◼️日本の歴史の授業では記紀を正史としている為、教えられないが、実際の弥生時代から古墳時代の日本の成り立ちは徐福と渡来人たちがキーパーソンであり、彼らを抜きにしては語れない。
実際の歴史と記紀に書かれた歴史の矛盾があからさまになっては天皇の万世一系の正当性を唱える宮内庁や歴史学会にとって都合の悪い事態に陥ってしまう。
例えば、天皇家の古墳と言われる古墳を発掘すると歴史が覆るものばかりが出てくる為、日本の歴史をたびたび書き換える訳にはいかず宮内庁により立ち入り禁止、発掘禁止とされている。
戦前は、地方の神社に残る社伝や歴史書は書き換えさせられたり、偽書とさえ扱われたものもある。歴史は勝者が書き換える。
記紀は藤原不比等により改ざんされ出雲王国の存在がなかったかのように扱われており矛盾だらけの内容となっている。日本の本当の歴史を分からなくしている。
だから日本の本当の成り立ちを知ろうと思えばわずかに残る風土記や神社の社伝、旧家の口伝や古史古伝などの情報を比べ合わせて歴史を繋いでいく必要がある。
紀元前3世紀に2度に渡り徐福と共に渡来して来た秦氏をはじめとする渡来人たちの多大な影響により、日本という国が成り立ったのは紛れもない事実である。
残念ながら日本は歴史の記録を残したり、情報伝達の為の文字を持たなかった(普及はしなかったが神代文字はあったであろう)。だから日本の記録が歴史上、最初に登場するのは紀元前の中国の歴史書の中だった(漢書地理志)。
古墳時代に渡来人が日本へ漢字を伝え、渡来人の漢氏(あやし)が文筆や漢字の普及にあたった。また機織りや土木技術は秦氏が伝えた。
弥生時代や古墳時代には国境という概念がなかったから、自分達が住んでいる場所で戦が起これば、それを逃れて大陸から日本へ渡ってきたり、また逆に日本人が朝鮮へ渡ったりすることもあった。今みたいにパスポートや国籍もない時代だから船で勝手に大陸へ渡り、住み着いたりする者達もいた。
犹太人(ユダヤ人)系の方士だった徐福は一度目は島根県に上陸し、ホアカリと名乗った。二度目は、九州北部に上陸し、ニギハヤヒと名乗り吉野ヶ里遺跡がある場所に居住した。一度目も二度目も多くの者(計 5千名)を引き連れてやって来た。紀元前3世紀の出来事となる。
◼️饒速日命 (= 徐福)の別名、末裔氏族、祀られる主な神社
◼️佐賀市における徐福の痕跡
https://www.sagabai.com/main/3776.html
◼️徐福の年表
徐福の子孫たちは日本の初代大王のアメノムラクモ(徐福の孫、籠神社の海部氏)となり、海部王朝、磯城(しき)王朝、物部王朝と王朝は交代していった。
◼️出雲王家の富家口伝に伝わるヤマト政権の歴代王朝
◼️景行天皇は物部系の天皇
物部王朝 : 「五十瓊敷命」(イニシキノミコト)はイクメ大王(垂仁天皇)の長男だったが、王位を後継せず、次男の「忍代別」(オシロワケ)が大王を継ぎ、後に「景行天皇」となった。
◼️出雲口伝によると、彦火明(ホアカリ) =徐福=ニギハヤヒ(饒速日命)。初代大王のアメノムラクモは徐福の孫にあたる。
京都府宮津市にある籠神社宮司家の海部氏の始祖: 天火明(饒速日命、徐福) → 息子: 天香語山(五十猛) → 孫: 天村雲(初代大王)
◼️京都宮津市の籠神社の祭神
ホアカリは、徐福、つまりニギハヤヒ(饒速日命)のこと。
◼️物部氏の氏神 石上神宮(天理市)と景行天皇陵(桜井市)
◼️崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓古墳
◼️徐福の本来の表記は徐巿(じょふつ)と書く。
→ 日本書紀に登場する経津主神(ふつぬしのかみ)やヤマト政権の武器庫と言われる物部氏の氏神である石上神宮の主祭神 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は徐福のこと。素戔嗚(スサノオ)が使っていた刀を布都斯魂剣と言う。
🔸徐福 = 天火明 = 饒速日命 = 素戔嗚(スサノオ) = 布都御魂大神
◼️物部氏の氏神 奈良県天理市の石上神宮の祭神
●主祭神: 布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)は徐福のこと。
●配神: 宇摩志麻遅命(うましまぢのみこと)は、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖とされる人物。父は饒速日命(徐福)。
邇芸速日命(徐福)が那賀須泥毘古の妹である登美夜毘売を娶って生んだ子で、『先代旧事本紀』では天香山命(尾張氏の祖、五十猛)が異母兄であり、彦湯支命の父であると伝える。
◼️霊剣である布都御魂は石上神宮拝殿の裏手の禁足地に埋められていたが、明治7年(1874年)に当時の大宮司の菅政友によって発掘され、本殿内陣に奉安され、御神体として祭られている。その際、刀鍛冶師の月山貞一(初代)が作刀した布都御魂剣の複製2振が本殿中陣に奉安された。
菅政友によって発掘された物は、形状は内反り(通常の日本刀とは逆に刃の方に湾曲)の片刃の鉄刀。柄頭に環頭が付いている。全長は記録によって微妙に異なるが、85cm位である。
明治7年に神主の菅政友により発掘が行われた際、禁足地から見つかった。その内の1本が「布都御魂」とされた。
同じく明治時代に発掘された別の刀は布都斯魂剣(ふつしみたまのつるぎ)であるとされた。これは、素戔嗚(スサノオ、火明、徐福、饒速日)が八岐大蛇を退治する時に使用した天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)の事である。
◼️物部王朝期の第十二代天皇 景行天皇は多くの子を残したが、その中に後に讃岐の豪族となる佐伯氏がいる。この讃岐の佐伯氏は空海の父方にあたる。母方は物部守屋の系統の物部氏直系の阿刀氏。空海は遣唐使として中国に渡り、20年の滞在期間をわずか2年で密教の奥義を学び終えることができ、多くの経典を持ち帰ることが出来た背景には、空海の並外れた聡明さと佐伯氏の財力、そして中国へ渡る前からマスターしていた中国語の実力によるものである。
◼️徐福(=火明、饒速日命) → 物部氏
【空海の父方】物部氏 → 景行天皇 → 佐伯氏 → 空海
【空海の母方】物部氏 → 阿刀氏 → 空海
◼️佐伯氏 (さえきうじ)
日本大百科全書
播磨(はりま)(兵庫県)・讃岐(さぬき)(香川県)の地方豪族で、ともに景行(けいこう)天皇の後裔と伝える。本姓は直(あたい)。僧空海(くうかい)は讃岐国多度(たど)郡領家(りょうけ)たる佐伯直氏の出身である。
◼️佐伯氏の一族からは、空海をはじめ宗教家が多く輩出された。遺伝子的に犹太人の方士であった徐福の影響があるのかもしれない。
🔸円珍: 讃岐国多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。
🔸佐伯 好郎(さえき よしろう)
明治4年8月1日(1871年9月15日) – 1965年6月26日)
日本の言語学者・英語学者・西洋古典学者・ローマ法学者・東洋学者・東洋宗教史家。キリスト者でもある。
広島県佐伯郡(現・廿日市市)で父・友七と母・トヨの間に生まれる(生家は厳島神社神主職を務めた佐伯氏の流れをくむとされる)。
言語学・法学・歴史学など複数分野にまたがる西洋古典学の研究・教育で大きな業績を残したが、特にネストリウス派キリスト教(景教)の東伝史に関する研究で国際的に有名になり「景教博士」と称された。
また日本人とユダヤ人が同祖であるとする日ユ同祖論の最初期の論者としても知られ、独自の歴史観を唱えた。
戦後は故郷・廿日市の町長を務めるなど、戦災や原爆で荒廃した広島県の再建に尽くした。
もしかすると、佐伯好郎氏は、自分の先祖が犹太人系の方士 徐福であることを知っていたのかもしれない。徐福(饒速日命)→物部氏→佐伯氏