【タブー】笠置シヅ子さんが金毘羅神社のクンピーラ神に3度、命を助けられた不思議な話し! 幼少の頃、ミツエから志津子へ改名した神秘的な体験とは?

◼️笠置シヅ子さんは香川県相生(あいおい)村に生まれ、大阪で育った。この香川県の琴平町には象頭山の中腹に金刀比羅宮 (ことひらぐう)が鎮座する。

この神社は、元々、金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)と言い、「コンピラさん」の名で親しまれてきた。コンピラと言う名称はクンピーラに由来する。

本殿の裏は神職も入れない禁足地となっている。禁足地には洞窟があり中には金毘羅大権現像(クンピーラ神)が安置されている。それを見てしまった住職は神罰を受けたと伝わる。

※象頭山: インド中部の伽耶城西方の山。象の頭に似ているといわれる。釈迦が修行し、また説法したという所。伽耶山。

“宥遍は金毘羅大権現の神窟を開き、御入定の神体を拝したために神罰を受けたと伝える。”

宥遍は、神窟を開いて神罰を受け、琴平町にある愛宕山の松の枝に引き裂かれて掛かっていた(宥遍松)。1570年(元亀1年)10月12日死去。

https://shinden.boo.jp/wiki/松尾寺金光院

金刀比羅宮のご利益は、航海安全、病気平癒、水難守護となっている。

太古の昔、インドに起源を持つドラビィタ系の出雲族 事代主(大物主)の一族がこの地にやって来て、象頭山を神の山と崇め水を司る神、水運の神であるクンピーラ神を祀ったと考えられる。当時、海岸線は今よりもだいぶ象頭山に近かった。讃岐の地は降水量が少なく当時から水は大変貴重だった。

クンピーラ神とは、ガンジス川に棲むワニを神格化したものと言われている。クンピーラは、水を司る神、水運の神として、航海安全のご利益があると言われる。後にクンピーラは、仏教に取り入れられ、薬師如来を守護する十二神将の一神となり、宮比羅神将となったとされ、その宮比羅神が讃岐に出現したのが金毘羅神と言われている。なお、宮比羅神だけが独立して信仰されるケースは、他に例がなく、大変珍しい。

大宝年間(701-704年)に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山に住する護法善神金毘羅(クンビーラ)の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承があり、これが金毘羅大権現になったとする。ちなみに役小角は、出雲族の末裔の鴨氏である。

クンビーラは元来、ガンジス川に棲む鰐を神格化した水神で、日本では蛇型とされる。クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーのヴァーハナ(乗り物)でもあることから、讃岐国の象頭山松尾寺金光院(現在の金刀比羅宮)では海上交通の守り神の金毘羅大権現として信仰されてきた。

現在の金刀比羅宮の祭神は出雲系の大物主命。この神は一般に言われる大国主(出雲王国8代主王の八千矛)ではなく、8代副王の少名彦(事代主)である。

◼️インドの女神ガンガーとは?

ガンガー(Gaṅgā, गंगा, 恒河(ごうが))

ヒンドゥー教に伝わる、ガンジス川を神格化した女神。

インドでは川自体も「ガンガー」と呼ばれ、「ガンジス」は英語からの借用である。

「母なるガンガー(Gangamataji)」とも呼ばれる。

乗り物(ヴァーハナ)はワニのクンビーラ。

夫は、シヴァあるいはヴィシュヌ。

ガンジス川(ガンガー)は現在でも「聖なる川」としてヒンドゥー教徒の信仰の対象であり、この川の水で沐浴すればすべての罪は浄められ、死後の遺灰をこの川に流せば永遠に繰り返される輪廻から解脱できると信じられている。

🔸クンピーラに乗った女神ガンガー

◼️金刀比羅宮の境内にある象

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◼️讃岐にある出雲族に起源を持つ神社の軒下には象の彫刻が見られる場合がある。

🔸歓喜天(象の神様、ガネーシャ)を祀る香川県八栗の聖天堂。社紋は大根2本に変えられたが、元々は鉄の矛2本だった。この二本の矛(大根)は男女の交わりを表す。

出雲族は大陸から渡来してきた天孫族により国を奪われた。

🔸歓喜天像

下から見ると、交わっている。

🔸鵜羽神社(うのはじんじゃ)

●住所:香川県高松市屋島西町298番

軒下のゾウ現在、祭神は天津神系の神に変えられているが、本殿左手に出雲系国津神の大己貴(=大国主命)の石碑が残る。

🔸大物主命を祀る高松市田町の琴平神社の軒下のゾウ

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田町の琴平神社境内の蛇石。出雲族は龍蛇信仰を持つ。奈良県桜井市にある出雲系の大神神社も大物主を祀り、蛇信仰を持つ。

私は三輪山を何度か登拝したことがあるが、一度、大神神社の参道で白蛇を見てしまい驚いたことがある。

インドに起源を持つ出雲族は龍蛇信仰を持つ。出雲大社の神の使いはセグロウミヘビで、社紋の亀甲紋の原型はセグロウミヘビの尾のウロコである。

🔸インドのドラビィタ人に起源を持つ出雲族は龍蛇信仰を持つ。出雲族は日本では、ジャングルの中のコブラの代わりにセグロウミヘビをトーテムとし、ワニの代わりにサメをトーテムとした。

今から約3500年前にアーリア人に追われたクナト王国の集団がシベリア経由で日本へ移住してきた。

出雲地方の方言でワニとは、サメのことを指す。

🔸セグロウミヘビ

セグロウミヘビは、爬虫綱トカゲ目コブラ科 (ウミヘビ科とする説もある) セグロウミヘビ属に分類されるヘビ。本種のみでセグロウミヘビ属を形成する。特定動物。有毒。

セグロウミヘビは、日本の出雲地方では「龍蛇様」と呼ばれて敬われており、出雲大社や佐太神社、日御碕神社では旧暦10月に、海辺に打ち上げられた本種を神の使いとして奉納する神在祭という儀式がある。

これは暖流に乗って回遊してきた本種が、ちょうど同時期に出雲地方の沖合に達することに由来する。

出雲大社からの勧請とされる佐渡市の牛尾神社には、宝物としてセグロウミヘビが納められている。

◼️香川県生まれの笠置シヅ子さんは金毘羅神社のクンピーラ神に3度、命を助けられていた。

🔸【1度目の命拾いと改名】病気平癒

1918年、4歳の時、笠置シヅ子さんは、本名 亀井ミツエと言う名前だった。そのとき、百日咳にかかり、大阪医大に入院した。元々、気管が弱く病状はどんどん悪化し、医師からは治癒の見込みがないと言われてしまった。

当時、養父母と親戚一同が集まり、葬式の段取りまで打ち合わせをしていた。

そんな中、大阪の福島にある養父の亀井音吉の米屋の店先にやせ衰えた老婆が忽然と現れ、空腹を訴えて米を無心してきた。

音吉が話しを聞くと、その老婆は香川県高松の生まれで、ある商家の飯炊きをしていたが火災に遭い暇を出されてしまった。

近くに親戚縁者もなく長野の善光寺で寺男をしている遠い縁者を頼っていく途中だと打ち明けた。

そして、老婆の亡くなった亭主は香川県の琴平で祈祷師をしていたそうで、縁者も寺や神社に関係する仕事についている人が多いという。  

哀れに思った音吉はその忽然と現れた老婆に食事を出し、米も分け与えた。

このとき、音吉から娘が病で生死の境にいることを聞いた老婆は頭陀袋からお守りのようなものを取り出し、この護符で病人の額を三度なすると病気は治ると言う。

神信心に薄い音吉はありがたがりもせずその紙切れをもらい、見ると香川県の金毘羅神社のお札だった。  

音吉は、病院に行き、半信半疑でその護符をシヅ子の額に当て、老婆の言われた通りにしてみた。

すると、その晩から病状はどんどん回復していった。

医師も驚くほどの回復力だった。

養父母や親戚縁者も護符の奇跡に驚き、親戚などが寄ってたかって霊験あらたかなその護符を触っているうちに、護符の裏側に文字が書かれていることに気づいた。

そこには、「相生村 しづ子」と書いてあった。  

これには一同驚き慄いた。

「しづ子」という人物に心当たりはないが、相生村とはミツエの生まれた村名だった。

どう言った理由で相生村の名前が書かれていたのかは誰も知るすべもなかったが、この護符に命を救われたと信じた両親によって、戸籍をミツエから志津子と変え、後年、静子と改名した。 

この金毘羅神社の護符は両親から笠置シヅ子さんに受け継がれ、大切に保管されていたが、戦災によって失われてしまった。

この話しは笠置さんの自伝「歌う自画像」に書かれている。

🔸【2度目の命拾い】水難守護

昭和2年(1927)3月7日に京都府北部の丹後半島を震源とする大地震が発生した。「北丹後地震」「奥丹後地震」などと呼ばれた。

この地震の被害の総計は、死者2,925人(京都府内・2,898人)、負傷者7,806人、全壊1万2,584棟、半壊9,443戸、焼失8,287戸、全焼6,459戸、半焼96戸であり、大災害へと発展した。

中郡峰山町(現・京丹後市)の被害

笠置シヅ子さんは、この日、研修生から松竹楽劇部に正式採用が決まった日だった。

研修生の卒業証書を持って帰宅する途中、市電を降りたところにある家の近所のうどん屋に入り、きつねうどんを注文し、丼を持って食べようとした瞬間、激しい揺れに襲われた。

記録によると大阪市は震度4だった。激しい揺れの危険を感じて、食べかけのうどんが入った丼を持ったまま店の外に飛びだし自宅に戻った。

この地震により大阪湾沿岸の埋立地で地盤が低かった大阪市大正区南恩加島の自宅は二階まで浸水し、父母と弟の八郎ともども流される死の寸前までいったが、4人は奇跡的に流されず、九死に一生を得て、この水難事故を生き延びた。 

このとき、母のウメは、生死の境にあり、夫の音吉に、禁句である (養子にした) 義理があるので、弟の八郎より、シヅ子を守るように言ったと自伝に書いている。

この話しは笠置さんの自伝「歌う自画像」に書かれている。

🔸【3度目の命拾い】航海安全

1954年9月、笠置さんが40歳のとき、北海道の巡業先で不思議な出来事に遭遇した。

1954年(昭和29年)8月から9月にかけて笠置は、俳優の長谷川一夫一座と自身の座組一行とで北海道巡業をしていた。

笠置は。巡業中、劇場によっては長谷川一夫一座と別興行を行うこともあった。

最終的には、両者一行は9月26日に函館で合流し、函館発の青函連絡船に乗船して青森から東京へ帰る予定となっていた。

長谷川一夫一座は予定通り函館に着いたのだが、なぜか笠置の一行が来ない。

帰京後の予定も決まっていた長谷川は先に帰ろうとも思ったが、なんとなく笠置の到着を待つことにした。

結局、笠置は、間に合わず長谷川一座は9月26日の青函連絡船には乗らなかった。

この判断が、長谷川一座の生死を分けることとなった。

9月26日の夕刻から台風15号が通過する予報があったにもかかわらず、台風の影響が遠のいたという船長の判断で連絡船 洞爺丸(とうやまる)は出港した。

しかしながら、船長の予想に反し波浪高い函館湾内で洞爺丸は転覆してしまったのである。

この転覆事故は、死者・行方不明者1155人を数える日本海難史上最悪の事故となってしまった。

生存者は159人を数えるのみであった。

※洞爺丸事故(とうやまるじこ)は、1954年(昭和29年)9月26日に青函航路で台風第15号(洞爺丸台風)により起こった、日本国有鉄道(国鉄)の青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故。死者・行方不明者あわせて1155人に及ぶ、日本海難史上最悪の事故。

笠置の到着が遅れたことにより、笠置・長谷川一行は九死に一生を得たかたちになった。

しかし二人はこの事実を長い間、マスコミに話すことはなかった。

犠牲者と遺族の心情を慮(おもんぱか)っての判断だった。

長谷川は笠置と会えばそっと「あんたのおかげで助かった」と言うことを忘れなかったと言う。

これは笠置にとっても長谷川と思いは変わらない。人知を超えた運命のいたずらかもしれない。

笠置にとっては一生忘れられない出来事だった。

この話しは、砂古口早苗さんの著書『ブギの女王 笠置シヅ子』(現代書館、潮文庫)に書かれている。

金毘羅神社のご利益は、航海安全、病気平癒、水難守護となっている。

笠置シヅ子さんは生涯を通して生まれ故郷 香川の金毘羅神社のクンピーラ神に守られていたのかもしれない。

奇しくもこの記事を書いた3月30日は笠置シヅ子さんの命日にあたる。

笠置 シヅ子(本名:亀井静子)

1914年(大正3年)8月25日 – 1985年(昭和60年)3月30日

◼️笠置シヅ子さん生涯唯一の自伝

※注意: めちゃくちゃ面白いのですぐに読んでしまう。

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