【タブー・貴重】二・二六事件 傍受された通話内容を聴く! 北一輝の肉声、鎮圧軍の高橋中尉と反乱軍の上村軍曹の交信 内容を聴く!

🟣北一輝とは?

北 一輝(きた いっき)

本名:北 輝次郎〈きた てるじろう〉

1883年〈明治16年〉4月3日 – 1937年〈昭和12年〉8月19日)

戦前の日本の思想家、社会運動家、国家社会主義者。

二・二六事件の皇道派青年将校の理論的指導者として逮捕され、軍法会議で死刑判決を受けて刑死した。

●人物

右目は義眼であったが、数少ないその肖像写真からも分かるように容貌眉目秀麗であり、二・二六事件後の軍法会議の裁判長吉田悳少将はその手記で「北の風貌全く想像に反す。

柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり」と述べている。

日ごろから言葉遣いは丁寧で、目下、年下の者にも敬語を使っていたという。

裁判では、青年将校たちの決起については自分は関係がないことを主張しながらも、青年将校たちに与えた自らの思想的影響についてはまったく逃げず、死刑判決を受け入れている。

中国革命家譚人鳳の遺児を養子として引き取る。名を北大輝とし、死後彼に遺書を残す。

丹羽哲郎さんの妻は北一輝のいとこの娘にあたる。

🟣2・26事件の鎮圧軍と反乱軍の電話での通話内容

二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)とは?

1936年(昭和11年)2月26日(水曜日)から2月29日(土曜日)にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官・兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件。

この事件の結果、岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。

🟣2・26事件当時、反乱軍が立てこもった首相官邸や陸軍省などの電話を傍受した通話内容記録

北一輝や、鎮圧軍の高橋中尉と反乱軍の上村軍曹の交信を含む↓

1,西田税夫人 西田はつ と 陸軍中尉 栗原安秀

2,北一輝と陸軍大尉 安藤輝三

3,鎮圧軍 陸軍中尉 高橋丑太郎と反乱軍 陸軍軍曹 上村盛満

●ロングバージョン

🟣『北の声とされる音声』の真偽は?

906年(明治39年)23歳の時に、「全ての社会的諸科学、すなわち経済学、倫理学、社会学、歴史学、法理学、政治学、及び生物学、哲学等の統一的知識の上に社会民主主義を樹立せんとしたる事なり」として大日本帝国憲法における天皇制を批判する内容も兼ねた『国体論及び純正社会主義』を著し、社会主義者河上肇や福田徳三に賞賛され、また、『日本改造法案大綱』では、クーデター、憲法停止の後、戒厳令を敷き、強権による国家社会主義的な政体の導入を主張していた。

ゆえに、北を革命家と見る意見がある。同時に、北は『日本改造法案大綱』を書いた目的と心境について、「左翼的革命に対抗して右翼的国家主義的国家改造をやることが必要であると考へ」と述べている。花田清輝は、北を「ホームラン性の大ファウル」と評している。

また坂野潤治は、「(当時)北だけが歴史論としては反天皇制で、社会民主主義を唱えた」と述べ、日本人は忠君愛国の国民だと言うが、歴史上日本人は忠君であったことはほとんどなく、歴代の権力者はみな天皇の簒奪者であると、北の論旨を紹介した上で、尊王攘夷を思想的基礎としていた板垣退助や中江兆民、また天皇制を容認していた美濃部達吉や吉野作造と比べても、北の方がずっと人民主義であると評した。

京都大学名誉教授宮本盛太郎らの研究で、北に二・二六事件への直接の関与はないことが示された。これによれば、北は、計画自体を事前に知っていたこと、首謀者の一人とされた陸軍少尉の西田税らに対して時期尚早であると慎重な態度を取っていたが、結局、彼らを説得できなかったこと、この事件を指揮・先導する等の直接関与は行っていなかった。

また、二・二六事件に先立ち、電話で、「マル(金)は大丈夫か」(活動・行動資金は十分か)と、陸軍大尉・安藤輝三へかけた『北の声とされる音声』が、関東戒厳司令部に録音盤(盗聴した音声のレコード)として残されていた。

その盗聴された会話の中で、安藤は「(金は)まだ大丈夫です」と返答している。

しかし、北の逮捕後の証言などから、電話をかけたのは北ではなく、安藤に対し、カマをかけようとした憲兵ではないか、と言われていたが、後に、作家・中田整一(元NHKプロデューサー)の調査によって、この通話は、何者かが北の名を騙(かた)って、安藤にかけたものであることが検証されている。

🟣日本改造法案大綱

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