マイ・ファミリー・ヒストリー! 阿波水軍と森権平(森久村)! 黒羽城と永塩因幡守氏継! 阿波と讃岐の県境にあった碁浦番所の八田氏と秦氏! 瀬戸内寂聴さんと笠置シヅ子さんと讃岐和三盆!

🟣父が亡くなった際、父方の戸籍謄本を取り寄せた。

そうすると、これまで知らなかった先祖達の姿と想像もしていなかった人達とのつながりが見えてきた。

●江戸時代の先祖

祖母から聞いたことはあったが、森家は、戦国時代の1583年に、香川県東かがわ市での「引田の戦い」で土佐の長宗我部元親軍(長宗我部家は秦氏の末裔)と戦い、討死にした森久村 (森権平) の一族と言うことだった。

森権平(森久村)は遡れば、先祖は佐田九郎左衛門となり、佐田九郎左衛門は姓を森に変え、阿波水軍の森氏の開祖となった。私の先祖は、その森氏の分家に当たる。家紋も本家の木瓜紋に対し、分家ということで、丸に木瓜紋となっている。

●森家の始祖 佐田九郎左衛門を祀る佐田神社 (徳島県阿波市土佐泊)

◼️森家は、江戸時代には、大内郡(今の東かがわ市)の相生村の馬宿や丹生村に住み高松藩 松平家に仕える武士だった。

普請役として道路やため池、橋の工事などに携わった。金毘羅さんの階段修築にも参画した。

東かがわ市小磯の番屋の浜に松平家の殿様が遊びに来る度に、一行のお膳立てをせねばならずかなりの金額がかかり大変だったとよく聞かされた。

第二次世界大戦中に甲冑や武具、刀、鉄類は全て国に供出してしまい今は残っていない。唯一、刀の”つば”数個だけが残っている。

明治生まれの大伯母(祖父の姉)が昭和30年代に神戸新聞のインタビューを受けた際の記事に、武家のしつけや三味線を弾きながら舟で島に渡って花見をしていたという暮らしの一部が書かれている。

◼️神戸新聞: 大伯母のインタビュー記事

【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務めた。川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務。二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換。瀬戸内寂聴さんとの交流。

佐田九郎左衛門 (徳島県鳴門市の土佐泊から阿南市の椿泊に移り住んだ) 阿波水軍 森家の開祖

森元村 

森村吉 

長男: 森村重(森甚五兵衛家の始まり) →→→徳島藩 阿波水軍 森家

弟 : 森権平(仙石久村/森久村)一族 →→→高松藩

森義右エ門

森喜平

森虎太郎

祖父

●阿波水軍 森氏の家紋 木瓜紋(左)、高松藩 森家の家紋 丸に木瓜紋(右)。

●高松藩 松平家の家臣一覧

『高松分限録 嘉永年間』より藩士家名

https://www.kakeisi.com/han/han_takamatu.html

●香川県史

https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_2033-08

◼️高祖母 八田氏

江戸時代の戸籍謄本を見ると、私の高祖母(ひいひいばあちゃん)は、徳島県板野郡碁ノ浦村(現在の徳島県鳴門市北灘町碁浦)から森家に嫁いできた。後年、阿波浄瑠璃が上手かったと大伯母が神戸新聞のインタビューで答えている。

徳島藩から高松藩に藩をまたいで嫁いできたことになる。

弘化元年(1864年)のことだ。

私の高祖母は、八田孫平さんの長女で名を八田キヨと言った。

庄屋だった八田家は、代々世襲で讃岐と阿波の県境の碁浦番所と言う関所の役人を務めた。

この番所は測量途中の伊能忠敬や松浦武四郎らも立ち寄った番所だ。

碁浦御番所 八田家文書をまとめた文献が残っている。鳴門市立図書館や徳島県立図書館で閲覧することができる。

◼️「八田家文書」に出てくる私の高祖母 キヨの父にあたる八田孫平の記録 ↓

八田家文書は徳島県立図書館や鳴門市立図書館で閲覧できる。

タイトル板野郡碁浦村八田家文書 45-66 製本
出版者
その他【サイズ】22×31㎝ 【ページ数】1冊
【価格】\0 【件名】古文書-板野郡
注記【一般注記】徳島県立文書館所蔵 平成14年撮影(金原・外園) 製本
内容紹介内容:45・覚(漁業関係) 46・47・48・49なし 50・魚会所関係(明治初期) 51・呼出仰渡候煎海鼡取究与して公義御役人様御廻浦秘成候ニ付心得方秘仰渡候 筆記写シ置者也 52・板野郡碁浦村日損ニ付仕上ル腰張御帳 文政6歳未9月日/ 53・碁浦坂元灘処坂道作勧化帳 文久3亥年3月/ 54・高知県板野郡鳥ケ丸折野大須碁浦村役所から 豊岡橋太郎 八田節太郎宛書状 (道路修繕費の割当) 55・徳島県板野郡折野村役所から碁浦村八田節太郎宛(山林改正大量受取の件) 56・雑 坂元平次兵衛所の頼母子講戻銀証綴 覚 57・金子借用証 八田節太郎宛 明治16年/ 58・目録(婚礼 のもの)申6月/ 59・なし 60・県甲第19.20号達 明治13年5月/ 61・村瀬十郎 i大坂御番人)より八田孫平宛書状(戸籍書付雛形の件) 62・副戸長から八田節太郎宛(一村限耕宅地等給合計表 書式) 63・会計帳雛形(書式写) 仕上覚 64・岡宇衛門より八田孫太夫宛 4月26日 65・唐明詩学聯錦大全 寛政11巳未春正月 大坂書肆/ 66 ・御系図(蜂須賀家 正勝より)

◼️曽祖父の妹

私の曽祖父(ひいじいちゃん)の妹は、明治時代に、相生村の黒羽(東かがわ市黒羽)の三谷家に嫁いでいる。黒羽の三谷家は、江戸時代に向山周慶と関良介が編み出した門外不出の讃岐和三盆作りの技術を代々、受け継いでいる家系だ。

白砂糖は江戸時代、讃岐三白(砂糖、塩、木綿)のひとつで、上方(大坂、京都)へ高級品として非常に高い値段で取引され高松藩の財政を支えた最重要特産品だった。

高松箸の松平家はそう言った和三盆の恩恵に深く感謝し、崇敬していた。向山周慶と関良介が亡くなった後、高松城内に向良(こうら)神社を建立し、向山周慶と関良介を砂糖神として祀っていた。現在は、東かがわ市の湊と高松市松島町に向良神社があり祀られている。

瀬戸内寂聴さんの父親の三谷豊吉さんや祖父の峯八さん、笠置シヅ子さんの実父の三谷陳平さんもこの讃岐和三盆作りをしていた黒羽の三谷家の方達だ。

そんな関係で、私の大伯母(祖父の姉)は、生前、瀬戸内寂聴さんと交流があった。

瀬戸内寂聴さんは法要で東かがわ市引田の積善坊(しゃくぜんぼう)や黒羽(くれは)の父の実家を訪れている。

この積善坊には、十字架の印が彫られた寂聴さんの父母のお墓がある。父の三谷豊吉さんが養子となった瀬戸内家は神戸市須磨区から徳島市へきたクリスチャンだった。

この東かがわ市相生出身で、戦後初の東大総長となった南原繁さんは笠置シヅ子さんの後援会長を務めた。これは笠置シヅ子さんの三谷家の祖父が漢学者で南原繁さんはその薫陶を受けた教え子だった関係からである。笠置さんは生後間も無く大阪市福島の亀井家の養子となった。

ちなみに2023年秋から放送されるNHKの朝ドラは笠置シヅ子さんの生涯を描く「ブギウギ」である。

江戸時代の戸籍

江戸時代、代々、高松藩に使えた武士の森義右エ門、その長男(私の高祖父) 森喜平、高祖母は板野郡碁ノ浦村の碁浦番所から嫁いできた八田キヨ。

明治時代となり農家を営んだ曽祖父の森虎太郎、曽祖母は黒羽の旧家 永峰家から嫁いできた。

曽祖父 虎太郎の妹 トヨは、黒羽の旧家 三谷家へ嫁いだ。

●高祖母の八田家は、讃岐と阿波の境目にあった碁浦番所と言う関所の役人を代々、務めていた。

この碁浦漁港の辺りは、江戸時代に伊能忠敬が測量の為、引田港を出航し、上陸した場所だ。

代々、板野郡に居住した八田家は、姓と居住地から判断するに秦氏の末裔だ。私にも渡来人 秦氏の血が流れていることになる。

●秦氏の全国分布と改姓後の姓名

阿波国 南海道 板野郡

http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262974.html

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの渡来人 秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの一族の末裔である可能性がある。

●古代 秦氏の居住分布

阿波国板野郡に居住分布がある。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/toraijin%20hatasi.html

●碁浦番所【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。


海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年(1585年),讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛 高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。

出典: 角川日本地名大辞典

●碁浦番所の写真。国道11号線建設のため立ち退きとなった。800m西に石碑が残る。

碁浦御番所八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

◼️曽祖母

私の曽祖母は、東かがわ市黒羽の旧家 永峰家から大内郡丹生村の森家に嫁いできた。

曽祖母の先祖は、永塩といい、戦国時代に帰農し、永塩姓から永峰姓となった。

室町時代の先祖、永塩因幡守氏継は黒羽城を居城とし、1467年、最期のときを予期してか、黒羽神社を創建し、その年に応仁の乱に参戦、讃岐守護の細川勝元側につき1467年11月8日に京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に討ち死にした。

※安富 元綱(やすとみ もとつな):

生誕日不明〜応仁元年10月3日(1467年11月8日)。室町時代後期の武将。細川氏本家・京兆家の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏の一族、もしくは惣領。細川京兆家の家宰・執事。

●東かがわ市の黒羽神社を参拝。

角川日本地名大辞典: 東かがわ市黒羽(くれは)と永塩因幡守氏継(ながしお・いなばのかみ・うじつぐ)

●東かがわ市黒羽神社と永塩因幡守氏継

◼️祖父の姉

私の大伯母に関する神戸新聞記事

◼️父 

西洋料理人として昭和天皇に料理献上

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