【タブー】東かがわ市生まれの笠置シヅ子さんの出生の秘密とは? なぜ東大総長が後援会長だったのか? 婚約者は吉本興業創業者の御曹司だったが未婚の母となった理由は?

◼️戦後を代表する歌手、笠置シヅ子さんは香川県東かがわ市黒羽(くれは)庄原で生まれた。

◼️出生の秘密

1914年(大正3年)8月25日に香川県大川郡相生村(現:東かがわ市)黒羽(くれは)庄原で生まれた。

父は、江戸時代から代々、製糖業を営んでいた三谷家当主 三谷栄五郎の長男 陳平、母は陳平の母親から和裁を習っていた谷口鳴尾と言った。

生後間もなく父親の陳平が亡くなり、母親は静子を連れて隣町の引田(ひけた)の実家に戻ったが母乳の出が悪かった。

そのため、偶然近所へ出産の為に帰省していた大阪市福島区の米屋の妻だった女性 亀井うめに貰い乳をしていた。

亀井うめは引田のメリヤス・手袋会社当主の妹だった。

結局、亀井うめが自分の実子と共に静子を大阪へ連れて帰って養女となった。

うめの実子の男の子は3才で亡くなった。

シヅ子が自身の出生について気付くのは18才のとき、実父 陳平の17回忌の法要に出席したときだった。

●相生小学校跡周辺

◼️笠置シヅ子さんの生まれ故郷 東かがわ市黒羽

●実父 三谷陳平

相生村の小学校、旧制・大川中学校(現・三本松高校)から通信学校に進み、引田の郵便局に勤めていた。

●実母 谷口鳴尾

相生村の隣の引田出身。陳平の母から和裁を学びながら陳平の家で家事手伝いをし同居していた。鳴尾は近所の娘らに和裁を教えていた。

静子が18才のとき、鳴尾に会うが、鳴尾のそばには5-6才の子供がおり、どちらから親子ということも言い出せず、それ以来、二人は会うことはなかった。

後年、静子は引田でコンサートを開催している。

貰い乳が縁で、静子の養母となる亀井うめは、同じく引田の手袋会社の当主の妹で、1939年4月に胃がんの為に亡くなった。

●養父母 亀井音吉、亀井うめ

●養母 亀井うめ

静子は生涯、養母のうめからなぜ自分を引き取って育てたのかを聞くことはなかったが、うめは弱い者を助けようとする気性を持ち、どこか侠気心のある女性だった。芸事の道を進めたのはこの養母のうめだった。

1939年4月、胃がんで亡くなった。

笠置シヅ子さんは、東かがわ市引田にある萬生寺に養父母のお墓を建てた。養父母は引田出身だった。

この萬生寺のすぐ近くにある積善坊には瀬戸内寂聴さんの父母のお墓がある。瀬戸内寂聴さんの父は瀬戸内家の養子となる前は三谷豊吉と言い、東かがわ市黒羽の出身だった。

◼️香川県大川郡引田町の引田町史

引田町史では、笠置シヅ子さんの祖父は三谷栄五郎とあるが、別の資料では、三谷椙乃助ともある。

●香川県立図書館資料

https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_0005-12

南原繁が師事した漢学者 三谷椙乃助とある。東かがわ市の引田町史では、三谷陳平の父は三谷栄五郎とある。

●18才の静子

◼️なぜ東大総長の南原繁さんが後援会長となったのか?

●笠置シヅ子さんの後援会長は、三谷家のすぐ近くの相生村南野出身で戦後初の東大総長となった政治哲学者の 南原繁(1889年生まれ)さんだった。

戦後初の東大総長となり、1946年に吉田茂首相と全面講和か単独講和かの論争をしていた南原繁さんだったが、笠置シヅ子さんの生い立ちの報道のされ方が正しくない、間違っていると非常に心配し、面識はなかったが、ある日、笠置シヅ子さんに電話をして会う約束をした。

両者とも超多忙で、笠置シヅ子さんがアメリカ公演から帰国してからやっと会えることとなった。

南原繁さんは、三谷陳平さん、谷口鳴尾さんを知る人間として笠置シヅ子さんに真実を伝えた。

南原繁さんは、笠置さんの実父 三谷陳平さんの友人であった。

また笠置シヅ子さんの祖父は漢学者で南原繁さんはその教え子であった。

南原繁さんは三谷陳平さんより学年はひとつ上。

同じ小学校、旧制大川中学校(現・三本松高校)に通い、夏になると一緒に海水浴に行っていた。

陳平は長屋門のある家に住む豪農で地主の一人息子だった。

陳平は中学校を卒業すると通信学校に通い、引田の郵便局に勤めた。

残念ながら陳平は25才の若さで亡くなった。

谷口鳴尾さんは陳平の母から和裁を習いながら三谷家に同居していた。

鳴尾はまた近所の娘らに和裁を教えていた。

谷口鳴尾は由緒ある家柄の出身で三谷家の親戚筋である。

陳平さんの性格から、二人は純粋に惹かれていた。

●ちなみに笠置シヅ子さんの後援会員には、梅原龍三郎、吉川英治、林芙美子などそうそうたる顔ぶれが揃っていた。会員の多くは戦後、止むに止まれぬ理由から夜の女となっていったパンパンだった。

●南原繁さん

香川県東かがわ市南野出身。総理大臣の吉田茂にも一歩もひかず講和条約の論争を行なった気骨のある信念の人だった。

旧制・大川中学校(現・三本松高校)、第一高等学校、東大卒業。内村鑑三の弟子。クリスチャン。

●結婚披露宴で同席した笠置シヅ子さんと南原繁さん

◼️婚約者は吉本興業創業者の吉本せいの一人息子 吉本穎右(えいすけ)だったが、未婚の母となる!

●吉本興業創業者の吉本せい

シヅ子は、私生活では、8歳年下の吉本穎右(よしもとえいすけ、吉本興業の創業者・吉本せいの子)と知り合い交際に発展・妊娠にいたるも穎右を吉本の後継者に待望していたせいは最初は、シヅ子を気に入らず断固として穎右との結婚を認めなかった。後に吉本せいの態度は軟化した。

●吉本穎右(えいすけ)

幼少より病弱であった穎右は1947年(昭和22年)5月に23歳の若さで病没。

なお、シヅ子は穎右の死後、数日後に女児(一般人、名は穎右に由来しヱイ子という)を出産した。

穎右が亡くなり、ヱイ子が生まれた時、シヅ子は吉本せいと初めて対面した。その際、せいは態度を軟化させ、ヱイ子を引き取り育てる提案もしたがシヅ子は自分一人で育てていく決心をした。

それは、実父母に育てられなかった自分と同じ境遇にはしたくなかったからだった。

1947年5月に最愛の穎右を亡くし、6月にヱイ子を出産、そのすぐ後に服部良一に頼み、その数ヶ月後に「東京ブギウギ」を歌い、日本中で大ヒットさせた。

●笠置シヅ子さんの愛娘 亀井ヱイ子さん

●東京世田谷の自宅

●亀井ヱイ子さん

●亀井ヱイ子さん

◼️【オススメ】笠置シヅ子さん唯一の自伝

🔸アマゾンで見る

https://amzn.to/3uu1XgF

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です