【東かがわ市・黒羽】インド起源の毘沙門天を祀る吉祥寺! 永塩氏継 創建の黒羽神社 (妙見宮)! インド発祥の妙見信仰! 三国時代の呉の帰化人が黒羽(呉羽)に来て養蚕、機織り技術を伝授、定住した者が蕃神信仰を広めた!

🟣東かがわ市の黒羽(くれは)は、瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉さんや笠置シヅ子さんの出身地であり、周辺には、戦後初の東大総長を務めた南原繁さんの出身地があり、今も讃岐和三盆の製造が脈々と受け継がれている土地でもある。

わたしの曽祖母も黒羽の出身で、戦国時代に永塩姓から永峰姓に改姓したと伝わる。先祖の永塩因幡守氏継は室町時代に黒羽城を居城とし、1467年に黒羽の土地に黒羽神社を創建した。

この香川県の東端に位置する東かがわ市。東の端と言うと僻地のようなイメージがあるかもしれないが、香川県の中では、関西に一番近い場所に位置し、引田港は、昔から香川県の物資を関西方面に運ぶ際の風待ち港として栄えた。

その東かがわ市の中でも東の端に位置するJR讃岐相生駅周辺の相生(あいおい)は、明治時代に相生村として成立した。

相生村は、1890年2月15日 、町村制施行に伴い、大内郡馬宿村(うまやどむら)、坂元村(さかもとむら)、南野村(みなみのむら)、黒羽村(くれはむら)、川股村(かわまたむら)、吉田村(よしだむら)が合併し、相生村が成立した。

その相生にある黒羽(くれは)だか、この黒羽という地名は、大化(645年〜650年)の頃、呉(ご)の国から日本に帰化した技術者が、この地にやって来て機織りの技術と養蚕を伝えた。その報恩と感謝の気持ちを込めて、呉と羽二重(はぶたえ)の羽をとり、呉羽となり、それが、黒羽になったと伝わる。

黒羽の民に機織り技術と養蚕を教えた呉の帰化人の技術集団の中には、この黒羽の地に住み着いた者もいた。今から約1350年前のことだ。その人たちが地元の民と同化していき、永塩姓を名乗り、戦国時代に永峰姓に改姓したと推測される。

◼️<余談>

以前から自分でも不思議に思っていたのだが、日本の成り立ちや古代史、渡来人になぜか異様に関心があり長年に渡り調べていること、12歳のとき修学旅行で初めて訪れた奈良県で強烈なデジャブがあり、ここには住んだことがあると懐かしさが蘇ったこと、全く興味がなかった中国で仕事をすることになり12年間も中国に住んだことなど、これまでの人生を振り返り色々と考えてみたが、どうやら自分の中には1350年以上前に日本に帰化した呉の人の血が流れているのではないかと思える。 ご先祖様の存在を知らしめるべく、そういう血統が発露しているのかもしれない。

当時、欧米にしか興味がなく英語の勉強しかしておらず欧米営業部にいた自分が意に反し、なぜか中国に赴任することとなったのも不思議な縁だが、中国にいた12年間の内、10年間は3世紀当時、呉の国であった上海や深せんに住み、出張で上海から毎週のように呉の首都だった南京やその周辺に行っていた。特に寧波には二年間、上海から通っていた。寧波には何か先祖とのご縁があるのかもしれない。

恐らく中国の三国時代に呉に住んでいた一族が、激しい戦乱で国を脱出し、日本に渡った。その行き先は奈良だったが、その後、ヤマト政権の政策により、讃岐に派遣され機織りの技術や養蚕を地元の民に伝授した。その一族が黒羽に住むようになり、地元に様々な面で大陸文化の影響を与えながら同化していった。そのことは、黒羽で古くから信仰されている神が毘沙門天、妙見神、弁財天、吉祥天など蕃神(外国の神)ばかりであることからも分かる。

※呉(222年 – 280年)

中国の三国(魏・呉・蜀)時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。

222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。

東かがわ市周辺の古墳

※東かがわ市の原間6号墳は埋葬施設に木槨をもち、中から三累環頭大刀(さんるいかんとうたち)が出土した。被葬者は、朝鮮半島から来た渡来人か朝鮮と関係があった者と推測される。

さぬき市周辺の古墳

◼️<讃岐に見る大陸文化、双方中円墳、屋嶋の城>

中国や朝鮮の歴史は、戦争の歴史だったため、戦争に負けた側の王族とその一族、臣下の者たちが近隣の安全な日本に亡命してくることは、よくあった。

高松市の栗林公園の西側にそびえる紫雲山や峰山には何百基と言う古墳がある。中には日本では数基しかない非常に珍しい猫塚古墳などの双方中円墳があり、積み石の技術により作られている。これらは大陸から来た一族がこれらの古墳を築いたであろうと推測される。

また、高松市屋島にある屋嶋の城は、白村江の戦い後に百済から来た亡命者たちにより建造された。岡山県総社市の温羅の城も百済の王族による建造物だ。

栗林公園周辺の古墳

●香川県仲多度郡で中央とも繋がりのある有力豪族であった佐伯氏と渡来人の阿刀氏(安斗氏とも書く、中国の秦王朝より派遣された饒速日の末裔)の間に生まれたのが、空海であり、名は佐伯眞魚(さえきまお)と言った。

空海は中国語もサンスクリット語も出来たマルチリンガルで、しかも相当な財力があった為、20年の遣唐使の期間を2年に短縮して密教の極意を持ち帰ることができた。唐の青龍寺では、空海の師である惠果和尚とも中国語で密な会話ができたと思われる。

空海は、遣唐使に出る前に奈良で母方の叔父で学者であった阿刀大足を家庭教師として、論語・孝経・史伝・文章などを学んだが、その時に中国語も習得していたと推測される。また、空海が生まれ育った讃岐は、渡来人が多く中国語に触れる機会も多かったのだろう。

善通寺市周辺の古墳

●瀬戸内海に面した香川県は、太古の昔から中国や朝鮮と日本の中央政府があった奈良や京都との中継地点であったため、大陸から奈良へ行く途中に瀬戸内海沿岸に立ち寄られることはよくあったと推測される。東かがわ市の湊(岡前地神社古墳)や高松市の峰山古墳群などには海からよく見える小高い位置に古墳が建てられ航海の目印にもなった。

紀元前の時代から日本には大陸から来た渡来人や帰化人が多く住んでおり、多民族国家だった。そういった人々は何世代も経て日本に同化していった。ハワイやブラジルへ移民した人々が現地に同化していくのと同じプロセスだ。今の日本人は、中国、朝鮮、モンゴル系のブリヤート人、インドのドラビダ系民族などが何百年にも渡って混血していった結果である。

※三国時代(184年-280年) : 中国の魏・蜀漢・呉による時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを指す。

※大化 : 西暦645年から650年までの期間を指す。この時代の天皇は孝徳天皇。

🟣黒羽出身者

東かがわ市の黒羽(くれは)は、昔からサトウキビを栽培しており、製糖が盛んだった。瀬戸内寂聴さんの父の三谷豊吉(後に瀬戸内家の養子となった)さんや東京ブギウギで一世を風靡した歌手の笠置シヅ子さん(黒羽庄原生まれ。生後間もなく大阪福島の亀井家の養女となった)の実の父 三谷陳平さんも製糖業を営む三谷家の出身だった。

ちなみに、笠置シヅ子さんの祖父は、漢学者で、その教え子が、戦後初の東大総長を務めた南原繁さんで、笠置シヅ子さんの後援会長を務めた。

今でもこの地では、和三盆の製造が脈々と受け継がれている。

●わたしの曽祖母は、この黒羽の旧家、永峰家の出身である。永峰家は、戦国時代に永塩姓から永峰姓に改姓したと伝わる。

室町時代の1467年(応仁の乱発生の年)に、地元の豪族であった永塩因幡守氏継が、黒羽神社を創建した。

永塩因幡守氏継は、黒羽の山あいに黒羽城を築き、居城としていたが、発掘により城跡が四ヶ所推定されているが、まだ特定はされていない。

永塩因幡守氏継は、名前に因幡守(いなばのかみ)とあるが、因幡国は今の鳥取県にあたる。因幡国の国司一覧で調べても永塩氏継の名前は出てこない。なぜ因幡守と呼ばれたのか?

この黒羽城、そして永塩氏継に関しては、関連する資料がない為、謎が多い。

一刻も早く再発掘が実施されると共に、永塩氏の経歴が分かる資料が出てくることを切に願う。

🟣インド起源の毘沙門天を祀る吉祥寺

住所 : 香川県東かがわ市黒羽

吉祥寺

毘沙門庵ともいう。

黒羽「毘沙門天」由来

大昔、呉羽(黒羽村)に大きな毒蛇が住み着き村人たちを苦しめた。ある年、村一番の美少女がイケニエに選ばれた。父母は弁天様に救いを願い、弁天様は少女の身代わりになった。少女を丸呑みしようとした毒蛇に大ムカデが突進してきた。逃げる毒蛇に大ムカデは毘沙門天の姿に返り、黒い羽根の付いた矢を射かけ、毒蛇は倒れた。それ以来「黒羽村」と呼ばれるようになった。(一部抜粋)

毘沙門庵には毘沙門天本尊が祀ってある↓

黒羽毘沙門本尊

◼️毘沙門天(びしゃもんてん)とは?

仏教の護法神。

サンスクリット語: バイシュラバナVaiśravanaを吠室囉末拏などと音写し、転じて毘沙門天となった。

多聞(たもん)天、遍聞(へんもん)天とも称される。

インドのベーダ時代からの神で、ヒンドゥー教ではクベーラkuberaの異名をもつ。

もとは暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では財宝、福徳をつかさどる神となり、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)を率い、帝釈(たいしゃく)天に属して北方を守護する神とされていた。

仏教では四天王の一尊で須弥山(しゅみせん)の北方に住し、多数の夜叉を眷属(けんぞく)として閻浮提(えんぶだい)州の北方を守る護法の善神とされた。

その形像は甲冑(かっちゅう)を身に着け、憤怒(ふんぬ)の相をし、左手に宝塔を捧(ささ)げ、右手に宝棒または鉾(ほこ)を執(と)り、二夜叉(鬼)の上に座る。

また十二天の一とされるが、わが国では単独としても古来から信仰された。

信貴山(しぎさん)(朝護孫子寺(ちょうごそんしじ))では毘沙門天を本尊としており、楠木正成(くすのきまさしげ)はその申し子として幼名を多聞丸と称するなど、武将の信仰が厚かった。

また平安時代には、王城鎮護のため北方に建てられた鞍馬(くらま)寺に左手をかざした毘沙門天像を安置したり、さらに東寺(教王護国寺)の兜跋(とばつ)毘沙門天像のように密教において特別の彫像も現れるに至った。

後世、武将形のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として民間に信仰された。

🟣黒羽神社とは?

住所: 東かがわ市黒羽115番

黒羽神社 (くれはじんじゃ)

通称: みょうけんさん

5社(山の神、荒の神等)を合祀

応仁元巳年(1467)8月4日、永塩因幡守氏継 公が創立。(1467年は京都で応仁の乱が始まった年。室町時代)

一説によると、黒羽の土地は、水が少なく、毎年旱魃の被害に苦しんでいるのを見た永塩因幡守氏継が池を築いた。しかし、雨が少なく池に水は溜まらなかった。

村人たちは思案し、大木が密生している浄地に大御中主命、天水分命を祀って、雨乞祭を執り行ったところ、その後は旱魃(かんばつ)もなく、池はいつも水をたたえるようになった。そのことを喜び、産士神として祀ったと古老の口碑が残されている。

※応仁の乱: 

室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。

発生要因には、足利将軍家の後継者問題もあった。すなわち室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となった。

明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。

11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」と称されることもある。

🟣妙見信仰とは?

拝殿の額に妙見宮とある。

妙見大明神と刻まれた石碑

妙見菩薩(みょうけんぼさつ)

旧仮名遣:めうけんぼさつ

北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ。

尊星王(そんしょうおう)、妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)、北辰菩薩(ほくしんぼさつ)などとも呼ばれる。

妙見信仰の由来・拡散

妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したものである

「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている。

道教に由来する古代中国の思想では、北極星(北辰)は天帝(天皇大帝)と見なされた。

これに仏教思想が流入して「菩薩」の名が付けられ、「妙見菩薩」と称するようになったと考えられる。

「妙見」とは「優れた視力」の意で、善悪や真理をよく見通す者ということである。

妙見信仰は中国の南北朝時代には既にあったと考えられているが、当時からの仏像は未だに確認されていない。

妙見を説く最古の経典は晋代失訳『七仏八菩薩所説大陀羅尼神呪経』(西暦317~420年、大正蔵1332)である。

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