【讃岐の渡来人の痕跡】ゲノム解析の結果、四国は渡来人由来の比率が高い事が判明! 石清尾山南麓の綾氏! 田村神社と秦氏! 屋嶋城と百済亡命者! 東かがわ市黒羽と原間古墳! 空海の母 渡来人 阿刀氏! 丸亀城石垣と穴太衆! 錦部刀良!

🟣2021年、東京大学の大橋順教授らは現代人のゲノムを解析し47都道府県で縄文人由来と渡来人由来のゲノム比率が異なる事が判明。

弥生時代に起こった混血の痕跡は今も残る。

渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国。

特に四国は島全体で 渡来人由来の比率が高い。

各都道府県の50人のゲノム情報をもとに、その違いを可視化した。縄文人由来のゲノム成分が多い県は青色で、渡来人由来のゲノム成分が多い府県はオレンジ色で表示されている。縄文人由来のゲノム比率が他県と比べて極めて高い沖縄県は地図に含んでいない。

●ニュース記事

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/

東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、許諾の得られたものを解析。

1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。

沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北。

一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。

特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。

なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。

以上の結果は、渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。

上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。

大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。

近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。

弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。

どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明で、弥生時代の謎は深まる一方だ。

今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは、弥生時代の混血の過程で起こったまだ誰も知らない出来事を反映している可能性がある。

書物にも残されていない日本人の歴史の序章は、ほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれているのだ。

🟣渡来人とは?

Wikipediaによると、渡来人(とらいじん)とは、広義には、大陸から日本列島に渡って来た人々を意味する。

歴史用語としては、3世紀から7世紀頃に大陸(中国、朝鮮半島など)から日本に移住した人々(移民)を指すことが多い。

人類学では、弥生時代以降にユーラシア大陸から渡来した人々(渡来系弥生人など)の総称として用いられることが多い。

現代日本人の遺伝的構成要素の多くは弥生時代以降の渡来集団に由来する。

元来、日本列島には縄文人が居住していたが、弥生時代以降の渡来集団と徐々に同化していったとされる。(現在の日本政府ではアイヌのみを日本の先住民族としている。)

渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。

また、そのルーツに関しては、朝鮮半島、中国の遼河地域、満洲にシベリア大陸、中東諸国などさまざまである。

●3世紀末 – 6世紀、古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者や亡命者として中国の東北や朝鮮半島から人々が渡来した。

4世紀後半から5世紀にかけて、ヤマト王権は百済と同盟のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、このことは高句麗が遺した広開土王碑にも記録されている。

大王を中心とするヤマト王権において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した者がいた。

ヤマト王権に仕えた渡来人としては、半島から来た秦氏、東漢氏、西文氏(かわちのふみうじ) が代表的である。

また飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。

さらに奈良時代末期から平安時代初期にかけて、鑑真に同伴したコーカソイドに属するソグド系とされる僧侶の如宝も広義的には渡来人に含まれる。

🟣縄文人

縄文時代の人びとは、丸木舟を使って海峡を超え、日本海を超えて行き来していた。

縄文時代は、想像以上に外の地域との交流がさかんな時代だった。

人びとが日本列島に渡ってくるルートとしては、沿海州から樺太(からふと)・北海道に渡るルート、朝鮮半島から対馬(つしま)に渡るルート、中国南部からミクロネシアなどの島づたいに渡るルート、 そして大陸から日本海を直行して渡ってくるというルートが考えられている。

縄文時代の日本海の船の主役は、丸木舟という小型の木造船だった。福井県の鳥浜遺跡(とりはまいせき)からは、約5500年前のものとみられる日本最古の丸木舟が発見された。

また、鳥取県の桂見遺跡(かつらみいせき)から発見された丸木舟は、長さ7m24cm、幅74cmあり、縄文時代のものとしては日本最大級。

鳥取県の湖山池の南東岸に位置する桂見遺跡から約3,500年前(縄文時代後期)の丸木舟が2艘見つかっている。写真の丸木舟は全長7.24m、最大幅0.74mを測り、現存する縄文時代の丸木舟としては全国最大級。

もう一艘は全長6.41m、最大幅0.70mを測る。丸木舟の他に櫂も9本見つかっており、水上を自由に航行していた縄文人の姿を想像させてくれる。

🟣遣隋使のルート

🟣大陸と関西を結ぶ海上航路の中継地点であった香川県

香川県には渡来人の痕跡が数多く残る

・善通寺市生まれの空海の母は、渡来人の阿刀氏。空海は叔父の阿刀大足の力添えにより私費留学生として遣唐使のメンバーに選ばれた。空海は中国語、サンスクリット語に通じ、また父方の佐伯氏は讃岐の有力豪族で資金も潤沢にあった。

唐では、恵果和尚から密教の奥義をマスターし、20年の留学期間を2年に短縮できたのは、空海の頭の良さ、財力、語学力があったからだ。

・石清尾山南麓の坂田郷出身の秦氏と綾氏

・高松市の屋嶋城を築城した百済からの亡命者

・東かがわ市黒羽に養蚕技術を伝えた呉の国の帰化人。黒羽で信仰されている神は毘沙門天、妙見神、弁財天、吉祥天など蕃神(ばんしん = 外国の神)が多い。

・高松市にある讃岐一の宮 田村神社は秦氏の氏寺だった。戦国時代まで秦氏が代々宮司を務めた。

・丸亀市にある丸亀城の石垣を築いた穴太衆(あのうしゅう)のルーツは古墳時代に朝鮮半島から来た渡来人。

・百済からの渡来人 錦部刀良。

・香川県内に残る何百基とい古墳。石清尾山古墳群だけでも200基以上ある。古墳から大陸由来の出土品が数多く発掘されている。

●遣唐使のルート

●瀬戸内海に面した香川県は、太古の昔から中国や朝鮮と日本の中央政府があった奈良や京都との中継地点であったため、大陸から奈良へ行く途中に瀬戸内海沿岸に立ち寄ったり、住み着いたりすることはよくあったと容易に推測される。

香川県東かがわ市の湊(岡前地神社古墳)や高松市の峰山古墳群などには海からよく見える小高い位置に古墳が建てられ航海の目印にもなった。

紀元前の時代から日本には大陸から来た渡来人や帰化人が多く住んでおり、多民族国家だった。

そういった人々は何世代も経て日本に同化していった。ハワイやブラジルへ移民した日本人が現地に同化していくのと同じプロセスだ。

現在の日本人は、中国人、朝鮮人、モンゴル系のブリヤート人、インドのドラビダ系民族などが何百年にも渡って混血していった結果である。

🟣石清尾山 南麓 坂田郷の渡来人 

高松市公式HP 秦氏と綾氏

https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/smph/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/iwaseoyama/kofungun/hatashi.html

高松市街の石清尾山古墳群には200基を超える円墳や積石塚や盛土墳がある。

石清尾山 南麓の坂田郷出身の高僧 観賢(西暦853年から925年)は秦氏である。

空海に弘法大師の称号を贈るよう尽力した。

また、日本霊異記には坂田の大富豪 綾氏の夫婦が貧者に施しをした説話が残る。

秦氏と綾氏はいずれも讃岐の渡来人としてよく知られており、石清尾山古墳群が造られた山の麓に数百年後、渡来系の氏族が栄えたと考えられている。

●綾氏

http://tono202.livedoor.blog/archives/3791899.html

🟣讃岐一の宮 田村神社

●田村神社と周辺の古墳

元々、讃岐秦氏の氏寺だった田村神社は、戦国時代まで秦氏が代々宮司を務めていた。

●讃岐秦氏

http://tono202.livedoor.blog/archives/1377657.html

🟣東かがわ市黒羽(くれは) の由来と中国 呉の渡来人

●東かがわ市の黒羽(くれは)は、瀬戸内寂聴(三谷晴美)さんの父 三谷豊吉さんや笠置シヅ子さんの出身地であり、周辺には、戦後初の東大総長を務めた南原繁さんの出身地があり、今も讃岐和三盆の製造が脈々と受け継がれている土地でもある。

わたしの曽祖母も黒羽の旧家の出身で、先祖は、戦国時代に永塩姓から永峰姓に改姓したと伝わる。

先祖の永塩因幡守氏継(ながしおいなばのかみうじつぐ)は室町時代に黒羽城を居城とし、1467年に黒羽の土地に黒羽神社を創建した。

その後、応仁の乱で讃岐守護であった細川勝元側につき、1467年11月8日に京都御所の北側にある相国寺において安富元綱らと共に戦い壮絶な最期を遂げた。

●父方の戸籍謄本を調べていて知ったのだが、曽祖母の母(私の高祖母、つまり ひいひいばあちゃん)は、徳島県板野郡碁ノ浦村(現在の徳島県鳴門市北灘町碁浦) の八田家から1864年(元治元年)に、当時、普請役の武家であった森家へ嫁いできた。

この高祖母は、八田孫平さんの長女で名を八田キヨと言った。八田家は、姓からも想像できる通りルーツは秦氏だ。だから私にも秦氏の血が流れていることになる。

私の曽祖父の妹は、明治時代に黒羽の三谷家へ嫁いでいる。曽祖母は黒羽の旧家 永峰家から嫁いできた。そういった関係で大伯母は三谷晴美さん(瀬戸内寂聴さん)と交流があった。寂聴さんの父は三谷豊吉さんと言い、黒羽で、讃岐和三盆を製造する家の出だった。

ちなみに、この八田家は、讃岐と阿波の境目にあった碁浦番所と言う関所の役人を代々、務めていた。

●碁浦番所
【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。

海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年,讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。

出典: 角川日本地名大辞典

碁浦御番所八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

●黒羽の地名の由来

香川県の東端に位置する東かがわ市。東の端と言うと僻地のようなイメージがあるかもしれないが、香川県の中では、関西に一番近い場所に位置し、引田港は、昔から香川県の物資を関西方面に運ぶ際の風待ち港として栄えた。

その東かがわ市の中でも東の端に位置するJR讃岐相生駅周辺の相生(あいおい)は、明治時代に相生村として成立した。

相生村は、1890年2月15日 、町村制施行に伴い、大内郡馬宿村(うまやどむら)、坂元村(さかもとむら)、南野村(みなみのむら)、黒羽村(くれはむら)、川股村(かわまたむら)、吉田村(よしだむら)が合併し、相生村が成立した。

その相生にある黒羽(くれは)だか、この黒羽という地名は、大化(645年〜650年)の頃、呉(ご)の国の帰化人の技術者が、この地にやって来て機織りの技術と養蚕を伝えた。その報恩と感謝の気持ちを込めて、呉と羽二重(はぶたえ)の羽をとり、呉羽となり、それが、黒羽になったと伝わる。

黒羽の民に機織り技術と養蚕を教えた呉の帰化人の技術者の中には、この黒羽の地に住み着いた者もいた。今から約1350年前のことだ。その人たちが地元の民と同化していき、永塩姓を名乗り、戦国時代に永峰姓に改姓したと伝わる。

この呉の国の帰化人は、中国の三国時代に呉に住んでいた一族が、激しい戦乱で国を脱出し、日本に渡った。その行き先は奈良だったが、その後、ヤマト政権の政策により、讃岐に派遣され機織りの技術や養蚕を地元の民に伝授した。その一族が黒羽に住むようになり、地元に様々な面で大陸文化の影響を与えながら同化していった。

そのことは、黒羽で古くから信仰されている神が毘沙門天、妙見神、弁財天、吉祥天など蕃神(外国の神)ばかりであることからも分かる。

※ 呉(222年 – 280年)

中国の三国(魏・呉・蜀)時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。

※ 三国時代(184年-280年) : 中国の魏・蜀漢・呉による時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指す。

※ 大化 : 西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。

🟣東かがわ市周辺の古墳

●原間6号墳

東かがわ市の原間6号墳は埋葬施設に木槨をもち、中から三累環頭大刀(さんるいかんとうたち)が出土した。被葬者は、朝鮮半島から来た渡来人か朝鮮と関係があった者と推測される。

🟣さぬき市周辺の古墳

🟣石清尾山古墳群の双方中円墳

中国や朝鮮の歴史は、戦争の歴史だったため、戦争に負けた側の王族とその一族、臣下の者たちが近隣の安全な日本に亡命してくることは、よくあった。

高松市の栗林公園の西側にそびえる紫雲山や峰山には何百基と言う古墳がある。中には日本では数基しかない非常に珍しい猫塚古墳などの双方中円墳があり、積み石の技術により作られている。これらは大陸から来た一族がこれらの古墳を築いたであろうと推測される。

🟣屋嶋城

●屋嶋城の城門跡と周辺の古墳

https://shirobito.jp/article/1439

高松市屋島にある屋嶋城は、白村江の戦い後に百済から来た亡命者たちにより建造された。岡山県総社市の温羅の城も百済の王族による建造物だ。

天智2年(663)、今の韓国で白村江の戦いが起こった。この戦いで日本軍は、百済と共に唐・新羅と戦うことになる。

結果日本は大敗、百済は滅亡という散々なものだった。

次に唐・新羅が日本へ攻めてくる事を恐れた朝廷は、亡命してきた百済の技術者を招いて瀬戸内海沿いや九州北部に城を築いた(古代朝鮮式山城)

屋島には『日本書紀』によると、天智6年(667)に「屋嶋城(やしまのき)を築いた」とある。

🟣栗林公園周辺の古墳

石清尾山古墳群には、200基を超える古墳がある。

🟣空海

香川県仲多度郡で中央とも繋がりのある有力豪族であった佐伯氏と渡来人の阿刀氏(安斗氏とも書く、中国の秦王朝より派遣された饒速日の末裔)の間に生まれたのが、空海であり、名は佐伯眞魚(さえきまお)と言った。

空海は中国語もサンスクリット語も出来たマルチリンガルで、しかも佐伯氏は、相当な財力があった為、20年の遣唐使の期間を2年に短縮して密教の極意を持ち帰ることができた。

唐の青龍寺では、空海の師である惠果和尚とも中国語で密な会話ができたと思われる。

空海は、遣唐使に出る前に奈良で母方の叔父で学者であった阿刀大足を家庭教師として、論語・孝経・史伝・文章などを学んだが、その時には中国語も習得していたと推測される。

また、空海が生まれ育った讃岐は、渡来人が多く中国語に触れる機会も多かったのだろう。

🟣善通寺市周辺の古墳

●善通寺市の王墓山古墳の出土品↓

https://www.city.zentsuji.kagawa.jp/soshiki/50/digi-m-culture-detail-061-index.html

出土した金銅製冠帽は冠と帽子の両方の性格を持ったもので、儀礼などに用いられていた。冠帽の周囲は5本の立飾りと無数の歩揺で装飾されていて、全体に渡金されている。国内では出土例がなく、朝鮮半島からの渡来品と考えられている。

●遣唐使のルート

🟣錦部 刀良(にしこり の とら)

飛鳥時代の人物。姓はなし。

讃岐国那賀郡(現在の香川県丸亀市と善通寺市の一部、及び仲多度郡西部)の人。

・記録

錦部氏は百済からの渡来人系氏族で、綾や錦などの職成をもって大王に仕えた錦織部(錦部)を管掌するもので、この場合の刀良の場合は、無姓であるため、錦部造(連)の管掌する部民であった。

粟田真人・坂合部大分・巨勢邑治を長とする大宝元年(701年)の遣唐使には、大録として錦部連道麻呂が加わっている。

粟田真人らが唐から帰国したのは慶雲元年7月(704年)のことである。

刀良の場合も恐らく、持統天皇4年(690年)に帰国した、同じ唐の捕虜だった大伴部博麻(おおともべ の はかま)の場合と同様、軍丁(いくさよろず)であった可能性が高い。

青年期に従軍したとすると、かなりの高齢であったことが想像される。

以後の白村江の戦いにおける捕虜の帰還の記録は存在しない。

🟣丸亀城の石垣

●丸亀城と周辺の古墳

丸亀城の「扇の勾配」と呼ばれる有名な石垣を築いた滋賀県の坂本を拠点とする穴太衆。穴太衆のルーツは、古墳時代に朝鮮半島から来た渡来人。

穴太衆で有名な粟田家。北垣聡一郎の『近江の石垣築成者 穴太衆』(昭和51年(1976年))によれば、粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」と語っていたとしている。

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