【タブー】阿波 秦氏の血が流れていて驚いた!

これまで20年くらい、日本の成り立ちや神社、渡来人、渡来系氏族などに異様に興味があり、ゆかりの地を訪ねたりして、ずっと調べてきた。

なぜこんなに興味があるのか自分では全く分からなかった。

2022年11月6日に、「讃岐の渡来人の痕跡」と言う記事を書いた。

2022年11月8日に、何となく気になって、父方の江戸時代の戸籍謄本をひっぱりだして見て、もしかしてと思い、調べてみて腰を抜かした。

灯台下暗し、とはよく言ったものだ。

自分の高祖母(ひいひいばあちゃん)が、徳島県板野郡で代々、碁浦番所の役人を務めた八田氏の家系だったのだ💦💦

まさか、自分に阿波 秦氏の血が流れているとは全く考えてもみなかった。

本当に驚いた💦💦

まあ四国や関西は弥生、古墳時代に大陸から多くの渡来人がやって来て、住み着き、同化していったのだから珍しくはないが、なぜこれまで異様に渡来人や日本の成り立ち、神社に関心があったのか分かったような気がした。

欧米志向で英語が好きで、アメリカに留学し、仕事も欧米市場担当だったのだが、自分の意に反して全く興味がなかった中国に駐在することとなり、中国で12年も働くことになったり、京都や奈良の秦氏にまつわる場所に訪れたりしていたのは、ご先祖様の導きがあったのかもしれない。

この11月8日と言う日は、ご先祖様の一人である永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ)が1467年に応仁の乱で讃岐守護 細川勝元側について参戦し、京都御所北側の相国寺で亡くなった命日にあたる。

これは偶然ではない気がする。

◼️江戸時代の戸籍謄本

高松藩松平家に仕えた森家

高祖父の父 森義右エ門。

武士だった高祖父 森喜平、高祖母は板野郡碁ノ浦村の碁浦番所から嫁いできた八田孫平さんの長女 八田キヨ。

明治時代となり農家を営んだ曽祖父の森虎太郎、曽祖母は東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 永峰家から嫁いできた。永峰家は元々、永塩姓だったが戦国時代に帰農し、永峰姓となった。

曽祖父(ひいじいちゃん)の妹は、明治時代に、東かがわ市黒羽(くれは)の旧家 三谷家に嫁いでいる。黒羽の三谷家の一族は、江戸時代から讃岐和三盆作りを続ける家系だ。

瀬戸内寂聴さんの父親の三谷豊吉さんや祖父の峯八さん、笠置シヅ子さんの実父の三谷陳平さんも三谷家の方だ。

そんな関係があったから、私の大伯母(祖父の姉)は、生前、瀬戸内寂聴さんと交流があった。子供の頃、大伯母が神戸から帰省し、「晴美さん(瀬戸内寂聴さん)の家に行ってくる。」と言ったのを聞いたことがある。あれは、法要か何かで寂聴さんの父方の実家に行っていたのだろう。

瀬戸内寂聴さんは法要で東かがわ市引田の積善坊や黒羽を訪れている。積善坊には、十字架の印が彫られた寂聴さんの父母のお墓がある。父の三谷豊吉さんが養子となった瀬戸内家は神戸市須磨区から徳島市へきたクリスチャンだった。

●碁浦番所【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。


海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年(1585年),讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。

出典: 角川日本地名大辞典

●史跡 碁浦番所跡

碁浦御番所八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

◼️秦氏の全国分布と改姓後の姓名

南海道 阿波国 板野郡

http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262974.html

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの渡来人 秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの一族の末裔である。

●永塩因幡守氏継が創建した東かがわ市の黒羽神社にて

●秦氏に関して

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です