【タブー】朝ドラ「ブギウギ」のモデル 笠置シヅ子さんの生き方と性格が分かるエピソードとは? 田中角栄さんとの強烈なエピソードとは? 自らギャラの値下げ交渉! 養父母への仕送りと故郷 東かがわ市引田でのコンサート!

◼️田中角栄さんとのエピソードとは?

1970年代後半に笠置シヅ子さんは、ある番組の地方収録のとき偶然に新潟発の飛行機内で田中角栄とさんと会った。

笠置シヅ子さんと田中角栄さんはお互いに面識はない。しかし、二人とも相手が誰だかは知っている。

その時、田中角栄さんが笠置さんに「いやあ、笠置さん」といかにも親しそうに言いながら手を差し出した。

しかし、笠置さんはプイと、そっぽをむいたまま握手を拒んだ。

そのとき田中角栄さんがどんな表情をしたかはわからない。

出した手を引っ込めて、憮然として立ち去ったのだろうか。

笠置さんは、飛行機を降りてから同乗者にこう言った。


 「あんな政治家がいるから日本が悪くなるのや」


こんなことはなかなか言えるものではない。

笠置さんは金権政治を許さない人だった。

この出来事はロッキード事件後のことだ。

田中角栄さんも、笠置さん同様、義理人情に厚い苦労人だったが、笠置さんは情緒に流されることなく物事を合理的に判断でき、毅然としたところがある人だった。

◼️田中 角栄(たなか かくえい)

1918年〈大正7年〉5月4日 – 1993年〈平成5年〉12月16日

日本の政治家、実業家、建築士。

◼️笠置 シヅ子(かさぎ しづこ)

1914年(大正3年)8月25日 – 1985年(昭和60年)3月30日

日本の歌手、女優。本名は亀井 静子(かめい しずこ)。戦前から戦後にかけて活躍し、特に戦後は「ブギの女王」として一世を風靡した。

躍動感に乏しい楽曲と直立不動で歌うソロ歌手しか存在しなかった戦後の邦楽界に、躍動感のあるリズムの楽曲と派手なダンスパフォーマンスを導入したことで革命的な存在になった。

笠置の歌は今日に至るまでたびたびカバーされ、日本のポップス、あるいはJ-POPに多大な影響を与え続けている。代表曲は1947年に発表された「東京ブギウギ」。

◼️笠置シヅ子さんの出生の秘密。未婚の母として。東大総長が後援会長。

◼️日本を元気づけた歌声とリズム 歌手 江利チエミ・笠置シヅ子の人生とは? (Youtube動画)

https://m.youtube.com/watch?v=xe5XeiNE_bU&pp=ygUP56yg572u44K344OF5a2Q

◼️笠置シヅ子さんの恩師 「東京ブギウギ」の作曲をした服部良一さん

服部良一さんは、自伝『僕の音楽人生』の中で、笠置シヅ子さんとの出会いについてこんな風に語っている。

「大阪で一番人気のある歌手と聞いていて、どんな素晴らしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませていたのだが…僕の前にあらわれたのは、髪を無造作に束ねてコテコテの大阪弁をしゃべる貧相な女の子だった。だけど彼女がいったん舞台に立つと全くの別人だった。三センチもある長いまつ毛の目はバッチリ輝き、ボクが棒を振るオーケストラにぴったり乗って“オドウレ!踊れ!”と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子たちとは別格で、なるほど!これが世間で騒がれていた歌手か!と納得したものです。」

◼️笠置シヅ子さんの言葉

婚約者だった吉本興業の御曹司 吉本穎祐(えいすけ)が結核の為、出産の数日前に亡くなった。芸能界を引退するつもりだったが、一人で娘を育てる決心をした。

吉本穎祐の母である吉本せいは、援助を申し出たが自分で育てていくと決断した。

その後、恩師 服部良一さんに歌を頼みに行った。

「これからは、捨て身でいきますさかい、先生、たのんまっせ!」

その時、服部良一さんが作曲した曲が、東京ブギウギだった。

◼️「東京ブギウギ」の作詞をした鈴木勝さん

◼️【4曲メドレー】ラッパと娘 // ヘイヘイ・ブギ // ジャングル・ブギー // 東京ブギウギ

◼️たのんまっせ

◼️歌手廃業、女優へ。自分でギャラの値下げ交渉



ブギが下火となった1956年(昭和31年)に発表された曲「たよりにしてまっせ」を最後に、シズ子は歌手廃業を宣言した。

理由は「観客を満足させる歌声、踊りが披露できなくなったから」「一人娘の育児を優先」といわれていたが、これについて後年に出演したテレビの対談番組で語ったところによれば「廃業の理由は『太りかけたから』」だったと告白した。

つまり、昔と同じように動けていれば太るはずがない、太ってきたのは動けていないからだということだった。

それに関連して、「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自ら汚す必要はない」とも語っている。

その後、シズ子は「笠置 シヅ子」と改名して女優活動に専念する。

かつてのヒット曲の一部には「ステレオバージョン」が存在するが、引退直前にリメイク版として録音したモノラル盤を後年に加工したものであり、引退後は公私問わず、鼻歌に至るまで一切歌を歌わなかったと遺族は証言している。

「笠置 シヅ子」として再スタートを切るにあたり、女優活動への専念については各テレビ局や映画会社、興行会社を自ら訪れて「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの「スター・笠置シヅ子」のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞ、ギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ている。

シヅ子はその後、得意の大阪弁を活かした軽妙な演技で多くの作品に出演したほか、1967年(昭和42年)からはTBSテレビの人気番組「家族そろって歌合戦」の審査員、1971年(昭和46年)からは、カネヨ石鹸の台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれた。

◼️おススメ。笠置シヅ子さん人生唯一の自伝。文句なく面白い🤣 私は笠置シヅ子さんの出身地とゆかりのある者であるが読んでいて情景が浮かんでくる。面白くて笑える。一生懸命に生きている姿に泣いた。

◼️笠置シヅ子さんは、香川県東かがわ市引田の萬生寺に養父母のお墓を建てた。また父 亀井音吉さんの頼みもあり1949年に萬生寺前にあった朝日座でコンサートを開いた。

1939年7月の松竹楽劇団(SGD)公演「グリーン・シャドウ」に出ていた頃のエピソード。

“この時期、SGDから支給される笠置さんの月給は二百円で、当時の若い女性がもらう給料としてはかなり高額だった。だがこの中から百五十円を大阪の両親に仕送りし、二十円を寄宿している山口宅に支払い、残りの三十円で衣服その他を賄ったのだから、笠置さんがいかに親孝行な娘だったかがわかる。”

◼️プロフィール

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