーラの影響を受けている。

🟣出雲族の一団の移動ルート: 出雲→屋島 鵜羽神社辺り→鰐河神社→金刀比羅宮のある象頭山

●象頭山の位置

●象頭山

🟣香川県のワニ信仰1-5

【香川県のワニ信仰1】金毘羅さんはワニの神様! ゾウ(ガネーシャ)を祀る八栗寺の聖天堂! 主祭神がワニに乗って来た三木町の和爾賀波神社と鰐河神社! ワニの正体は? 神武天皇の父が生まれた屋島の鵜羽神社! 

【香川県のワニ信仰2】金毘羅(こんぴら)さんはワニの神様! 祭神の大物主神は大国主神で大黒天の起源はシヴァ神! 象頭山に鎮座し境内にゾウの像! インドから移住してきた出雲族が支配! 

【香川のワニ信仰3】香川のワニ信仰(水神)を追う! 高松市田町商店街の琴平神社(祭神:大物主神、蛇神、水神、雷神。元は金毘羅大権現=インドのワニの神様クンピーラ神)! 

【香川県のワニ信仰4】高松市屋島 鵜羽神社(うのはじんじゃ)は神武天皇の父が生まれた場所! 軒下の木鼻はゾウの彫刻! 境内遺跡から製塩用の「炉」や1-7世紀の土器片も発見された!

【香川県のワニ信仰5】出雲族の足跡を追う! 香川県高松市屋島の鵜羽神社近くの 八坂神社訪問! 御祭神: 須佐之男命 スサノオノミコト (出雲系国津神、大国主命の先祖? 徐福? 饒速日? インド神話のインドラ神の化身 牛頭天王?)

🟣インドの女神ガンガーとは?

ガンガー(Gaṅgā, गंगा, 恒河(ごうが))

ヒンドゥー教に伝わる、ガンジス川を神格化した女神。

インドでは川自体も「ガンガー」と呼ばれ、「ガンジス」は英語からの借用である。

「母なるガンガー(Gangamataji)」とも呼ばれる。

乗り物(ヴァーハナ)はワニのクンビーラ。

夫は、シヴァあるいはヴィシュヌ。

ガンジス川(ガンガー)は現在でも「聖なる川」としてヒンドゥー教徒の信仰の対象であり、この川の水で沐浴すればすべての罪は浄められ、死後の遺灰をこの川に流せば永遠に繰り返される輪廻から解脱できると信じられている。

●Gaṅgā – The Sacred River

クンピーラに乗った女神 ガンガー

🟣クンピーラ神とは?

クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。

クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、讃岐国象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)では海上交通の守り神の金毘羅大権現として信仰されてきた。

特に舟乗りから信仰され、一般に大きな港を見下ろす山の上で金毘羅宮、金毘羅権現社が全国各地に建てられ、金毘羅権現として祀られていた。

金毘羅(コンピラ)は、サンスクリット語のクンビーラKumbhiraの漢訳語で、仏法守護神の薬師十二神将の一つ。

その金毘羅が海神、水神として信仰され、讃岐象頭山(さぬきぞうずさん)に鎮座の神と神仏習合し、金毘羅大権現と称されるようになったのであり、同社を勧請(かんじょう)した各地の神社も同様によばれた。

🟣豊玉姫とは?

↓ 豊玉姫と妹(玉依姫)

豊玉姫とは?

トヨタマヒメ(豊玉姫、日本書紀)またはトヨタマビメ(豊玉毘売、古事記)は、日本神話に登場する女神。

神武天皇(初代天皇)の父方の祖母、母方の伯母として知られる。国津神。

神格: 鰐神、龍神、真珠、巫女

『古事記』では豊玉毘売・豊玉毘売命、『日本書紀』では豊玉姫と表記される。

海神(わたつみ)の娘で、竜宮に住むとされる。

真の姿は八尋の大和邇(やひろのおおわに)であり、異類婚姻譚の典型として知られる。

神武天皇(初代天皇)の父の鸕鶿草葺不合尊の母であり、天皇の母の玉依姫の姉にあたる。

豊玉毘売の「豊」は「豊かな」、「玉」を「玉(真珠)」と解し、名義は「豊かな玉に神霊が依り憑く巫女」と考えられる。

系譜

海神豊玉彦命(綿津見大神)の娘。

「豊玉姫」・「豊玉彦」のように、ヒメとヒコの二者(この場合は父娘)がペアで統治を行う体制はヒメヒコ制と呼ばれる。

『日本書紀』、『古事記』共に、妹に玉依姫がいる。

また、『古代豪族系図集覧』によれば、弟に宇都志日金拆命(穂高見命。阿曇氏の祖)がいる。

夫:火折尊(ほのおり の みこと) – 『日本書紀』(『古事記』では火遠理命)
天孫瓊瓊杵尊(邇邇芸命)の子。


子:彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあわせず の みこと/-ふきあえず の みこと) – 『日本書紀』(『古事記』では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと/-ふきあわせず の みこと))

特記以外は『日本書紀』によって記載する。

豊玉姫は海神(豊玉姫の父)の宮にやってきた火折尊と結婚し、火折尊はその宮に3年間住んだが、火折尊は故郷のことをおもってなげいた。

これを聞いた豊玉姫は、自らの父である海神に「天孫悽然として数(しばしば)歎きたまう。

蓋し土(くに)を懐(おも)いたまうの憂えありてか」と言った。海神は火折尊に助言を与え、故郷に帰した。

帰ろうとする火折尊に、豊玉姫は「妾(やっこ)已に娠めり。

当に産まんとき久しからじ。妾必ず風濤急峻の日を以て海浜に出で到らん。

請う我が為に産室を作りて相い持ちたまえ」と言った。

のちに豊玉姫は約束の通り、妹の玉依姫を従えて海辺にいたった。

出産に望んで、豊玉姫は火折尊に「妾産む時に幸(ねが)わくはな看(み)ましそ」と請うた。

しかし火折尊は我慢できず、ひそかに盗み見た。

豊玉姫は出産の時にヤヒロワニ(『古事記』では「八尋和邇」、『日本書紀』一書では「八尋大熊鰐」)となり、腹這い、蛇のようにうねっていた(『古事記』)。

豊玉姫は恥じて、「如(も)し我を辱しめざるならば、則ち海陸相通わしめて、永く隔て絶つこと無からまじ。

今既に辱みつ。

将(まさ)に何を以て親昵なる情を結ばんや」と言い、子を草でつつんで海辺にすてて、海途を閉じて去った。

これにより、子を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と名付けたという。

諸説

『日本書紀』の一書によれば、火折尊は豊玉姫の出産を櫛に火をともして盗み見たというが、この「一つ火」を灯す行為もタブーであったと指摘される。

「妖精メリュジーヌは、下半身が蛇の姿で入浴しているところを夫のレイモンダンに覗き見られて、人間界から離れる」。

この話はトヨタマヒメの話によく似ている。

「ヨーロッパの神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、「(両)神話に共通のルーツを、太古のユーラシア神話まで遡る試み」をしている。

🟣鰐河神社

香川県三木町鰐河神社秋季例大祭 本宮獅子舞演武

住所: 香川県木田郡三木町下高岡1843-1

鰐河神社(わにかわじんじゃ)は、香川県木田郡三木町にある神社。

『延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 讃岐国 三木郡「和爾賀波神社/和尓賀波神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。現在はさぬき十五社の一つ。

社伝によると、豊玉姫命が亀に乗って讃岐国山田郡潟元(屋島付近)に上陸し、鵜葺草葺不合尊をこの地で産む。

その後、今度は鰐(ワニ)に乗って川を遡り、この地に上陸したと伝わる。この川は鰐川と呼ばれ、現在の新川とされる。

豊玉姫命は海神の娘で、『古事記』にも竜宮城の姫として登場し、山幸彦と恋に落ちる。

二人の子が初代神武天皇の父となる鵜葺草葺不合尊である。

『古事記』には豊玉姫命がワニだったと明記されている(『古事記』)。

その伝承の上で、行基(668年-749年)が当社を創建したという。

延喜7年(907年)に八幡神を配祀し、高岡八幡とも称した。

御祭神は、豊玉姫命・応神天皇。鰐河八幡宮、鰐河八幡神社、または四条大宮などとも称した。

別当寺として応神寺が創建されたが、明治元年(1868年)の神仏分離で応神寺は廃止され、明治5年(1872年)に現社号に改称されて郷社となる。

さぬき市の願興寺の脱活乾漆聖観音坐像は、応神寺の本尊だったという言い伝えがある。国の重要文化財に指定されている。

当社の獅子舞の獅子頭は、高さ63センチ・幅90センチ・長さ100センチという巨大なもの。獅子舞油単を合わせると全長約13メートルにもなる。

獅子舞は50人がかりで動かす見ごたえのある行事、町指定文化財で、当社の秋祭り(10月第1日曜日)などで奉納される他、三木町獅子舞フェスタなどで見ることが可能。

三木町は獅子舞の町としても知られ、当社の他、天野神社や氷上八幡神社の大獅子も有名。

式内社「和爾賀波神社」の論社は他に、近くにある和爾賀波神社(鰐川について、当社と違う伝承がある)や白山神社、天野神社の境外末社である引宮神社がある。

このうち、白山神社は当社の境外末社だったとの説がある。

なお、同じくさぬき十五社の一社である高松市香南町の冠纓神社の近くには、「遊衣館由緒」という看板があり、そこにも豊玉毘売の上陸伝承が書かれている。


【ご利益】
厄災除け、身体壮健、安産・子育て

🟣和爾賀波神社

和爾賀波神社(ワニカワ神社)の秋の祭り

住所: 香川県木田郡三木町井戸1575

和爾賀波神社(わにかわじんじゃ)は、香川県木田郡三木町井戸にある神社。

『延喜式』巻9・10神名帳南海道神讃岐国三木郡「和爾賀波神社/和尓賀波神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

創建時期は不詳。社伝によると、豊玉比売命が鰐(ワニ)に乗って川を遡り、この地に上陸したという。その川が鰐川で、現在の鴨部川だという。

主祭神は、豊玉比売命。現在は、玉依比売命・八幡大神・息長足姫命を配祀する。

後世、八幡神を合祀したと考えられるが、筥崎宮の玉依比売命タイプなのは、主祭神との姉妹という関係に考慮されたものか。

平安時代の治安3年(1023年)、寛治7年(1093年)、治承2年(1178年)、鎌倉時代の建仁3年(1203年)、文永元年(1264年)、文永3年(1266年)、慶長元年(1311年)、室町時代の永享5年(1433年)、永享10年(1438年)に遷宮、社殿の造営の記録がある。

式内社「和爾賀波神社」の論社は他に、町内井上の天野神社境外末社である引宮神社、町内下高岡の鰐河神社、白山神社がある。

当社の上述のような数多き遷宮により、式内社の比定が難しくなり、多くの論社を生んだとの説がある。

古くは井戸之郷氏八幡和尓河神社、井戸八幡、井戸之宮などと呼ばれた。明治5年(1872年)に郷社に列した。

神門をくぐると境内左手に大きなモミが2本あり、そのうち社殿側(奥側)の木が県の保存木に指定されている。

安政年間(1855年-1860年)の植栽で樹齢約150年と伝えられている。幹の途中から二つに枝別れしているが、モミ独特の樹形を保っている。

例祭は10月第1日曜日。境内社に、八坂神社・若宮神社・春日神社・天神社などがある。

現在は高松市牟礼町原に鎮座する幡羅八幡神社の兼務神社とも。

【ご利益】
安産、子育て、厄災除け

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