【昭和39年の神戸新聞】明治時代に東かがわ市で生まれた大伯母のインタビュー記事(古山桂子記者)! 旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーを務める! 川島芳子、昭和天皇宿泊時の勤務! 二・二六事件、GHQ占領時代の電話交換! 瀬戸内寂聴さんとの交流!

🟣古いアルバムの中から大伯母が神戸新聞社の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた記事が出てきた。

大伯母は、まだ女性の社会的地位が低かった大正時代に、東かがわ市の片田舎から単身、神戸に渡り電話交換手の養成所に通った後、神戸オリエンタルホテルで電話交換手として働いた。戦前、戦後と言う激動の世の中で、米国による空襲により家を焼失しながらも、日々、外国人を相手に英語を使って一生懸命に働いた。

今は亡き大伯母は、1906年(明治39年)に現在の香川県東かがわ市に生まれた。

森家は、江戸時代までは高松藩松平家に仕える武士で、主に普請方を務めた。東かがわ市の小磯(静御前の母 磯禅師の出身地)にある番屋の浜に松平家の殿様が高松から遊びに来るたびにお膳立てをしなければならず、かなりの額のお金がかかった。

また、金毘羅さんの石段作りにも参画したり、丹生の柏谷(かしわだに)を切り開いたりした。その後、明治時代となり農家を営むこととなった。

●祖母から、先祖は、引田の戦いで、仙石秀久側で戦った森(仙石)久村 (通称: 森権平)の一族だと聞いたことがある。遡ると、阿波水軍の森甚五兵衛、因幡国出身で徳島の国府に住んだ佐田九郎兵衛が元々の先祖と言うことなる。

戦前までは、甲冑や刀類、その他諸々の武家ゆかりの品々があったが、戦争中に鉄類などは政府の命令により国に供出した。唯一残しておいた刀のツバが、複数個、戦後、何年も経ってから発見され壁に飾ってあったのを覚えている。

◼️神戸新聞の記事に、曽祖母の母(私の高祖母、つまり ひいひいばあちゃん)は、阿波浄瑠璃が上手かったとあるが、徳島県板野郡碁ノ浦村(現在の徳島県鳴門市北灘町碁浦) の八田家から森家へ嫁いできた。八田孫平さんの長女で名を八田キヨと言った。

 

曽祖父の妹は、明治時代に東かがわ市黒羽の三谷家へ嫁いでいる。また、曽祖母は黒羽の旧家 永峰家から嫁いできた。そういった関係で大伯母は三谷晴美さん(瀬戸内寂聴さん)と交流があった。寂聴さんの祖父は三谷峰吉、父は三谷豊吉と言い、黒羽で、讃岐和三盆を製造する家の出だった。

高祖母の八田家は、姓からも想像できる通りルーツは秦氏だ。だから私にも秦氏の血が流れていることになる。

ちなみに、この八田家は、讃岐と阿波の碁浦番所と言う関所の役人を代々、務めた。

◼️碁浦番所
【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。

海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年,讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人庄屋八田孫太夫先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在道路となっている。

出典: KADOKAWA「角川日本地名大辞典」

◼️「八田家文書」に出てくる私の高祖母 キヨの父にあたる八田孫平の記録 ↓

八田家文書は徳島県立図書館や鳴門市立図書館で閲覧できる。

 

タイトル板野郡碁浦村八田家文書 45-66 製本
出版者
その他【サイズ】22×31㎝ 【ページ数】1冊
【価格】\0 【件名】古文書-板野郡
注記【一般注記】徳島県立文書館所蔵 平成14年撮影(金原・外園) 製本
内容紹介内容:45・覚(漁業関係) 46・47・48・49なし 50・魚会所関係(明治初期) 51・呼出仰渡候煎海鼡取究与して公義御役人様御廻浦秘成候ニ付心得方秘仰渡候 筆記写シ置者也 52・板野郡碁浦村日損ニ付仕上ル腰張御帳 文政6歳未9月日/ 53・碁浦坂元灘処坂道作勧化帳 文久3亥年3月/ 54・高知県板野郡鳥ケ丸折野大須碁浦村役所から 豊岡橋太郎 八田節太郎宛書状 (道路修繕費の割当) 55・徳島県板野郡折野村役所から碁浦村八田節太郎宛(山林改正大量受取の件) 56・雑 坂元平次兵衛所の頼母子講戻銀証綴 覚 57・金子借用証 八田節太郎宛 明治16年/ 58・目録(婚礼 のもの)申6月/ 59・なし 60・県甲第19.20号達 明治13年5月/ 61・村瀬十郎 i大坂御番人)より八田孫平宛書状(戸籍書付雛形の件) 62・副戸長から八田節太郎宛(一村限耕宅地等給合計表 書式) 63・会計帳雛形(書式写) 仕上覚 64・岡宇衛門より八田孫太夫宛 4月26日 65・唐明詩学聯錦大全 寛政11巳未春正月 大坂書肆/ 66 ・御系図(蜂須賀家 正勝より)

 

●東かがわ市と神戸市の位置関係

●大伯母の母(私の曽祖母)は、東かがわ市相生(あいおい)村の黒羽(くれは)中村の旧家で庄屋の永峰家の出身だった。先祖は黒羽城を居城としていた永塩因幡守氏継と言った。現在、発掘により黒羽城の跡地は4カ所が推定されているが、まだ特定はされていない。この永塩因幡守氏継は1467年に黒羽神社を創建し現在も残る。


1467年、応仁の乱に細川勝元側として戦い、京都御所の北側にある相国寺で、安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げた。

その後、永塩一族は、戦国時代に帰農し、永峰姓を名乗った。

この相生村は、瀬戸内寂聴(本名: 三谷晴美)さんの父 三谷豊吉さんや戦後「東京ブギウギ」を歌い一世を風靡した笠置シヅ子さん(実父は三谷家)、戦後初の東大総長 南原繁さんの出身地でもある。

大伯母は、大伯母の父(私の曽祖父)の妹が三谷家に嫁いでいた関係で三谷家の法事の手伝いをしたりしていたので、瀬戸内寂聴さんと交流があった。

瀬戸内寂聴さんのお父様は、東かがわ市黒羽で代々、和三盆を作る製糖業を営んでいた家柄の方で、生前、寂聴さんご自身も、お父様の法要でこの東かがわ市引田の黒羽や十字架が彫られた御父母のお墓があるJR引田駅近くの積善坊を訪れている。

三谷晴美さん ↑

◼️明治生まれの大伯母の人生とオリエンタルホテル

↑ 海岸通りにあった3代目オリエンタルホテル。西隣は商船三井ビル、その隣が海岸ビル。

大伯母は、1906年(明治39年) 現在の東かがわ市に生まれた。

姉の嫁ぎ先である神戸へ遊びに行った際、神戸市の電話局での交換手募集に目が止まり応募、養成所に通いはじめた。しかしながら、養成期間が終わった途端、女性が外で働くのはいけないと両親から猛反対を受け泣く泣く東かがわ市へ帰郷した。

電話交換手とは?

自動交換機の登場以前は、共同加入回線を介して電話をかける以外では、交換手の補助が不可欠だった。

発呼者はまず、電話局の交換手と話をする。発呼者は交換手に、呼び出したい相手先を伝え、交換手はその要求に従い、パッチパネルの構造を持つ、手動の電話交換台により、接続用ケーブル両端の電話プラグを、交換機にある発呼者側・着信側それぞれのジャックに差し込むことによって回線を接続し、互いの通話を可能にした。

電話交換手は一般的に、非常に強力なコミュニケーション能力が必要とされた。

交換手の遠距離ダイヤル通話と顧客の長距離直接通話(DDD)回線が登場する前は、電話交換手が遠方の電話局にいる相手と協力して長距離電話(いわゆる市外通話)を完了していた。

通話は完全管理の状態で、交換手はプライベートな会話を聞くことができる立場だった。

1917年(大正6年)に神戸海岸通りのオリエンタルは、ホテル東洋汽船の所有となり、1926年にオリエンタルホテル株式会社が発足した。(ホテル事業は大成功を収めたが、3代目の建物は1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲で被弾して半壊し、復旧できずに取り壊された。)

3代目となる建物は、当時日本最高のホテルの一つと称され世界的に有名なVIPが多く宿泊した。また、素晴らしい食事を提供するホテルとして知られ、とりわけ神戸ビーフの名声を世界に広めた施設の一つとされている。

↑ 海岸通に在った当時のオリエンタルホテル建物(3代目、明治40年頃)

1922年(大正11年)、アインシュタイン博士が来日した際に宿泊。

1922年11月17日の午後4時ごろに神戸港第3突堤から上陸した↓

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1924年(大正13年)11月に神戸に来た孫文が宿泊。この時、孫文は「大アジア主義」と題した有名な演説を行い、また頭山満とオリエンタルホテルにて2日間に渡って会談している。

↑ 1924年、来日した孫文を宿泊先の神戸のオリエンタルホテルに訪ねた頭山満ら

1925年(大正14年) 大伯母、19歳のとき、姉が病気になり見舞いを口実に神戸へと赴いた。電話交換手養成所時代の友人が勤めていたオリエンタルホテルに訪ねて行き、支配人と面会し電話交換手として働くこととなった。孫文がオリエンタルホテルに宿泊した翌年のことだった。

女性の従業員は交換手3人きり、当時は経営者が外国人だったのでレディファーストの気風もあって待遇は良かった。モスリンの着物も寸法に合わせて作ってくれ、クリスマスには必ず新調した。

当時、オリエンタルホテルは、天皇陛下を始めとする皇室関係者、政界、財界の名士から芸能人、作家、外国人VIPらが宿泊する西日本を代表する名門ホテルだった。

1926年(昭和元年、12月25日 – 12月31日)。昭和の時代になると国際電話も次々と開通していき英語での電話交換も増えていった。大伯母はホテルの従業員の方に英語を教えてもらいながらon the job trainingで英語を身につけていった。ホテルに国際電話がかかって来て英語で意思疎通ができなけば電話交換手として死活問題の為、日々、緊張感の中、必死で仕事と勉強に勤しんだ。

1928年(昭和3年) 23歳のとき、お寺のお坊さんの世話で宮崎県出身で神戸の警察官だった方と見合い結婚した。

↑ オリエンタルホテル前を行く神戸臨港線B50形蒸気機関車(昭和7年)

この頃、松方幸次郎が、二頭立て馬車でホテルに乗りつけたり、九条武子が耳かくしに結って来たり、海軍士官の軍服を着た男装の麗人 川島芳子がホテルに宿泊したり、大伯母のいる交換室まで特高や憲兵が出入りしたりと華やかでいて何か不安を感じさせる時代だった。

松方 幸次郎(まつかた こうじろう) 1866年1月17日(慶応元年12月1日) – 1950年(昭和25年)6月24日。 日本の実業家、政治家。川崎造船所社長、衆議院議員(日本進歩党)、美術収集家。エール大学、ソルボンヌ大学卒業。

九条 武子(くじょう たけこ) 1887年(明治20年)10月20日 – 1928年(昭和3年)2月7日。教育者・歌人、後年には社会運動活動家としても活動した。

満洲国陸軍上将の軍服を着用した川島芳子。1906年5月24日〜1948年3月25日(41歳没)

1936年(昭和11年)2月26日(水曜日)から2月29日(土曜日)にかけて発生した二・二六事件は、東京から取り次いだ「大変なことなのよ」と言う交換手の声で知った。大伯母の元にも次から次へとニ・ニ六事件に関する生の情報が入ってきて、聞いているうちに足がブルブル震えた。

皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて蜂起し、政府要人を襲撃するとともに永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠したが、最終的に青年将校達は下士官兵を原隊に帰還させ、自決した一部を除いて投降したことで収束した。この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

1937年(昭和12年) ヘレン・ケラーがオリエンタルホテルで食事、宿泊は住友男爵邸。 ヘレンは、「これまで食べた中で一番美味しい料理だった。」と感激した言葉を残している。

奈良訪問時のヘレンケラー。 幼少時、ヘレンは同じく盲目の塙保己一を手本に勉強したという。塙のことは母親から言い聞かされていたとされる。1937年4月26日、ケラーは渋谷の温故学会を訪れ、人生の目標であった保己一の座像や保己一の机に触れている。ケラーは「先生(保己一)の像に触れることができたことは、日本訪問における最も有意義なこと」「先生のお名前は流れる水のように永遠に伝わることでしょう」と語っている。

1945(昭和20年) 39歳の時、終戦を迎えた。大伯母の自宅は神戸大空襲で焼かれてしまった。オリエンタルホテルはアメリカの進駐軍に接収され将校宿舎になったが、電話交換手がいない為、大伯母が引っ張りだされた。様々な怖さがあったが、日本人の代表のつもりで頑張った。米軍の中ではなかなか好評だったようだ。敗戦後すぐに、GHQの下で働くことは想像を絶する恐怖と複雑な思いがあっただろう。神戸だけでなく日本中の主要都市を爆撃し、焼け野原にした米国軍人と働くことは、相当な勇気と覚悟が必要だった

焼夷弾の投下を受ける神戸。1945年6月4日、焼夷弾を投下中のB-29より米軍が撮影。画像の上は東、左が北。神戸港新港地区の埠頭が、左上より第六突堤、第五突堤、西に少し折れて第四突堤~第一突堤、短いメリケン波止場および長い中突堤(後のメリケンパーク)と櫛状に並ぶ。画像下部中央付近から左上へ煙の中へ直線状に延びるのは、東海道本線の西端部。画像下部の右側に、貨物支線の湊川駅(神戸駅東側、後のハーバーランド)付近、および川崎重工神戸工場の一部も確認できる。

神戸大空襲後の焼け跡・神戸市元町付近

終戦後、昭和天皇の行幸から始まり石原裕次郎さん、阪神タイガースのジーン・バッキー選手を始めとする外国人など各界の名士が、続々とオリエンタルホテルに宿泊した。

1947年、昭和天皇、来神。

1948年(昭和23年) 43歳のとき、大伯母は、長年の実績と勤勉さが認められ係長となった

1954年(昭和29年) マリリン・モンロー、ジョー・ディマジオ夫妻が新婚旅行で来日、神戸オリエンタルホテルに宿泊。

※マリリンモンローとジョー・ディマジオが昭和29年(1954年)2月にオリエンタルホテルに2日間滞在し、2月20日には花隈の料亭に行った。↓

https://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201611/sp/0011973667.shtml

1956年(昭和31年)に昭和天皇が神戸に来た際、宿舎先である神戸オリエンタルホテルの屋上から、神戸みなと祭・海上提灯行列の夜景を観た印象を、翌年(昭和32年)、宮中歌会始の儀に「灯」の御題のもとに詠んだ歌の歌碑。現在、神戸メリケンパークオリエンタルホテルの屋上に設置されている。

1958年(昭和32年) 石原裕次郎さん、北原三枝さんが映画ロケのため宿泊。

↑ 1958年9月5日。 石原裕次郎さんと北原三枝さんが映画ロケで来神、神戸オリエンタルホテルにて。

↑ 日活映画「赤い波止場」のポスター。1958年に日活によって制作、公開された日本映画。舛田利雄監督、石原裕次郎主演。神戸をロケ地として撮影された。

4代目の建物。

1964年(昭和39年)に25-26番地に移転し、モダンな外観で世界初となる灯台を設置したホテル建物(4代目)を新築し、1995年の阪神淡路大震災まで、この4代目の建物が使用された。 この灯台を設置したのは、当時、ホテルの取締役社長をしていた日本郵船の安部正夫氏、安部譲二さんの父親である。

この4代目のホテルの建物で、小学生の頃、大伯母と食事をしたことがある。たしか中華料理を食べたが、北京ダックを生まれて初めて食べた。その影響もあり、中国に住んでいたときは、上海の「鴨王」で、北京ダックをよく食べた 笑。

1964(昭和39年)大伯母 58歳のとき神戸新聞社の古山桂子さんからインタビューを受ける。

神戸オリエンタルホテルを定年退職後も請われて数年間、岡山市内のホテルに勤めていた。

幼少の頃からうちへ来るたびに可愛がってくれた。岡山で一緒に食事したりもした。

私がアメリカへ留学へ行く前に、入院し、神戸の病院へお見舞いに行ったのが会うことができた最後となった。見舞いに行った時、看護婦さんに、私がアメリカへ留学しに行くんだと聞かれてもないのに嬉しそうに言っていたのを今でも覚えている。

昭和の開戦前から戦時中、戦後と動乱の時代を生の情報が行き交うオリエンタルホテルの電話交換手として必死に働いた。立場上、知ってはいけない機密情報も多く入ってきただろう。

生涯を通して、無遅刻、病欠、早退なし。神戸空襲の最中も電車が止まっていたところは歩いて出勤した。

まだまだ女性の社会的地位が低かった大正時代に香川の片田舎から神戸と言う都会へ単身出ていき何のコネクションもないオリエンタルホテルで人柄の良さと真面目さだけを頼りに生き抜き神戸で人生を終えた。

明治時代の日本人の気骨を持ち、普段は着物を着ていた。いつも背筋をピンっと伸ばした優しい大伯母だった。

◼️電話交換手とは?

自動交換機の登場以前は、共同加入回線を介して電話をかける以外では、交換手の補助が不可欠だった。

発呼者はまず、電話局の交換手と話をする。発呼者は交換手に、呼び出したい相手先を伝え、交換手はその要求に従い、パッチパネルの構造を持つ、手動の電話交換台により、接続用ケーブル両端の電話プラグを、交換機にある発呼者側・着信側それぞれのジャックに差し込むことによって回線を接続し、互いの通話を可能にした。

電話交換手は一般的に、非常に強力なコミュニケーション能力が必要とされた。

交換手の遠距離ダイヤル通話と顧客の長距離直接通話(DDD)回線が登場する前は、電話交換手が遠方の電話局にいる相手と協力して長距離電話(いわゆる市外通話)を完了していた。

通話は完全管理の状態で、交換手はプライベートな会話を聞くことができる立場だった。

◼️1964年(昭和39年)12月29日(火曜日)の神戸新聞のインタビュー記事(58歳時)

聞き手 : 古山桂子 記者

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