🟣1906年(明治39年)生まれの大叔母は香川県の東かがわ市と言う片田舎から単身、神戸へ渡り、旧・神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーとして働いていた。
二・二六事件や天皇陛下の滞在時にも電話交換手として生の情報を知り得る立場にいた。
戦時中、米国空軍による神戸空襲で自宅は全焼した。
戦後間も無く米軍のGHQ将校宿舎となったオリエンタルホテルでも英語ができる人員がおらず電話交換手として声がかかり複雑な心境の中、勇気を持って命懸けで務めた。
まだ女性の社会的地位が低かった時代に、周りからの反対を押し切って香川県の片田舎から単身神戸へ渡り、人の良さと真面目さだけを頼りに生涯、無遅刻、無欠勤で戦前、戦後の激動期を電話交換手として生き抜いた。
明治生まれの人間らしく気骨を持った人だった。
私が神戸市内の病院に見舞いに行った際、アメリカに留学するこを報告すると嬉しそうに看護婦さんにそのことを話していた。
それが大叔母に会った最後となった。
●昭和39年、神戸新聞の元論説委員の古山桂子さんからインタビューを受けた際の記事
◼️電話交換手とは?
自動交換機の登場以前は、共同加入回線を介して電話をかける以外では、交換手の補助が不可欠だった。
発呼者はまず、電話局の交換手と話をする。
発呼者は交換手に、呼び出したい相手先を伝え、交換手はその要求に従い、パッチパネルの構造を持つ、手動の電話交換台により、接続用ケーブル両端の電話プラグを、交換機にある発呼者側・着信側それぞれのジャックに差し込むことによって回線を接続し、互いの通話を可能にした。
電話交換手は一般的に、非常に強力なコミュニケーション能力が必要とされた。
交換手の遠距離ダイヤル通話と顧客の長距離直接通話(DDD)回線が登場する前は、電話交換手が遠方の電話局にいる相手と協力して長距離電話(いわゆる市外通話)を完了していた。
通話は完全管理の状態で、交換手はプライベートな会話を聞くことができる立場だった。
◼️【記事】「命懸けの仕事だったけど、みんな普通の女の子」殉職した電話交換手たち
https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/2539
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戦時中、”通信戦士”と呼ばれた女性たちがいた。
電話局で電話線を繋ぐ「電話交換手」。数カ月の訓練を受け、難しい試験に通った人だけが就ける狭き門だった。当時、女性にとって花形職業の一つとされていた。
現在ではなじみの薄い仕事だが、回線同士を繋ぐ交換機が機械化されるまで、電話をかけた人とかけたい相手を繋ぐのは交換手による手作業だった。
交換手の担い手は10~20代が中心。24時間態勢で、早朝や日勤、宿直と、交代で勤務した。
情報をいち早く伝える重要な手段だった電話通信。警戒警報や空襲警報が発令されても、彼女たちは通信を守り続けた。「軍からの連絡が入っています」「○○地区に爆弾が落ちました」-。交換台を離れることは許されていなかったという。
そのため、殉職した交換手が全国各地にいる。
「命懸けの仕事だったけど、中身はみんな普通の女の子だった」
兵庫県明石市の電話局で電話交換手をしていた炭谷光世さん(93)が振り返る。
弟1人、妹7人の8人兄弟。家計を助けようと、14、15歳で交換手に就いた。
当時、交換手たちが”制服”として着ていたのが、白色の着物と黒色のはかま。就職が決まると、母親が同県三木市の呉服店からわざわざ生地を取り寄せて袴を縫ってくれた。電話局までの徒歩10分の距離を、毎日はかま姿で歩くのが誇らしかったという。
局では最年長の班長を筆頭に10人でチームを組み、3人一組で業務に当たった。自分の担当の台に電話がかかると、まず発信者から呼び出したい番号を聞く。交換機にある発信者と相手先の回線を接続し、相手先に「○番ですか?」と確認してから「どうぞお話ください」と繋いだ。
休憩中は先輩たちにお茶やお花、裁縫などを教えてもらうことも。髪が乱れていたら、三つ編みをしてくれる仲間もいた。好きな男性の写真をお互いに見せ合い、”恋バナ”(恋話)でも盛り上がった。
「仕事中は厳しいお姉さんたちも、休憩中は友達のように接してくれてね」
戦況の悪化に伴い、”制服”は防空ずきんともんぺに変わった。それでも、もんぺをいかにすっきり見せるか、みんなで着方を工夫したという。
「女性ばっかりの職場やったからね。なんぼ戦争中言うても、どこかでおしゃれしてた」
炭谷さんは今もおしゃれが大好き。お気に入りのスカーフと花柄の洋服で取材に応じてくれた。毎日部屋には花を飾る。「あの頃できなかったから」
最後に見せてくれたのは、一枚の白黒写真。若い女性10人が着物姿でほほえんでいる。組が編成された記念に撮影された。
「この頃はもう、おしろいも紅も付けられんかったから、全員すっぴん。でも、みんなかれんでしょう?ふふふ」。写真と同じ乙女の顔でほほえんだ。
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◼️二・二六事件で通信死守した「電話交換嬢」 防毒マスクの作業風景
◼️【カラー化】大正時代 電話交換手 エピソード 二.二六事件、真岡郵便電信局事件 Japanese telephone operators in color in 1926
◼️ロングバージョン 二・二六事件 傍受された通話音声
◼️真岡郵便電信局事件(まおかゆうびんでんしんきょくじけん)
太平洋戦争後の樺太の戦いで、真岡郵便局の電話交換手が集団自決した事件である。
当時日本領だった樺太では、一方的に条約破棄したソ連軍と日本軍の戦闘が、1945年8月15日の玉音放送後も続いていた。
真岡郵便局の電話交換手(当時の郵便局では電信電話も管轄していた)は、疎開(引き揚げ)をせずに業務中だった。
8月20日に真岡にソ連軍が上陸すると、勤務中の女性電話交換手12名のうち10名が局内で自決を図り、9名が死亡した。
真岡郵便局事件、また沖縄のひめゆり学徒隊と対比して北のひめゆり(事件)とも呼ばれる。
自決した電話交換手以外に残留していた局員や、当日勤務に就いていなかった職員からも、ソ連兵による爆殺、射殺による死者が出ており、真岡局の殉職者は19人にのぼる。
九人の乙女の像
本事件で自決した9名の慰霊のために建てられた。
◼️愛宕劇団が上演を重ねている代表作。1945年の夏、樺太の真岡で起きた若き電話交換手9人の自決事件に焦点を当てた作品。
◼️”九人の乙女 “の元同僚たち 「戦後75年 北海道と戦争」2020年8月21日放送
◼️樺太に散った乙女たち ソ連軍の侵攻受け~記憶を次世代につなぐために~【終戦特集⑨】
◼️愛宕劇団『九人の乙女〜氷雪の門』トレーラー [命火]中間真永さん
◼️舞台 九人の乙女 主題歌『命火』中間真永さんPV (LIVE 録音)
◼️旧・満州の記憶
◼️中国残留邦人
◼️野坂昭如さんは神戸大空襲に遭い西宮市に疎開した。その体験をもとに「火垂るの墓」を書いた。
素晴らしい特集を誠に有難うございます。
とてもきめ細かなレポートも拝見出来、興味深く読ませて頂きました。
今年の公演も頑張って参ります。
取り上げて頂き感謝申し上げます。
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2923年の公演のご成功を陰ながら応援しております。
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