【タブー】出雲口伝が明かす応神天皇と仁徳天皇の正体とは? 高松市庵治町の皇子神社 船祭りの”だんじり”の意味と祭神ウジノワキイラツコ (応神天皇の皇子)の政権交代の秘密とは?

◼️香川県の高松市庵治(あじ)町にある皇子神社は応神天皇の皇子ウジノワキイラツコを祀っている全国でも珍しい神社だ。

この神社の船祭りの激しく揺らす”だんじり”は、地元でも有名だ。

だんじりを見ていると台座を垂直にされても、激しく回されても、太鼓を叩き続ける少年たちの恐怖を思うと涙が出てくるほどだ。

出雲口伝によると、この”だんじり”は、皇子神社のご祭神のウジノワキイラツコ(菟道稚郎子)が、敵対勢力の策略により宇治川で舟を激しく揺らされて転覆し暗殺された時のことを再現していると伝わる。

現在においては本来の意味は隠されている。

この応神天皇の皇子であるウジノワキイラツコを宇治川で暗殺した首謀者はいったい誰だったのか?

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🔸応神天皇の皇子 ウジノワキイラツコ(菟道稚郎子、宇治大君)   高松市庵治の皇子神社の祭神

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なぜ京都の宇治川で起こった事件を高松市の庵治(あじ)で再現するのか?

なぜ香川県の庵治に応神天皇の皇子であるウジノワキイラツコを祀る皇子神社があるのか?

出雲口伝により、応神天皇と仁徳天皇の正体が明かされる。

◼️香川県高松市庵治町の皇子神社と船祭りとは?


香川県高松市の庵治町にある皇子神社で行われる船祭り。

旧暦の6月14日・15日の満月に近い金・土曜に行われる。

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ここは映画「世界の中心で愛を叫ぶ」のロケ地で、映画の中に登場するブランコも存在する。

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※映画『世界の中心で、愛をさけぶ』(監督:行定勲/主題歌:平井堅『瞳をとじて』/平成16年公開)

◼️【動画】だんじり 「庵治の船祭り」 高松市

◼️出雲口伝に伝わる庵治の船祭りの伝承

🔸『仁徳や若タケル大君: 伝承の日本史』  富士林雅樹 著

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◼️応神大君の在位 (367年〜394年没)

4世紀、神功皇后は、葛城襲津彦(ソツヒコ)との間の子が夭折した為、秘密裏に、竹葉瀬という7歳の子供を養子に迎えた。

神功皇后の二韓征服により、新羅と百済から年貢を獲得することとなったが、その大義名分は、神功皇后が辰韓の王子の天日槍(アメノヒボコ、兵庫県の出石神社の祭神)の子孫であるからであり、後継ぎが亡くなったとなると年貢がストップしてしまうという背景があった。当時の貢ぎ物は主に米で現在の住吉大社に保管された。住吉大社は米の保管庫だった。

竹葉瀬が生まれた上毛野国造家は、物部氏のミマキ王〔崇神〕と宇佐神宮の姫巫女・豊玉姫との間に生まれた豊来入彦の子孫の家であった。つまり竹葉瀬は、月神信仰の宇佐家の血と徐福の子孫である物部氏の血を引いている。

竹葉瀬は、後に応神(おうじん)〔ホムタ〕大君となった。

大分県の月神を信仰する宇佐神宮は神功皇后、応神天皇を祭神としている。隠されているが、奥の山には豊玉姫の古墳がある。

🔸伝承上の豪族とされている竹葉瀬


◼️応神大君の後継ぎ

応神大君は、当時、有力者であった葛城襲津彦の血を引く根鳥(ねとり)御子を、皇太子にすると思われていた。

ところが、次の大君になったのは、宇治ノワキイラツコ(高松市庵治町の皇子神社の祭神)であった。

🔸根鳥皇子

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🔸記紀における応神天皇

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◼️この宇治大君の継承には、葛城襲津彦の親族である葛城氏一族は不満を持った。

新羅、百済の二韓征服は、葛城氏一族の功績であるという強い思いがあったからだ。

実際に、軍事力においては、宇治大君勢よりも葛城氏一族の勢力の方が強大だった。

その時、ウジノワキイラツコの宇治の政権と葛城氏一族との実力不均衡による対立が生じ、不穏な情勢となった。

そのような状況下にあり、先手を打ったのは、葛城氏の親族の星川建彦(たてひこ)だった。

星川建彦は武内宿祢の子孫たちの勢力を上手くまとめた。

構図的には葛城氏一族対ウジノワキイラツコの母方のワニ氏一族となる。

🔸記紀には登場しない星川建彦

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星川建彦の率いる水軍は淀川を逆上り、宇治の宮(現在の宇治上神社) を襲撃した。

彼は宇治の宮殿を南北から挟み討ちするように二手に軍勢を分けた。

そして、南北から一度に鬨(とき)の声を上げさせた。

宇治大君(ウジノワキイラツコ)は経験不足の大君であったので、家臣の反乱に対する用心が不足していた。

宇治大君勢は、突然の鬨の声に驚き慄いて、大部分の家臣たちは戦意を失い逃げ出してしまった。

宇治大君も、敵が至る前に宇治川を渡り、西へ逃げようと考えた。

🔸現在の宇治上神社と宇治神社の辺りに宇治大君の宮があった。

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宇治大君が宇治川に近づくと、渡し舟が待っているのが見えた。

宇治大君は、船頭に頼んで舟に乗せてもらった。

舟は対岸に向けて漕ぎ出した。

しかしながら、舟が川の中流辺りまで来た時に、突然、船頭が舟を大きく揺らし、ついに舟はひっくり返ってしまった。

その為、宇治大君と船頭は、共に川の中に落ちた。

船頭は泳ぎが上手かったので、岸まで泳ぎ着くことができた。

実は、その船頭は、星川建彦が仕込んだ者であった。

宇治大君は、戦に備えて服の下に鎧(よろい)を着ていた。

そのことが災いし、鎧の重さで浮くことができず、水中で没してしまった。

こうして、応神王朝は二代で滅亡した。

それは長期的な視点で見れば、物部王朝の滅亡と言うこともできた。

そして、星川建彦が仁徳(オオサザキ)大君になり、新しい王朝が成立した。

このような関係がある為、仁徳大君の古墳〔和泉国大鳥郡〕は、応神大君の御陵〔大阪府羽曳野市〕とは離れて造られた。

🔸ウジノワキイラツコを祭神として祀る神社は全国でも珍しい。

●栃木県 大平山神社内の星宮神社

http://www.ohirasanjinja.rpr.jp/smp/guid/

●神奈川県平塚市 前鳥神社

https://sakitori.jp

●京都府 宇治神社

●京都府 宇治上神社

●高松市庵治町の皇子神社

●高松市 鶴尾神社

🔸仁徳天皇

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この宇治川での事件について、奈良時代には真相を知る人は少なくなっていたが、当事者同士の子孫の家や、歴史に詳しい家では史実を伝え続けていた。

和邇(ワニ)氏の柿本人麿も、歴史に詳しい家の出身であった。

だから、宇治川事件について、万葉集に次のような歌を残している。〔斎木雲州著『万葉集の天才』大元出版)

「宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮所の歌」〔1795〕

妹ら許(がり) 今木の峯に 茂り立つ
妻松(つままつ)の木は 古人(ふるひと)見けむ

宇治の松茂る今木の峯のあたりに住んでいた妻は、溺死した宇治若郎子の遺体の帰りを、深い悲しみで見ただろう。

「妻松」の言葉は、妻が待つの「待つ」と「松」とを掛けている。

柿本人麿はワニ氏一族であり、ウジノワキイラツコの母も同じくワニ氏出身であった関係で、人麿はこの宇治川事件のことを知っており、いくつかの歌として残している。

🔸天皇家の妃を多く輩出した和邇氏はどこから来たのか?

記紀の編集者は、宇治大君が殺された史実を隠したかった。

星川建彦という人物は、記紀には登場しない。

記紀は仁徳大君を応神大君の皇子とし、その弟が宇治ノワキイラツコであったことに変えている。

しかしその話には、不自然な点が多い。

『日本書紀』には、武内宿祢の子孫がオオサザキ皇子になったことをほのめかす話がある。

応神大君の皇子が生まれた日に、木菟(つく)〔ミミズク〕が産殿に飛び込んだ。

応神大君が、大臣・武内宿祢〔実際は襲津彦〕を招いて、これが瑞兆(ずいちょう)かどうかを尋ねられた。

「鳥が飛び込むのは、良い兆しです。実は同じ日に臣の妻も子〔鷦鷯(さざき)彦〕を産みました。その時も、産屋に鳥が飛び込みました。それはミソサザイ〔鷦鷯〕でした」と、大臣は答えた。

大君が言われた。

「わが子と大臣の子が同じ日に生まれた。また、両家に同じ瑞兆があった。それを記念して、両者の名前を取り替えることにしよう」と。

それで、鷦鷯の名前を皇太子〔オオサザキ皇子〕につけ、木菟の名を大臣の子〔平群木菟(へぐりのつく)〕につけた。

同じ日に生まれた2人が名前を取り替えるということは、その2人が同一人物であることを示している。

ただし、記紀には星川建彦を載せない方針だったので、編集委員の平群子首(こびと)はやむなく祖先の平群木菟〔都久〕を登場させた。

『続日本紀』には、星川建彦は巨勢小柄宿祢(こせのおがらのすくね)の長子であったと書かれている。

つまり、仁徳大君は巨勢氏の出身だった。

🔸巨勢寺跡 (奈良県御所市)

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◼️奈良時代までは、星川建彦が仁徳大君になったことは、一部の人々はまだよく覚えていた。その頃の巨勢氏も、自分たちが仁徳〔オオサザキ〕大君の血族であることを誇りに思っていた。
それで天平勝宝3年〔751年〕に、「オオサザキ」にちなんだ雀部(さざきべ)氏へ改姓したことが、『続日本紀』に記録されている。

奈良時代につくられた記紀は、教訓めいた話で書くことを持統天皇が指示し、万世一系方式で書くことを藤原不比等が提案したと伝わるように、それまでの王朝交代を隠す方針で編集された。

記紀と異なる各豪族の史書は廃棄され、隠し持っていると死刑となった。

それで、星川建彦が応神王朝を滅ぼして仁徳大君になったという史実は、日本の官史から消えることとなった。

◼️【宇治大君の一族と讃岐国庵治】

宇治川で起こった事件を知ると、ヤマトの皇子村に住むウジノワキイラツコ(宇治大君)の皇子と親族たちは、星川建彦(仁徳大君)に殺されると恐怖を感じた。

すぐに、舟に分乗し、ヤマト川を下って逃げることにした。

瀬戸内海を航行し、讃岐国〔香川県〕の屋島の東側の岬(現在の高松市庵治町)に身を潜めた。

ヤマトの皇子村に残った人たちは、目立たないように村の名の漢字を庵治(おうじ)村に変えた。

その場所は、現在は、庵治町(おうじちょう、奈良県天理市庵治町)となっている。

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後で、ヤマトの庵治村の人の一部も、讃岐の屋島の東(高松市庵治)に移った。

それで、讃岐に庵治(あじ)村ができた。
漢字は同じであるが、発音は変わっている。

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そして、そこに皇子神社〔高松市庵治〕を建て、宇治ノワキイラツコ〔宇治大君〕を祀った。

そこでは、旧暦の6月15日〔新暦の7月下旬〕の満月の夜に、庵治の船祭りと呼ばれる祭りが、古くから行われている。

夜がふけると、ダンジリが神社の急な参道を下り、海岸に進む。

その台座には、赤い血の色の衣を着た少年たちが3人乗り、太鼓をたたく。

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担ぎ手は青年層で、白装束〔昔の葬儀の服装〕に黒足袋を着けている。

水辺の広場に着くと、担ぎ手の若者たちは、初めはゆっくり練り歩き、次に縦横無尽に駆け回る。


少年たちの太鼓のテンポも、ダンジリの速度に合わせ、だんだん速くなる。

ひとしきり駆け回ったあと、ダンジリから屋根がはずされ、四本柱のついた台座だけが残る。
少年たちは、そこに乗せられたままである。

すると、かき棒〔担ぎ棒〕の一端が地面につけられ、ダンジリが垂直に立てられる。
ダンジリが垂直になると、そのかき棒を軸にして、ダンジリがゆっくり時計回りに回される。
上に乗った少年たちは体を台座に結びつけ、体が地面に垂直になっても、太鼓をたたき続ける。

ダンジリが水平に戻されると、今度は高速で回され始める。
太鼓をたたくテンポも最高潮に速くなる。
いきおい余って担ぎ手がバランスを崩すと、そのたびに台座が不安定に傾く。
上に乗る少年たちの感じる恐怖は、かなりのものであるが、それでも太鼓をたたくことをやめない。

このように、宇治川で祭神が味わった恐怖をこの祭りが再現している。

それは、宇治川での宇治大君遭難の悲劇を再現する祭りだと、出雲の旧家では伝えられる。

祭りが満月の夜に行われるのは、宇治大君が月神を祀る宇佐家の子孫だったからである。

🔸【動画】庵治の皇子神社 船祭りのだんじり。台座に乗っている少年たちの恐怖は計り知れない。涙が出てくる。1600年前に皇子神社の祭神 ウジノワキイラツコが味わった恐怖を忘れぬ為に再現されるだんじり。

【YouTube 動画】

https://m.youtube.com/watch?v=Jl-9EJFjBFI%3Frel%3D0

同じ讃岐国の鶴尾神社〔高松市〕にも、宇治ノワキイラツコ〔宇治大君〕が祀られている。
この社も、ヤマトの庵治村から逃げた人々の一部が建てたものかもしれない。

ヤマトの庵治村にも、後に宇治大君の霊を祀る社が建てられた。

現在そこには、伊勢降(いせぶり)神社〔天理市庵治町〕が鎮座する。

祭神の豊日姫(とよひめ)命の「豊」の字に、宇佐家とのつながりが見てとれる。

そこから数百メートル東には、妹の八田ノワキイラツメの生誕地があり、同名の伊勢降神社〔田原本町八田〕が鎮座する。
そこの祭神の一柱は豊受姫命とされており、やはり宇佐家との関わりが感じられる。

日本に残る祭りには太古の昔に起こった史実を受け継いでいるものが多い。しかし殆どの人は本当の意味を知らない場合が多い。

🔹柿本人麿

星川建彦の策略により、応神天皇の皇子であるウジノワキイラツコが宇治川で暗殺された事件は、奈良時代には知るものは少なくなっていたが、ウジノワキイラツコや星川建彦の子孫の家では史実を伝えていた。

柿本人麿は、和邇氏の子孫であるが、ウジノワキイラツコの母(応神天皇の皇后)は、和邇氏の出身である為、この宇治川事件について伝え聞いていた。

柿本人麻呂は、万葉集に次のような歌を残した。

●宇治若郎子(うじのわきいらつこ)の宮跡の歌一首

妹(いも)らがり今木(いまき)の嶺(みね)に茂り立つ妻(つま)松の木は古人(ふるひと)見けむ

訳:
今木の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は昔の皇子(みこ)さま(ウジノワキイラツコ)の死体をきっと見ていたことだろう

●「柿本朝臣人麿、近江国より上り来る時、宇治川〔京都府宇治市〕の辺に至りて作る歌」(明日香の都に帰り来る時の歌

もののふの 八十氏(やそうぢ)川の 網代(あじろ)木にいさよふ波の 行く方(へ)知らずも

訳:
大雀(おほさざき)ノ命の大軍が、宇治川で宇治若郎子を襲ったが、死体が引っ掛かった網代木に漂(ただよ)う波は消えて、真相を知る人は少ない

🔹和邇氏

藤原氏以前に天皇家に多くの皇后を出している和邇氏は、福井県三方郡から渡来したようだ。三方郡に和邇部神社があったが閉鎖された。和邇氏は、三方郡から琵琶湖西岸を経て、奈良県天理市の櫟本に移り住み、拠点とした(和邇下神社)。小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏の先祖。

🔸島根県美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事に隠された日本史を変えた事件とは?

出雲王国 8代王の大国主命(ヤチホコ)と副王の事代主(八重波都身)が全国の神社で祀られている理由は? 島根県美保神社の青柴垣(あおふしがき)神事に隠された事件とは? 徐福と穂日、タケヒナドリ達は稲目洞窟と粟島の洞窟で何をしたのか?

◼️高松市庵治町周辺にある天皇家に関係している場所とは?


🔸皇子神社 (高松市庵治町)

🔸皇子神社 小豆島 (祭神は不明だが、位置が庵治の皇子神社に近く、ヤマトの庵治村の人の一部が小豆島にたどり着き、皇子神社を建てたのかもしれない)

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🔸鶴尾神社 (高松市西春日町)
祭神は、氣長足姫尊(神功皇后)、譽田別天皇(応神天皇)、莵道稚郎子尊(ウジノワキイラツコ)

境内には香川県最古の古墳で古墳時代前期の「鶴尾神社4号墳」があり、石室から出土した鏡(獣帯方格規矩四神鏡)は国の重要美術品に認定されている。

この古墳は、宇治大君の皇子或いはその一族の古墳ではないのか??

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🔸神櫛王墓 (高松市牟礼町)

第12代景行天皇皇子である神櫛皇子の古墳に治定。

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🔸六萬寺 (高松市牟礼町)

寿永2年(1183年)、源平の戦いの折に屋島の行宮ができるまで安徳天皇の行在所となった。

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🔸安徳天皇社 (高松市屋島東)

第81代安徳天皇が祀られている神社。臨時の皇居が置かれた場所。

◼️プロフィール

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🔸先祖の徳島藩 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田家とは? 「八田家文書」は研究目的で貸し出されるも所在不明となった! 一日も早く返却されることを強く願う! 歴史上、不都合な古文書は貸したら戻らなくなる場合がある! 阿波秦氏!

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