【タブー】森啓成 (モリ・ヨシナリ)プロフィール 先祖の徳島藩 碁浦番所の役人兼庄屋だった八田家とは? 「八田家文書」は研究目的で貸し出されるも所在不明となった! 一日も早く返却されることを強く願う! 歴史上、不都合な古文書は貸したら戻らなくなる場合がある! 阿波秦氏!

◼️森啓成 (モリ・ヨシナリ) プロフィール

🔸経歴

神戸市生まれ、香川県育ち。米国大学経営学部留学。大手エレクトロニクス企業にて20年間、海外営業職に従事、北京オフィス所長を務める。その後、香港、中国にて外資系商社設立に参画し、副社長を経て顧問。

米国に2年、シンガポールに2年、中国に12年在住。

現在、Bizconsul Office代表。海外ビジネスコンサルタント、ビジネス英語講師、通訳案内士として活動中。

四国遍路通訳ガイド協会会員。観光庁インバウンド英語研修認定講師。


🔸保有資格等

【英語】
・全国通訳案内士(英語) 香川県登録番号: 第EN00087号
・英検1級
・TESOL (英語教授法)
・国連英検A級
・TOEIC:965点(L満点)、他

【中国語】
・全国通訳案内士 (中国語) 香川県登録番号: 第CH00007号
・香川せとうち地域通訳案内士(中国語) 香川県登録番号: 第CH00001号
・HSK6級、他

【ツーリズム】
・総合旅行業務取扱管理者
・国内旅行業務取扱管理者
・国内旅程管理主任者
・認定せとうち島旅ガイド (瀬戸内国際芸術祭2019 公式ガイド)

【その他】
・日本赤十字社認定ベーシックライフサポーター
・香川県高松市消防局 救命講習修了
・貿易アカデミー認定 貿易実務講座修了
・観光庁事業 文化観光施設での通訳案内士によるガイド研修 修了
・日本最大の英語 Q&Aサイト DMM英会話なんてuknow ? 公式アンカー

🔸座右の銘

🔸先祖

◼️私の父方の森家は代々、高松藩松平家に普請方として仕えていた武家だった。元は東かがわ市の馬宿に居住しており、後に横内へ移り、山を切り開いた。そこは、かしわ(柏)の木が多く茂っていたので柏谷と呼ばれた。

馬宿は屋島の戦いの際、源義経の一行が馬を休めた場所で、坂出の塩田を開発した久米通賢も住んでいた。馬宿の隣は黒羽(くれは)と言う土地だった。森家は、普請方として、金刀比羅宮の階段の造営に参画したり、松平家の主君が小磯の番屋の浜に涼みに来た際は、お膳立てをせねばならず金銭的に大変だったと聞いた。

森家は先祖をたどると引田の戦いで討死した森久村(森権平)の一族で、阿波水軍 森家の分家となる。始祖を佐田九郎左衛門と言い徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社に祀られている。

佐田九郎左衞門は因幡国から阿波に来たが、元は鎌田姓だった。その先祖は藤原秀郷となる。更に遡れば中臣氏の祖である天児屋命となる。

🔸阿波水軍 森家

http://satoyamasikoku.fc2web.com/tsubaki426.pdf

阿波水軍 森家の家紋 : 木瓜、分家の高松藩森家の家紋 : 丸に木瓜

徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社

🔸森家の出自と家系

『木瓜の香り』より

🔸大中臣氏の系図

天児屋命(アメノコヤネ)から藤原鎌足まで

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大中臣氏

🔸藤原鎌足から藤原秀郷

🔸江戸時代の森家の戸籍を見ると、高祖母は1846年(弘化3年)生まれで名を八田キヨと言った。徳島藩の板野郡にあった碁浦御番所の役人兼庄屋を代々務めた八田家(阿波秦氏)の長女だった。

私の曽祖父の妹 森トヨは、明治時代に東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだが、この三谷家は瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんの家系で、峰八さんの家は18世紀から代々、製糖業を営んでいた。瀬戸内寂聴さんの父は峰八さんの三男で名前を三谷豊吉と言い、瀬戸内家の養子となり、徳島市の眉山近くで神仏具店を営んでいた。この関係から私の大伯母は東かがわ市引田の積善坊での三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんとも交流があった。

実は、笠置シヅ子さんは東かがわ市黒羽の三谷家で生まれたが、この三谷栄五郎さんの家系も江戸時代から黒茂という屋号で和三盆を造る製糖業を営んでいた。今は分家の孫黒茂が和三盆の製造を受け継いでいる。

私の高祖母 八田キヨは徳島藩の板野郡碁浦から高松藩松平家に普請方として仕える森家へ嫁いできた。その娘である森トヨは東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ。

●東かがわ市黒羽の糖業感謝碑。三谷峰八さんの家はこの近くにあった。

🔸私の曽祖母は、黒羽中村の庄屋だった永峰家の長女で永塩因幡守氏継の子孫にあたる。永塩因幡守氏継は1467年に応仁の乱にて細川方として参戦し、安富元綱と共に京都御所北側の相国寺で壮絶な最期を遂げた(1467年11月8日)。残った永塩一族は、氏継公の死を深く、深く悲しみ、争いの世を恐れ、帰農し永塩姓から永峰姓に改姓し一族は江戸時代(妙空)まで身をひそめた。

🔸日本姓氏語源辞典

黒羽には氏継公が応仁の乱での武運を祈って妙見を祀り1467年8月4日に創建した黒羽神社が残る。氏継公は、黒羽城を居城とした。

永塩因幡守氏継が1467年に創建した黒羽神社

京都御所北側の相国寺

🔸黒羽と永塩因幡守氏継

🔸安富元綱

◼️高祖母の実家 碁浦番所とは?

●高祖母の生家 板野郡にあった碁浦番所。この碁浦番所には測量途中の伊能忠敬や四国遍路中だった松浦武四郎も立ち寄った。

◼️神戸市の三宮駅から鳴門市北灘町碁浦までは車で1時間半くらいかかる。

◼️高祖母の父 八田孫平が書いた文書

江戸時代に高松藩松平家に普請方として仕えた森家に嫁いできた八田家(阿波秦氏)の高祖母は阿波浄瑠璃が非常に上手かったと伝わる。高祖母の長男は自宅で琵琶を教えるほどの腕前だった。

阿波の板野郡は古代から秦氏が居住した土地でもある。日本の歴史上、秦氏は能や雅楽などの伝統芸能にも深く関わっていた。

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◼️秦氏の居住分布

◼️【参考】讃岐秦氏の居住地分布

香川県では香河郡(現在の高松市)に秦氏は多く居住していた。讃岐一宮の田村神社は元々は秦氏の氏寺であり、宮司は秦氏が務めた。高松市の峰山、紫雲山、大田周辺には古墳も多く残る。

◼️大化の改新以降、秦氏は、その出自を知られないように苗字を変えた。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/toraijin%20hatasi.html

ハタ・ハダという読み方は替えず、当てる字を変えた・・・畑、端、秦、畠、波田、波多、波蛇、羽田、八田、半田、矢田 

前記の苗字に野・山・田をつけるケース・・・波多野、秦野、畠山、畠田、畑川、畑中、広幡、八幡など

◼️明治生まれの私の大伯母(祖父の姉)のインタビュー記事 (昭和39年の神戸新聞)

記事内容は、武家のしつけ、阿波浄瑠璃の上手かった祖母(八田キヨ)、英語を使い旧神戸オリエンタルホテルで電話交換手のリーダー、2.26事件時の勤務、神戸大空襲で自宅は焼失するも夫婦共に生き延びる、GHQ宿舎での電話交換手、昭和天皇の宿泊など。

大伯母の母は東かがわ市黒羽中村の永峰家(黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫)の長女で、大伯母の父(私の曽祖父)の妹が東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いだ為、大伯母は三谷家の法事にも出席し、瀬戸内寂聴さんと交流があった。瀬戸内寂聴さんの祖父 三谷峰八さんは東かがわ市黒羽で江戸時代から代々、讃岐和三盆の製造をする豪農だった。三谷家の三男だった瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉さんは大伯母にあたる須磨の瀬戸内家の養子となり、徳島市で神具店を経営していた。

東京ブギウギなどのヒット曲を持つ歌手の笠置シズ子さんが生まれた東かがわ市黒羽の三谷家本家も屋号を黒茂といい製糖業を営んでいた豪農だった。今は分家の孫黒茂の三谷製糖が東かがわ市馬宿で和三盆の製造を継続している。

※浄瑠璃
三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。

詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。

江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。

単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる。

◼️徳島藩と高松藩の境にあった碁浦御番所

◼️碁浦番所 三ツ道具

◼️碁浦漁港

◼️江戸時代に松浦武四郎や測量中の伊能忠敬らもこの碁浦番所を訪れた。

◼️碁浦御番所跡

碁浦番所跡記念碑がある休憩所(黄色の囲み内)

◼️碁浦御番所の記録書である『八田家文書』は徳島県立図書館や徳島市立図書館、鳴門市立図書館などで閲覧できる。

滝よし子、森順子 著

この碁浦番所の貴重な記録である「八田家文書」の原本は研究目的ということで貸し出されたのだが、返却依頼するも返されず所在不明となってしまった‼️

八田家文書の解読中に日本の歴史上、不都合となる記述が発見されたと推測される。阿波風土記を始め、天皇家のルーツや本当の日本の成り立ちについて書かれた文書は焚書とされてしまう。蜂須賀家と徳川家にあった阿波風土記は明治期に姿を消してしまった。

八田家文書が一日も早く全て戻ってくることを強く希望する‼️

※小杉榲邨(こすぎすぎむら) : 著書「阿波国徴古雑抄」。明治5年、『阿波古風土記考証』を出版した時、回収騒動に発展した。阿波風土記は現在、所在不明となっている。歴史上、不都合な事(記紀とは異なる事)が書かれていたであろう。

例えば、播磨国風土記には宇治大君(ウジノワキイラツコ)の記載がある。応神天皇(竹葉瀬の君、宇佐家の末裔)の皇子 宇治大君が即位し、現在の宇治上神社と宇治神社がある場所に宮を置いていたが、後に仁徳天皇となる星川建彦に宇治川にて暗殺された。現在の奈良県天理市の皇子村にいたウジノワキイラツコの皇子と親族たちは自分たちも殺されると思い瀬戸内海を渡り、讃岐国屋島東側の岬に身を潜めた。皇子村は庵治(おうじ)村と漢字を変え、屋島東側を庵治(あじ)と呼んだ。庵治には皇子神社を建立し、現在もウジノワキイラツコの恐怖を忘れぬように船祭りのだんじりでは台座で死に装束に赤い血を表すタスキをかけて太鼓を叩く少年達を激しく揺らし回転させる。

別の話しとなるが、天皇家に皇后を多く出した和邇氏も渡来して来た日本海側の痕跡を消されている。日吉神社と名前を変えられた和邇部神社も閉鎖された。一方、日本海側から渡来してきた新羅の王子だったアメノヒボコは、神功皇后の先祖であるが、出石神社は今も土地の人達に崇敬されている。

※池辺真榛: 阿波出身の国学者。延喜式の研究を行っていたが、阿波の歴史についても深く知りすぎてしまい、その後、阿波藩政を非議したという罪を被せられ、文久3年(1863年)に身柄を拘束され、阿波藩邸に監禁され、不審な死を遂げた。

◼️『出雲と蘇我王国』斎木雲州著の中にも貸し出した古文書が再三返却依頼しても戻らなくなる例が書かれている。

日本の歴史に都合が悪い文書類を収集して、その内容を闇に葬る一団が存在する。

◼️曽祖母の先祖 永塩因幡守氏継と森家の始祖 佐田九郎左衛門

アメノコヤネ→中臣氏→藤原(中臣)鎌足→藤原秀郷→佐田(鎌田)九郎左衛門→森久村(森権平)→高松藩森家

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