🟣2022年7月8日、香川県内の複数箇所の博物館に、東かがわ市の黒羽城 城主であった永塩因幡守氏継の経歴についての資料の有無等の調査を依頼した。
その内、1カ所からのみ新たな情報が入手できた。
他の博物館の回答は、この永塩因幡守氏継についての資料は確認出来なかった、その出自や黒羽城築城年などは、現時点では分からないとの回答だった。
2001年の発掘時の県報(2003年)に出ている事柄が現在分かりうる情報だとの回答だった。
あとは、東かがわ市の黒羽に残る口碑や地元の古文書、伝承、言い伝え、永塩因幡守氏継が創建した黒羽神社の神社史などと言った類のものが情報となるが、そう言ったものが今後、出てくれば良いのだが。。。
黒羽城の創建年や永塩一族のこと、呉の技術者たちとの関係、などが分かれば良いのだが。。。
●永塩因幡守氏継に関する新たな情報は、悲しいニュースだった。地名辞典によると室町時代の応仁元年(1467年)に、細川勝元側について応仁の乱に参戦し、最も激しい戦闘が繰り広げられた京都御所の北側にある相国寺の戦いで亡くなられた、と言うことである。
また、因幡守(いなばのかみ)と言うのは、官位で、因幡国(鳥取県東部)とは、恐らく関係ないだろう、この方は、地元の方だろうとのことだった。回答はここまで。
●相国寺の戦いでは、讃岐の軍勢を指揮していた安富元綱ともども応仁元年(1467年)10月3日に、相国寺で壮絶な最期を遂げたと考えられる。
恐らく、この相国寺の戦いで、長である永塩因幡守氏継と一族の者が亡くなられた後、黒羽に残った永塩一族は、帰農し、永峰姓に改姓したのではないかと推測される。
永塩因幡守氏継は、自分の最期を覚悟していたのであろうか、亡くなる2ヶ月前の、応仁元年(1467年)8月4日に、黒羽神社を創建し、その名を残した。
次回、京都訪問時には、ご先祖様である永塩因幡守氏継が亡くなられた相国寺に供養に行こうと思う。
また、応仁の乱の一部始終が書かれている「応仁記」も調べてみようと思う。
●西讃史によると以下のような記述がある。
• 応仁年間(1467年)細川管領勝元の旗本四臣。四臣とは、香川肥前守元明 奈良太郎左衛門元安 安富民部少輔元綱 香西備後守元資の四武将を言うなり。四国 近畿 備前 備後 九州征伐時にも細川を援けた名だたる武将であったが、国守より飯料として田を賜り一族奥中山に入り居住。その一門 植松彦太夫 香西佳清兵衛も世定まる時は、天領でありし小田郡前田村に帰り裔を保てりと。讃州の国 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となり武勇勝れたる家系なり。
• 応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると、香川五郎次郎(和景か)は安富左京亮らとともに兵を率いて上洛、勝元に従って西軍と戦った。『南海通記』には、香川肥前守元明は香西元資、安富盛長らと兵卒五万を指揮して八方に戦ったとあり、安富民部は相国寺の戦いで奮戦、討死している。讃岐勢が東軍の領袖である細川勝元を支え、その中核戦力として活躍したことがうかがわれる。
• 応仁元年(1467)、京都を中心に応仁の乱が起ると、足利幕府の威信は地におち、全国的に下剋上が蔓延する戦国時代となった。各地に新興勢力が割拠し、かれらによって荘園は押領され、領地の一円支配を行う戦国領主が登場してきた。それは海南地方も例外ではなく、鷲住王の子孫を称する各氏が城を築き、それぞれの地域の支配者となり、互いに勢力を競い合った。
🟣永塩因幡守氏継(ながしお いなばのかみ うじつぐ) とは?
●生誕: 不明、死没 : 応仁元年10月3日(1467年11月8日)
生年月日不明 〜 応仁元年10月3日(1467年11月8日)
官位に因幡守とあるが、永塩氏継と因幡国(鳥取県東部)との関係は不明。因幡国の国司、守護一覧には名前は出てこない。地元、黒羽出身の地方豪族だったと推測。
●室町時代(1336年〜1467年) 後期の武将。
現在の東かがわ市黒羽(くれは)にあった黒羽城 城主。
細川勝元の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏一族惣領の安富元綱の一派と推測される。
主君 : 細川勝元(讃岐守護。讃岐守護代は安富元綱。ちなみに西讃守護代は香川氏)
氏族 : 永塩氏
●生涯
生年月日は不明。
生誕地は黒羽と推測。
応仁元年(1467)年8月4日、現在の東かがわ市黒羽に天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を奉祀し、黒羽神社を創建。後に天御中主神は妙見大明神へと変わる。
細川勝元に仕えていた安富元綱は、家宰として京都で勝元に近侍していた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、安富元綱(東讃守護代)は香川氏(西讃守護代)と共に讃岐の軍勢を指揮し、京都を転戦。
この東軍の安富元綱が指揮した讃岐の軍勢の中に、永塩因幡守氏継がいた。
戦局が西軍有利となる中、10月3日、西軍は東軍の本陣であった相国寺を一気に攻撃した(相国寺の戦い)。
東軍の安富元綱は3000騎を率いて相国寺を守ったが、一部の僧侶が西軍に内応して相国寺内部から火を放ったことから東軍側は動揺し総崩れとなった。
安富元綱は敵の猛攻撃を押し返し奮戦したものの、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げた。
永塩因幡守氏継も激しい相国寺の戦いの中で、安富元綱らと共に討ち死にした。
相国寺の戦いは応仁の乱でも最激戦の一つであった。
相国寺の戦いで、永塩因幡守氏継と共に永塩氏一族の他の者も亡くなった。このことがきっかけとなり、黒羽に残っていた永塩氏一族は、帰農し、永峰姓に改姓したと推測される。その後、一族の復興が図られた。
※日本姓氏語源辞典によると、永峰姓は、香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝わる。
※参考: 黒羽神社由緒、地名辞典、応仁記、日本姓氏語源辞典、県報2001、2003
🟣安富 元綱(やすとみ もとつな)とは?
室町時代後期の武将。
細川氏本家・京兆家の重臣として東讃守護代を世襲していた安富氏の一族、もしくは惣領。
細川京兆家の家宰・執事。
●生誕: 不明、死没 : 応仁元年10月3日(1467年11月8日)
官位 : 民部丞
主君 : 細川勝元
氏族 : 安富氏
●生涯
元綱は細川勝元に仕え、家宰として京都で勝元に近侍していた。
応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こると、元綱は香川氏と共に讃岐の軍勢を指揮し、京都を転戦。→この安富元綱が指揮した讃岐の軍勢の中に、永塩因幡守氏継がおり、相国寺の戦いで安富元綱らと共に壮絶な最期を遂げたと考えられる。
また、安富氏は山城国西岡の野田氏らも被官化していたようで、元綱は彼らも率いて軍事行動をしていたことが諸史料に見える。
戦局が西軍有利となる中、10月3日、西軍は東軍の本陣であった相国寺を一気に攻撃した(相国寺の戦い)。
東軍の元綱は3000騎を率いて相国寺を守ったが、一部の僧侶が西軍に内応して相国寺内部から火を放ったことから東軍側は動揺し総崩れとなった。
元綱は敵の猛攻撃を押し返し奮戦したものの、激戦の末、弟の盛継と共に壮絶な戦死を遂げた。
相国寺の戦いは応仁の乱でも激戦の一つであり、その一部始終は「応仁記」に詳しい。
元綱は殊の外、細川勝元の信頼が厚かったようで、元綱の戦死は勝元を大いに落胆させたという。
また、東軍側の諸将もその死を嘆いたという。
🟣細川勝元とは?

細川 勝元(ほそかわ かつもと)
室町時代中期の武将・守護大名。
室町幕府16・18・21代管領。
土佐国・讃岐国・丹波国・摂津国・伊予国守護。
細川京兆家11代当主。
応仁の乱の東軍総大将として知られている。
🟣相国寺の戦いとは?


●相国寺の戦い(しょうこくじのたたかい)
応仁元年(1467年)10月3日から4日にかけて現在の京都府京都市上京区で起こった戦い。
応仁の乱中で最も激しかった戦闘とされていて、この戦いの後両軍は京都での戦闘は控え、代わりに戦場を山城周辺に移していった。
相国寺の戦いの年月日:応仁元年(1467年)10月3日 – 4日
場所:山城国西陣(現在の京都府京都市上京区)
結果:西軍の勝利
●指導者・指揮官
<東軍>
細川勝之
安富元綱
武田信賢
京極持清
畠山政長
<西軍>
畠山義就
大内政弘
一色義直
六角高頼
朝倉孝景
●概要
大内政弘の加勢によって勢いをつけた西軍は、9月の東岩倉の戦いで東軍を破り京都北東に追い込んだ。
10月3日に西軍は更なる攻勢に出て東軍が構える花の御所・相国寺・内裏に進軍を開始、西軍の畠山義就・大内政弘・一色義直らの軍勢が朝倉孝景らと合流して、相国寺及び周辺の東軍に攻めかかった。
相国寺には細川勝元の猶子細川勝之と勝元の家臣安富元綱・武田信賢らが守り、南方の烏丸殿・内裏・三条殿には京極持清らが構えていた。
畠山義就と朝倉孝景の軍はまず相国寺を攻撃、激戦の末武田軍を退却させて相国寺を焼き討ち(西軍に内通した相国寺の僧が放火したとも)、烏丸殿・内裏・三条殿の兵も逃亡して相国寺を制圧した。
花の御所は相国寺のすぐ西側にあったためこちらも西軍に攻撃されたが、半分焼け落ちながらも陥落を免れた。
東軍側は一旦退却したが、畠山政長らの援軍を得て反撃に転じ、相国寺跡地に陣取っていた一色軍と六角高頼軍を急襲して打ち破り相国寺を奪回した。
しかし、再度孝景が率いる西軍の軍勢が相国寺の占拠に成功し、一旦休戦となった。
西軍は相国寺の奪取により東軍を追い詰めたが、双方に多大な死傷者を出す消耗戦となった。
消耗が激しかったこの戦い以降、両軍の間での衝突が散発的になり、やがて戦争は京都から地方へと波及、相手陣営の有力武将の調略へと戦略が切り替わっていった。
●相国寺

🟣応仁の乱とは?
室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。
年月日:(旧暦)応仁元年 – 文明9年
(ユリウス暦)1467年 – 1477年
場所:京都
結果:西軍の消滅
発生要因には、足利将軍家の後継者問題もあった。
すなわち室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となった。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。
11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。
そのため、近年では「応仁・文明の乱」と称されることもある。
●西讃史
http://park6.wakwak.com/~haru/6eyes-hp/seisansi.doc
●讃岐の香川氏の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kagawa.htm
●西讃守護代 香川氏について