【古代史】古代の歴史を調べる際に気をつける点は? 箸墓古墳に眠り、讃岐一宮 田村神社と東かがわ市 水主神社の御祭神である倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)は複数人いたのではないか?

🟣これまで様々な古代史の書籍を読んだり、古代史ゆかりの地に足を運んだりして来たが、古代の歴史を調べる際に気をつける点は下記のような点である。

このような点があるため、古代史は難解な謎解きのようになっている。

一番困難にしているのは、日本の正史とされる日本書紀に本当の歴史が書かれていないことである。

天皇家の万世一系を保つ為に歴史が捻じ曲げられている。

天皇家を正当化する為、ヤマト政権に従わない元々、土着していた人々は土蜘蛛と呼ばれまつろわぬ者として扱われた。

また古代史の超重要人物である渡来人 徐福の名前の記載がないことや出雲王国の本当の歴史も書かれていない。秦氏の功績や活躍も最小限しか書かれていない。これは簡単に言えば、当時の時代背景から中国に対してカッコをつける為だ。

以下、古代の歴史を調べる際に注意する点。

●同一人物が複数の名前を持つ

例:

神武天皇

別名↓

神日本磐余彦天皇
狭野尊
神日本磐余彦火火出見尊
磐余彦火々出見尊
磐余彦尊
磐余彦帝
神倭伊波礼毘古命
豊御毛沼命
始馭天下之天皇

漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。

出雲王家口伝による

徐福の別名↓

ニギハヤヒ、ホアカリ、スサノオ

●同一神が複数の名称を持つ。

例:

天照大神

別名:

大日孁貴神

大日女尊

大日孁

大日女

天照日女之命

天照孁女貴

撞賢木厳之御魂天疎向津媛命

●世襲制の役職名がある。一人の人物ではなく何代にも渡り複数人が世襲した。

例:

大国主命

武内宿禰 

●春秋暦の使用:

3世紀以前の日本の暦は農耕に適した春〜秋までを1年、それ以外を1年とする2倍暦年の春秋暦を使っていたと「魏志倭人伝」に記載あり。

● ヒーローを作り出したり、何かのシンボルにする為、様々な功績や事象が一人の人物に集められたりする。その事により都合が良かったり、利益を得るものがいた。

例:

・聖徳太子、ヤマトタケル→複数の人物の功績をまとめる形で創られたキャラクターか?

・スサノオ→渡来してきた徐福一族とその子孫の集合体、エネルギー体か? 熊野本宮大社、熊野速玉神社に祀られているのは徐福、東征時に熊野に上陸したのは徐福の子孫たち。

・神武天皇→複数の人物を一人にまとめた。

・空海→様々な事象を空海由来とする空海伝説が数多く残る。空海の弟子の行為も含まれる。

・役行者→日本各地に伝承が残る。役行者の弟子の行為も含まれる。

●漢字が変えられている。

奈良県桜井市の等彌神社(とみじんじゃ)

等彌神社

ヤマト王朝の初期、三輪山を遙拝する祭が、三輪山の南にある等彌神社のある鳥見山で行われた(霊時)。

ヤマト王朝の初期から、出雲のサイノカミ信仰に基づいて春と秋に大祭が行われ、三輪山にこもる太陽の女神を祀っていた。

その中心が姫巫女(ヒメミコ)。出雲王家の血を引く登美家/富家の娘が姫巫女となった。

大王をはじめ、ヤマト中の豪族たちが集まって祭に参加した。

ヤマト王朝では、このような祭を中心とした政治方式が行われていた。祭祀は政治より上で、祭祀は女性によるので、姫巫女を中心とした政権だった。

八咫烏 太田タネヒコが、物部勢の武力を利用しヤマトの出雲勢力を弱体化することに成功し、ヤマトの大王になることを目論んで三輪山の祭主となった後、鳥見山で行われてきた三輪山を遙拝する祭は、三輪山の西の太田家の領地(纒向)で太田タネヒコの世話のもと、倭迹迹日百襲姫により行われた。

倭迹迹日百襲姫は、登美家の分家である太田家の娘。記紀にあるように孝霊天皇の娘ではなく、また、吉備津彦やワカタケヒコではない。纒向で祭祀を行いヤマト騒乱を鎮めたことが魏志倭人伝に書かれている。卑弥呼は魏がつけた蔑称で、姫巫女のことである。当時、ヤマトは魏の属国だった。第二の卑弥呼は第二次モノノベ東征を指揮した宇佐家の豊玉姫である。

漢字が、出雲王家である登美家の登美神社ではなく等彌神社となっている為、出雲王家との関係を分からなくなっている。

ちなみに1万3000年以上続いた縄文時代に日本へ渡ってきたのが、和邇族、宇佐族、出雲族である。

1736年に等彌神社の境内の池のほとりの松の切り株をほると2,000年前の土偶が発掘された。八咫烏の土偶とも言われ、神宝とされている。

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◼️倭迹迹日百襲姫を御祭神とする讃岐一宮の田村神社境内には、表向きの古事記、日本書紀では、弟とされる桃太郎伝説で知られる吉備津彦の像がある。また、出雲口伝で倭迹迹日百襲姫の世話をした太田タネヒコ、別名 八咫烏の像の両方が設置されている。

田村神社は秦氏の氏寺で代々、秦氏が宮司を務めた神社で、百済系渡来人の末裔である行基が創建した神社である。

古代讃岐には石清尾山に日本に数基しかない双方中円墳を含む200基以上の古墳があり、石清尾山南麓には秦氏や綾氏が住んだ坂田郷がある。また、屋嶋の城を築いた百済の亡命者、空海の母方の阿刀氏、東かがわ市黒羽の名称の由来にもなった呉の渡来人や原間古墳など渡来人の痕跡、伝承が数多く残る。

隣の阿波では忌部氏が有名だが、阿波板野郡にあった碁浦番所の役人を代々務めた八田氏(秦氏)は私の高祖母の家系にあたる。

●高祖母 八田キヨは、板野郡碁浦番所の役人を代々務めた家系、阿波国板野郡の秦氏。曽祖父の妹 トヨは、江戸時代から讃岐和三盆を製造する東かがわ市黒羽の旧家 三谷家へ嫁いだ。瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉さん(後に神戸市須磨区出身のクリスチャン 瀬戸内家の養子となり徳島市で仏具店を営んだ)や笠置シヅ子さん(大阪市福島区の三谷家の親戚 亀井家の養女となった)の実の父親 三谷陳平さんも代々、和三盆を製造するこの三谷家の出身である。そんな関係から私の大伯母は晴美さん(瀬戸内寂聴さん)とは交流があった。

碁浦御番所 八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

🟣倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ / やまとととびももそひめ)は複数人存在したのではないか?

名前の意味は?

『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される。

名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある。

百襲姫という名は数々の勲功をあげたこと(襲は勲功の意味)によるもので、実際に「日本書紀」の記述にも、百襲姫はたいへん聡明で英知に長け、霊能力が優れていたと記されている。

なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される。

また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる。

◼️倭迹迹日百襲姫は「ヤマトの巫女で多くの功績をあげた姫」と一般名詞のように解釈すると複数人いたとしても不思議ではない。

またトビを登美と解釈すれば、「ヤマトの登美家(出雲王家)の巫女で多くの功績をあげた姫」となる。

実際、奈良県の箸墓古墳の被葬者とされている倭迹迹日百襲姫は、香川県東かがわ市と高松市に数多くのゆかりの地と伝承が残っており複数人いたと考える方が自然だ。

また、東かがわ市の水主神社には姫の御陵があり、高松市には船岡山古墳、一宮寺境内にも姫の御陵がある。

箸墓古墳に眠る百襲姫が、幼少期に讃岐に来て実際に生活していたのか、別の百襲姫がヤマトから讃岐に来て亡くなったのか、姉妹がいたのか⁉︎ ホツマツタエには三つ子だとある。水主神社に残る書物にも姉妹がおり妹の田村神社に一宮を譲ったという記載がある。

東かがわ市の水主神社を訪問し、宮司の大内さんに直接、倭迹迹日百襲姫は実際にこの地に来ていたのか尋ねたことがある。その時のお答えは、「いろいろな伝承が残っていると言うことは、やはりそれなりのことがあったのではないでしょうか」というものだった。

●ホツマツタエの記述

32文:
『夏 内侍 ヤマトクニカが 三つ子生む 名は皆ヤマト モモソ姫 ヰサセリヒコに ワカヤ姫 母もヤマトの 大宮姫』

◼️香川県東かがわ市の倭迹迹日百襲姫のゆかりの地と伝承が残る場所

●艪掛(ろかけ)神社 : 東かがわ市馬篠

●安戸(あど)池 : 東かがわ市引田

●塩竃(しおがま)神社 : 東かがわ市引田

●水主神社 : 水主 (宮を置いた。父の孝霊天皇も一時期住んでいたと推測される)

●保田池 : 東かがわ市西村 

●袖掛(そでかけ)神社 : 東かがわ市小磯 (暑くてたまらず袖を切り離した伝承が残る)

◼️高松市の倭迹迹日百襲姫のゆかりの地と伝承が残る場所

●船岡山 : 香川町

●船山神社 : 仏生山町。百襲村だった。

●田村神社 : 高松市一宮町

●<参考> 岡山神社(岡山県岡山市北区)の祭神も倭迹迹日百襲

◼️【推測】倭迹迹日百襲姫は複数人存在し、その内の一人は、幼少期、奈良県から讃岐にやって来て水主神社や田村神社で暮らした、そしてその時の記録がゆかりの地に伝承として残っている。また、別の倭迹迹日百襲姫は出雲口伝にあるように三輪山の纏向遺跡辺りで太田タネヒコ(八咫烏)の世話のもと、祭祀を行なった(一人めの卑弥呼→箸墓古墳。二人めの卑弥呼は第二次モノノベ東征時の豊玉姫)。

或いは同一人物の幼少期と晩年のことを表しているのかもしれない。

私は、奈良県の三輪山に複数回登り、纏向遺跡や箸墓古墳、田村神社、船岡古墳、船山神社、水主神社など倭迹迹日百襲姫ゆかりの地の殆どに足を運んだが、讃岐に来た百襲姫と三輪山で巫女だった百襲姫は別人格と感じる。

水主神社が所蔵する「大水主大明神和讃」によると「そもそも当社は当国(讃岐国)の一品一の宮なるべきを御妹に禅[ゆず]りまし」とある。

この記述から読み解くに奈良から讃岐に来た百襲姫は姉妹であり、それぞれ姉は水主神社で先に亡くなり水主神社の姫の御陵に眠る、そして妹は船岡山古墳辺りに移って宮を置き、船山神社周辺で農業発展に尽力し(百襲村の地名が残る)、その後、田村神社に移った。この地で最期を迎え、船岡山古墳に眠っていると思われる。

●水主神社と船山神社の位置関係

●高松港、栗林公園東側の石清尾山塊古墳群(日本に数基しかない双方中円墳を含む200基以上の古墳がある)、田村神社、船山神社、船岡山古墳(船山神社の南南西、船岡池北側)

●讃岐一宮 田村神社境内にある記紀上では兄妹となっている倭迹迹日百襲姫と弟の吉備津彦。

●出雲口伝では倭迹迹日百襲姫は孝霊天皇の皇女ではなく、吉備津彦やワカタケヒコも弟ではない。フトニダイ大王(孝霊天皇)は息子の吉備津彦とワカタケヒコと共に出雲を攻めて降伏させたと書かれている。出雲王国の王家である登美家 末裔の口伝では、倭迹迹日百襲姫は、登美家の分家 太田家の娘である。

出雲口伝では、第一次モノノベ東征時に和歌山から奈良まで道案内をしたのが太田タネヒコ、別名 八咫烏だ。その太田タネヒコが倭迹迹日百襲姫の世話をした。

その事に関係するかどうかは不明だが、田村神社の境内には八咫烏の像が設置されている。

田村神社は元々、秦氏の氏寺で、宮司は代々、秦氏が務めた。創建は百済系渡来人の末裔である行基である。

●出雲王家 富家の口伝書

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