🟣香川県の一ノ宮 高松市にある田村神社の北側の鳥居をくぐって参道を歩いていくとすぐに八咫烏の像に遭遇する。
なぜこんなところにいきなり八咫烏の像を配置しているのか不思議に思うだろう。
八咫烏の像を通り越して少し歩くと田村神社の主祭神の倭迹迹日百襲姫と弟の吉備津彦命の像が目に入ってくる。
岡山での鬼退治をモチーフにした像である。鬼は温羅(うら)と呼ばれる百済から渡来してきた一族のことだ。
讃岐では、倭迹迹日百襲姫のもう一人の弟であるワカタケヒコが高松市の鬼無(きなし)と女木島(鬼ヶ島)で海賊を退治した鬼退治伝説が伝わる。
🟣【出雲王家口伝】「出雲王国とヤマト政権」 (大元出版)
●出雲王家 登美家に伝わる口伝解説動画
●出雲王国の王家である登美家 末裔の口伝では、倭迹迹日百襲姫は、登美家の分家 太田家の娘であり、孝霊天皇の皇女ではない。
記紀の記述とは異なり吉備津彦命とワカタケヒコは、倭迹迹日百襲姫の弟ではなく、父のフトニ大王 (孝霊天皇)と出雲に攻め入り出雲を降伏させたと伝わる。
出雲王家の口伝によると、倭迹迹日百襲姫の世話をしたのが、八咫烏と呼ばれた太田タネヒコとなっている。彼が三輪山の祭主となり、倭迹迹日百襲姫が巫女となり三輪山西部で祭りごとを行いヤマトに平和をもたらした。その事が魏志倭人伝にも書かれている。
太田タネヒコは、物部の九州からヤマトへの東征の時、大乱の世の中にあったヤマトを鎮めるため物部を利用しようと考え、和歌山から奈良へと案内し導いたため、八咫烏、トビ(登美家)の案内と呼ばれる。
物部の第一次東征は、倭迹迹日百襲姫の巫女的カリスマ性により、民衆の心を掴めず失敗に終わる。
その後、物部は、第二次東征では宇佐の豊玉姫、娘の豊姫(台与)を巫女としてヤマトに攻め入り東征に成功した。
↓ 田村神社の境内にあり違和感を覚える八咫烏の像の真の意味は、その隠された事実(倭迹迹日百襲姫と世話をした八咫烏の太田タネヒコ)の関係を暗に表しているのかもしれない。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は二人の巫女が融合して書かれている。
一人は箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫。
もう一人は、(香川県三木町の和爾賀波神社や鰐河神社、男木島等に祀られる)豊玉姫。
豊玉姫は、大分県の宇佐家の娘で、物部氏と組み、ヤマトに攻めたが、奈良への途中、広島辺りで亡くなり、後に娘の豊姫(台与)が、ヤマトを治めた。豊玉姫の夫は、イニエ大王である崇神天皇。
●魏志倭人伝に見られる卑弥呼は、桜井市の出雲王家 登美家の分家の娘 倭迹迹日百襲姫と大分の宇佐家 豊玉姫が融合されて書かれている。
桜井市の三輪山の祭主が太田家の太田タネヒコ、姫巫女が、倭迹迹日百襲姫。
記紀には倭迹迹日百襲姫はフトニ大王(孝霊天皇)の娘とされているが、太田家の娘とある。
この姫巫女(ヒメミコ)が魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」と書かれた。
239年に魏へ使いを出して100枚の鏡を受け取った「邪馬台国」の卑弥呼は倭迹迹日百襲姫ではなく、宇佐家の豊玉姫。
太田家の領地は、纏向遺跡(まきむくいせき)と呼ばれている。倭迹迹日百襲姫は纏向遺跡に住んで祭りごとを行なった。