【タブー・和邇氏のルーツ】遣隋使 小野妹子、世界三大美人の小野小町、歌人 柿本人麻呂の先祖 謎多き海洋民族 和邇氏(わにうじ)はどこから渡来して来たか? 和邇氏からは数多くの天皇の后妃が出た!

◼️和邇氏(わにうじ)のルーツは?

和邇氏というのは、海洋民族の渡来系豪族。2世紀ごろ、弥生時代に朝鮮半島から若狭湾(福井県三方郡)に渡来し、日本海側で栄え、後に近畿地方に進出してきた豪族。


若狭湾から琵琶湖西岸、瀬田川、宇治川、木津川の水運を管理していた。

中国地方の日本海側、琵琶湖西岸、奈良県北部(天理市辺り)に本拠地を構えていた。


琵琶湖西岸には、和邇氏のものと思われる製鉄採鉄遺跡が残る。

🔸和邇氏のキーワード

渡来系豪族、2世紀ごろに朝鮮半島から若狭湾に渡来。

日本海側を中心に栄え、後に近畿地方に進出してきた有力豪族。

若狭湾から琵琶湖西岸、瀬田川、宇治川、木津川の水運を管理していた。

造船、操船、港湾管理を得意とする海洋民族。

太陽信仰

鍛冶集団

琵琶湖西岸に和邇氏の製鉄採鉄遺跡が残る。

藤原氏が出てくるまで、多くの天皇の后妃が出た。

ヤマトでの拠点は現在の奈良県天理市和爾町、櫟本町あたり

和邇氏は後に春日氏と名乗り、小野氏、柿本氏などに派生していく。


🔸和邇氏

◼️日吉神社【廃社】

【延喜式神名帳】和爾部神社 若狭国 三方郡鎮座

住所 : 福井県三方郡美浜町佐柿29−2

🔸日吉神社 URL

https://www.buccyake-kojiki.com/archives/1070744249.html

http://engishiki.org/wakasa/bun/wak300307-01.html

https://jp248.exblog.jp/29361623/

【延喜式神名帳】和爾部神社 若狭国 三方郡鎮座

【現社名】日吉神社

【住所】福井県三方郡美浜町佐柿 29 -2
北緯35度36分35秒、東経135度57分41秒


【祭神】大山咋命
『神社私考』和邇部臣の氏神、日子国意祁都命

【例祭】4月14日 例祭


【社格】旧無格社

【由緒】

慶雲元年(704)4月14日創建

寛平元年(889)坂本山王宮を勧請、山王大権現と改称

正保2年(1645)酒井忠勝祈願

【関係氏族】和邇部臣

【鎮座地】移転の記録はない

【祭祀対象】氏祖

【祭祀】江戸時代は「山王社」と称していた。

🔸この周辺は古代に「ワニベノ里」と呼ぱれ、「ワニベ氏」が住んで、「ワニベ神社」を祀っていた。普光山青蓮寺の西側に位置する。

◼️日吉神社

當地ノ産土神ヲ和爾部神ト云。齊神ハ和爾部ノ祖ヲ祀ル。慶雲元年4月14日創建ナリ。宇多天皇寛平元年、近江國坂本山王宮ノ御分難ヲ合祀ス。之レヨリ山王大権現ト崇號ス。當寺 青蓮寺 ニテ社務ヲ司ル。
道勝案スルニ、和爾部神社ハ延喜式二有リ。正保2年、酒井若狭守忠勝公御祈願ノ事アリテ、社殿ヲ御造営アリ。
普光山記残片

🔸和珥氏からは、数多くの天皇の后妃が出ている。さらに、后妃が生んだ皇女からも、天皇の后妃が出ている。

后妃の数は10人を超え、他に類を見ない。(大化の改新後は藤原氏)

天皇家には、多くの和邇氏の血が入っている。

🔸神功皇后と田道間守の先祖 アメノヒボコ(出石神社祭神、辰韓の王子)が渡来した日和山海岸と和邇氏が上陸した福井県三方郡左柿

◼️和邇氏の関連地は?

滋賀県滋賀郡志賀町和邇春日(湖西線 小野駅〜和邇駅辺り)


関連神社は、和爾下神社(天理市櫟本町、大和郡山市横田町)、神田神社(大津市真野町)、小野神社(滋賀県滋賀郡志賀町小野)、柿本神社(奈良県北葛城郡新庄町柿本)、浅間(あさま)神社(山梨県東八代郡一宮町)、富士山本宮浅間大社(富士宮市宮町)など

湖西線 小野駅〜和邇駅

◼️和邇下神社

住所 奈良県天理市櫟本町2490

◼️和珥氏(わにうじ)とは?

「和珥」を氏の名とする氏族。

5世紀から6世紀にかけて奈良盆地東北部に勢力を持った古代日本の中央豪族である。

氏姓 和珥臣

氏祖 天足彦国押人命(孝昭天皇の第1皇子) 

種別 皇別

本貫 大和国添上郡和邇

後裔 和仁氏(武家)

和珥は和邇・丸邇・丸とも書く。

🔸出自

「記紀」などに記された出自伝承によれば、和珥氏族は孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命(天押帯日子命)から出たとされる。

天足彦国押人命→和邇日子押人命→彦姥津命→伊富津久命→彦国葺命→大口納命→大難波宿禰命→難波根子武振熊命→米餅搗大臣命→佐都紀臣→日爪臣→田作臣→磐邊臣→船守臣→船萬侶臣→稚子臣→弓束臣→和珥部君手

◆歴史

🔸勢力範囲

和珥氏は、奈良盆地東北部一帯に広く勢力を持った。

その本拠地は大和国添上郡和邇(現・奈良県天理市和爾町・櫟本町付近)と添下郡で、後漢中平年間(184年 – 189年)の紀年銘をもつ鉄刀を出土した東大寺山古墳を含む櫟本古墳群はこの一族の墓所と推定されている。

年代や規模の観点から、最初期の東大寺山古墳が彦国葺命の、赤土山古墳が大口納命の墓と推定されるが、和邇下神社古墳は規模から見て武振熊命の墓とは考え難いと指摘されている。

🔸全盛期

和珥氏は大和朝廷の外征に参軍し軍事的な業績を上げたと『播磨国風土記』や『新撰姓氏録』から推定されている。

記紀記述の内で、史実性の高い天皇に葛城氏が后妃を出したころ和珥氏一族が孝安天皇、開化天皇に后妃2人を入れ、葛城氏の没落後に多くの天皇に11人の后妃を出し、勢力を広げた。

系図によれば、仁徳朝頃に米餅搗大臣命の四子が大きく和邇、大宅、布留、春日の地に分かれて、各地に支族を分岐した。

原始的姓氏は「鰐積」で、当初は「和邇部」であり、履中朝から允恭朝のカバネ制定にあたって、米餅搗大臣命の後裔の本宗四系統が先に「和珥臣」になったと見る説がある。

6世紀頃に春日氏、小野朝臣、粟田朝臣、柿本朝臣、大宅真人、櫟井朝臣など別姓を名乗るころから和珥春日氏が和珥氏の中心となり、そのころに和珥春日氏から春日氏に改姓すると見る説がある。

春日氏の衰退

春日氏となって後に蘇我氏が勢力を伸ばすと、春日氏は急速に政治勢力として衰退し、表面から消え、他の分岐した小野氏、柿本氏、粟田氏、大宅氏などが、各方面で活躍する。

◆枝氏

🔸春日氏

🔸小野氏 – 小野妹子、小野篁、小野道風を輩出

🔸柿本氏 – 柿本人麻呂を輩出

🔸粟田氏

🔸大宅氏

🔸櫟井氏

◼️世界三大美人とは?

日本では一般にクレオパトラ、楊貴妃と共に小野小町が「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられている。小野小町の代わりにヘレネー、楊貴妃の代わりに虞美人を加える場合もある。

明治中期、日本国内でナショナリズムが高まると、世界三大英雄(カエサル、ナポレオン、織田信長)ら日本人を世界の偉人にしようという動きが生まれ、小野小町もメディアに登場するようになったのが始まりとされている。

◼️武振熊 (たけふるくま)とは?


神功朝征韓供奉、忍熊王討伐、仁徳朝両面宿儺討伐

武振熊命(たけふるくまのみこと)または和珥武振熊(わにのたけふるくま)は、記紀に伝わる古墳時代の豪族・和珥氏の祖。

『日本書紀』では「難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)」や「武振熊」、『古事記』では「難波根子建振熊命」や「建振熊命」と表記される。

🔸武振熊命


時代 古墳時代
生誕 不明
死没 不明

別名
難波根子建振熊命、和珥武振熊、建振熊命、難波宿禰命、難波宿禰、大難波命

主君
仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇

氏族
和珥臣祖

父母
父:大口納命


米餅搗大臣命、日触使主命、大矢田宿禰命

神功皇后摂政時における忍熊皇子の反乱の際、討伐に遣わされた人物である。

◆仁徳朝頃に米餅搗大臣命の四子が大きく和邇、大宅、布留、春日の地に分かれて、各地に支族を分岐した。

🔸記録

『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣(丸邇臣)祖とのみ記しており、系譜の記載はない。

『日本書紀』神功皇后元年3月5日条によると、皇后と皇子(後の応神天皇)に対して反乱を起こした忍熊王を討つため、武内宿禰とともに遣わされたとする。

また同書仁徳天皇65年条によると、飛騨に「宿儺(すくな)」という体は1つで顔は2つある怪物があり、皇命に従わず人民を苦しめたために武振熊が討伐に遣わされたという。

『古事記』でも、仲哀天皇段において忍熊王討伐に派遣された旨が記されている。

🔸後裔氏族

『日本書紀』『古事記』とも、武振熊について和珥臣(丸邇臣・和珥氏)の祖と記載する。

🔸考証

『新撰姓氏録』右京皇別真野臣条では、「彦国葺命(天足彦国押人命三世孫) – 大口納命 – 難波宿禰 – 大矢田宿禰」として和珥氏祖たる彦国葺命から続く系譜が記されるが、武振熊が「難波根子」と称されたことから、上記のうちの「難波宿禰」と武振熊との関連が指摘される。

富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)の大宮司家(富士氏)系図[3]では、武振熊は第5代孝昭天皇六世孫とされる。同系図では祖父を彦国葺、父を大口納宿禰とする。子としては米餅搗大臣、大矢田宿禰の名が記載されている。

また籠神社(京都府宮津市)に伝わる「海部氏系図」では、天火明命を祖として海部氏へと続く系譜の19代目に「健振熊宿禰」という名称が存在し、その分注では品田天皇(応神天皇)の時に健振熊宿禰が「海部直」を賜り国造として仕えた旨が記載されている。武振熊の名が系譜に持ち出された理由は詳らかでないが、この武振熊の記載の存在から、4世紀末のヤマト王権中枢の変遷(佐紀から河内への移動)やその頃の丹後勢力の衰退を伴う内乱に海部氏が関与した可能性が指摘される。

◼️米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)とは?

古墳時代の豪族・和珥氏の祖。

米餅搗大臣命、鏨着大使主とも表記する。

🔸概要

天足彦国押人命の6世孫[注釈 1]にあたり、父は三韓征伐や忍熊王討伐に参加し、両面宿儺を平定したとされる難波根子建振熊命。

応神天皇にしとぎを作って献上したとの伝承がある。和珥氏、布留氏、大宅氏、小野氏、春日氏、柿本氏らの祖であり、小野氏の祖神を祀る小野神社などで祀られている。

🔸解説

和珥臣らの祖として神社の伝承や『新撰姓氏録』、和珥氏の系図等には登場するものの、『記紀』には事績が記述されておらず、その詳細は不明。

小野神社では応神天皇妃の宮主宅媛(宮主矢河比売)の父として『記紀』にみえる日触使主命(丸邇之比布礼)が同一人物であるとする説を唱えている。しかし、和邇氏系図においては日触使主命は米餅搗大使主命の兄弟として記されている。また、元の名は中臣佐久命であり仁徳天皇13年に舂米部が定められた際に米餅舂大使主と称したとする説もある。一方で和邇氏系図では佐久の父である大矢田宿禰命と米餅搗大使主命とは兄弟であるとされているため、これに従うと佐久と米餅搗大使主命とは別人(甥と叔父)となる。

前述の米餅搗大使主命を小野氏の祖神として祀る小野神社の伝承によれば、餅の原形となるしとぎを最初に作った人物であり、これを応神天皇に献上したことがもとで米餅搗大使主の氏姓を賜ったとされるが[注釈 3]、この名は諱号・通称であっても氏姓ではない。なお小野神社境内には小野氏系図として敏達天皇の皇子の春日皇子を起点とする系図も紹介している。

富士山本宮浅間大社の大宮司家(富士氏)の系図の米餅搗大臣命の注釈【若狭國三方郡和爾部神社是也】は、現在の福井県三方郡美浜町佐柿の日吉神社を指す。

表記は「米餅搗大臣」の他、『新撰姓氏録』においては「米餅搗大使主」「米餅舂大使主」「鏨着大使主」の三通りがある。「米餅」の訓は、「鏨」の訓である「たかね / たがね」とされるが、上記の餅の伝承に関連して「しとぎ」とする見解もある。

🔸系譜

父:武振熊命


兄弟:大矢田宿禰命


子:木事命(丸邇之許碁登臣) – 大宅臣祖。


🔸子孫の一部

左京:大春日朝臣(もとは仲臣であり、後に糟垣が転じて春日となったとする)、小野朝臣、櫟井臣、和安部臣、山上朝臣
山城国:小野朝臣、粟田朝臣、小野臣、和邇部、大宅


大和国:柿下朝臣(柿本臣)、布留宿禰(もとは物部首)、久米臣


摂津国:井代臣(井出臣)、津門首、物部、羽束首


河内国:大宅臣、物部


右京未定雑姓:中臣臣

◼️彦坐王とは?


日本の皇族。開化天皇の第三皇子。

彦坐王(ひこいますのみこ/ひこいますのおう)

生没年不詳

記紀等に伝わる古代日本の皇族。

『日本書紀』では「彦坐王」、『古事記』では「日子坐王」、他文献では「彦坐命」・「彦今簀命」とも表記される。

第9代開化天皇の第三皇子で、第12代景行天皇の曾祖父である。事績に関する記載は少ないが、『古事記』において詳細な系譜が記される人物である。

🔸系譜


『日本書紀』開化天皇紀によれば、第9代開化天皇と、和珥臣(和珥氏)遠祖の姥津命の妹の姥津媛(ははつひめのみこと)との間に生まれた皇子である。同書における子女に関する記載は、垂仁天皇紀において丹波道主命が子である旨のみである(ただし丹波道主命は彦湯産隅王の子という異伝も併記)。

『古事記』では、開化天皇と丸邇臣(和珥臣に同じ)祖の日子国意祁都命の妹の意祁都比売命(おけつひめのみこと)との間に生まれた第三皇子とする。続けて、王の子女に関して次のように記載する(表記は『古事記』を第一とし、括弧内に『日本書紀』ほかを記載)。

◆妃:山代之荏名津比売(やましろのえなつひめ、苅幡戸辨) – 山代県主祖の長溝命の女。

大俣王(おおまたのみこ)

孫:曙立王 – 伊勢之品遅部君祖、伊勢之佐那造の祖。


孫:菟上王 – 比売陀君の祖。


小俣王(おまたのみこ) – 当麻勾君の祖。
志夫美宿禰王(しぶみのすくねのみこ) – 佐佐君の祖。


◆妃:沙本之大闇見戸売(さほのおおくらみとめ) – 春日建国勝戸売の女。


沙本毘古王(さほびこのみこ、狭穂彦王) – 日下部連祖、甲斐国造の祖。


袁邪本王(おざほのみこ) – 葛野之別祖、近淡海蚊野之別の祖。


沙本毘売命(さほびめのみこと、狭穂姫命/佐波遅比売) – 垂仁天皇の前皇后。


室毘古王(むろびこのみこ) – 若狭之耳別の祖。


◆妃:息長水依比売命(おきながのみずよりひめのみこと) – 天之御影神の女。
丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうしのみこ、丹波道主命)


孫:比婆須比売命(日葉酢媛命) – 垂仁天皇の後皇后、景行天皇の母。


孫:真砥野比売命(真砥野媛) – 垂仁天皇妃。


孫:弟比売命 – 垂仁天皇妃。


孫:朝廷別王 – 三川之穂別の祖。
水之穂真若王(みずのほまわかのみこ) – 近淡海之安直の祖。


神大根王(かむのおおねのみこ、八瓜入日子王) – 三野国之本巣国造の祖、長

幡部連の祖。


水穂五百依比売(みずほのいおよりひめ)
御井津比売(みいつひめ)


◆妃:袁祁都比売命(おけつひめのみこと) – 彦坐王の母の意祁都比売命の妹。


山代之大筒木真若王(やましろのおおつつきまわかのみこ)


孫:迦邇米雷王 – 子に息長宿禰王、孫に息長帯比売命(神功皇后)、息長日子王(吉備品遅君祖、針間阿宗君祖)、大多牟坂王(大陀牟夜別、但遅麻国造祖)ら。


比古意須王(ひこおすのみこ)


伊理泥王(いりねのみこ)

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