【香川県東かがわ市・黒羽城】幻の城 黒羽城(くれはじょう)の謎を追う! 黒羽と瀬戸内寂聴さん、笠置シヅ子さん、東大総長との関係とは? 城主は永塩因幡守氏継! 永塩氏は戦国時代に永峰姓に改姓!

🟣私の曽祖母は、東かがわ市の相生村(あいおいむら)にある黒羽(くれは)の出身で、永峰家の出だった。

瀬戸内海に面する香川県の東端にある東かがわ市

東かがわ市の黒羽(くれは)

この東かがわ市相生村(あいおいむら)の黒羽(くれは)と言う土地は、瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉さんの出身地で、豊吉さんの父は和三盆の製造を行う製糖業を代々、営んでいた。 また、戦後、東京ブギウギで一世を風靡した歌手の笠置シヅ子さんは、黒羽で生まれた。実の父は三谷陳平さんと言い、製糖業を営む旧家の跡取りだった。また、笠置さんの祖父は漢学者で、その教え子が、戦後初の東大総長となった相生村出身の南原繁さんで、笠置さんの後援会長を務めた。

讃岐和三盆の製造技術は今も、東かがわ市で脈々と受け継がれている。

●瀬戸内寂聴さん。父の三谷豊吉さんは黒羽出身で、製糖業を営む家に3男として生まれた。瀬戸内寂聴さんご自身も法要で黒羽を訪れたことが、小説「場所」の中で書かれている。御父母のお墓は引田駅近くの積善坊にある。

●笠置シヅ子さん。黒羽庄原の三谷家の生まれ。生後間もなく、大阪の亀井家の養女となった。戦後、「東京ブギウギ」で一世を風靡した。 2023年秋のNHK朝ドラ化が決定した。

●東かがわ市相生村南野出身の戦後初の東大総長 南原繁さん。笠置シヅ子さんの後援会長だった。笠置シヅ子さんの祖父は漢学者で、その教え子が南原繁さんだった。

●私の曽祖母は、この東かがわ市の黒羽の出身で、「相生村の黒羽で、お姫さまのような暮らしをしていた。」、「時代が時代ならお姫さまだった。」、と祖母がよく言っていた。

旧家の出で、嫁入り道具も豪華で、朝になると引田の漁港から新鮮な魚介類が船で届けられたと聞いた。小学生の頃は、そのことを聞いてもあまりピンとこず「ほんまかいな? えらい、大袈裟やなあ」くらいに思っていた💦💦💦

最近になって、大叔母(曽祖母の娘)が昭和39年に、神戸新聞から取材を受けた記事が出てきたり、2021年〈令和3年〉11月9日に亡くなられた瀬戸内寂聴さんと大叔母との関係を調べている内に、永峰家の先祖は永塩氏であり、相生村の黒羽にあった黒羽城と言う城を居城としていたことが分かってきた。

恐らく香川県の人も、東かがわ市の住民でさえ黒羽城と言う名前は聞いたことがないだろう。その”くれは”と言う読み方さえも知らない方が多いだろう。

地図上で見る黒羽(くれは)城跡

近くの引田城跡は、近年、国の史跡に指定された。

黒羽城跡近くに池が確認できる

🟣永峰と言う名前の由来は?

日本姓氏語源辞典を調べてみると、永峰と言う名前の由来は、「香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝える。」とある。

https://name-power.net/fn/永峰.html

戦国時代に、この黒羽の土地に住んでいた永塩氏の一族が、帰農し永峰姓を名乗った。永峰姓は、日本全国で見ても東かがわ市が一番多い。

由来

①地形。香川県東かがわ市黒羽で戦国時代に永塩氏が帰農して塩を「峰」として改姓したと伝える。

永峰姓の分布 市区町村順位

1 香川県 東かがわ市(約300人)
2 宮崎県 都城市(約130人)
3 宮崎県 宮崎市(約130人)
4 長崎県 五島市(約120人)
5 山口県 下関市(約70人)
5 兵庫県 宍粟市(約70人)
7 香川県 高松市(約60人)
8 千葉県 市原市(約50人)
9 茨城県 行方市(約50人)
10 鹿児島県 伊佐市(約40人)

🟣黒羽城とは?

黒羽(くれは)城は、室町時代に永塩因幡守氏継の居城だったと伝わる。(永塩因幡守氏継は、室町時代の1467年に黒羽神社創建)

永塩(ながしお) 因幡守(いなばのかみ) 氏継(うじつぐ)と読むが、因幡国と言えば、現在の鳥取県東部に当たる。なぜ因幡守(いなばのかみ)が、讃岐にいたのだろうか??

因幡守というのは、官位だから実際の場所との由縁の有無はないかもしれないが、実は私の父方の森家の先祖である佐田九郎左衛門の出身地は因幡国なのでもしかすると戦国時代に因幡国でなんらかの関係があったのかもしれない。

因幡国の国司一覧表

因幡国 国司一覧

永塩因幡守氏継は、近くの黒羽神社も創建した。

この永塩氏一族は、戦国時代に、帰農し永峰姓となった。香川県の東かがわ市は、永峰姓が日本で一番多い。

この黒羽城については、まだまだ謎の部分が多い。

『香川県中世城館跡詳細分布調査報告書』では城郭遺構が確認できたとあり、推定地はあるが、まだ特定は、されていない。

今後、本格的な発掘が実施され城郭遺構や永塩氏について新たな事実が判明してくることを切に願う。

●遺構概要http://www.isekiwalker.com/iseki/325489/

県報2003:

曲輪+平坦地+土橋。

城主: 永塩因幡守氏継。

地名 : 「古城(フルシロ)」「殿さん屋敷」「南門」「北門」「保田池」「出口」。

<立地> 丘陵尾根先端(標高110m、比高80m)。

<現況> 山林。

<保存状況> 良好、推定地4ヵ所あり。2ヶ所は平地に、1ヶ所は小高い神社(毘沙門庵向かい)、山側尾根上の1ヶ所で城の痕跡らしきものあり、 尾根末端の小高い神社五輪塔あり、現在移転。 

遺物概要 発掘概要

県報2003: 2001年踏査。 

その他概要『全讃史』。

『増補三代物語』。

『古今讃岐名勝図絵』。

『讃岐国名勝図会』。

『新撰讃岐国風土記』。

『讃陽古城記』。

『日本城郭大系第15巻香川・徳島・高知』(新人物往来社 1979)。

『引田町史』(1995)。

『香川県中世城館跡詳細分布調査報告』(県教委 2003)。

県報2003、30-3010-02。 

🟣追跡記事:永塩因幡守氏継のことを香川県の複数の歴史博物館に尋ねてみた ↓

🟣黒羽神社とは?

住所: 東かがわ市黒羽115番

黒羽神社 (くれはじんじゃ)

通称: みょうけんさん

5社(山の神、荒の神等)を合祀

応仁元巳年(1467)8月4日、永塩因幡守氏継公が創立。(1467年は京都で応仁の乱が始まった年)

一説によると、黒羽の土地は、水が少なく、毎年旱魃の被害に苦しんでいるのを見た永塩因幡守氏継が池を築いた。しかし、雨が少なく池に水は溜まらなかった。

村人たちは思案し、大木が密生している浄地に大御中主命、天水分命を祀って、雨乞祭を執り行ったところ、その後は旱魃(かんばつ)もなく、池はいつも水をたたえるようになった。そのことを喜び、産士神として祀ったと古老の口碑が残されている。

※応仁の乱:

室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年間にわたって継続した内乱。

発生要因には、足利将軍家の後継者問題もあった。すなわち室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、足利将軍家や細川勝元・山名宗全といった有力守護大名を巻き込み、幕府を東西2つに分ける大乱となり、さらに各々の領国にも争いが拡大するという内乱となった。

明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされる。

11年に亘る戦乱は、西軍が解体され収束したが、主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467年)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦が続いたことにより、応仁はわずか3年で文明へと改元された。そのため、近年では「応仁・文明の乱」と称されることもある。

●黒羽神社

●黒羽神社

●黒羽大獅子

●黒羽神社のホルトノキ

●黒羽大獅子

●黒羽大獅子

🟣東かがわ市相生 黒羽(くれは)の地名の由来は?

https://www.higashikagawa.jp/itwinfo/i6205/file/koho-200306-21.pdf

黒羽には、地名にかかわる伝承が数多く残っている。

鶴が黒い羽根を落として去ったといい、土が黒いので「黒垣」が転じて「クロハ」、さらに、「黒羽」になったという。また、毘沙門天が黒い羽根の矢で毒蛇を射止めたという説話などがある。

史実に近い口碑として、大化の頃、呉の国の帰化人で「服部」の技術者がこの地に来住し、村人たちに養蚕、機織(はたお)りの技術を教えた。村人たちは次第に上達し羽二重(はぶたえ)が織れるまでになった。

呉の人が去るに際し、報恩と感謝を込めて、呉と服部の一字をとって「呉服」を村名としたが、いつしか「くれは」となり「黒羽」となったという。また、呉と羽二重の頭字をとって「黒羽」となったともいう。このことは、村で祭祀する社寺の祭神が「蕃神」といわれる妙見神、毘沙門天、吉祥天、弁財天など渡来の神であることから、来住した呉の国の人と関連があるようだ。

服部(はとりべ)は、大化の改新以前に機織の技術をもって朝廷に仕えた品部。「機織部」(はたおりべ)が転訛したもの。のちに「部」(べ)の音がとれ、「促音」が入って、「はっとり」とも発音されるようになる。

※服部(はっとり、はとり)の原義
機織部 – はたおりべ・はとりべ。古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人から構成された部民、およびその活動地域。後に「ベ」音が黙字化し「服部」になった(服部 (品部))。語源としては羽鳥も同じ意味を持つ。
服部郷 – 上記に因む古代日本の国郡里制の郷の一つ。

蕃神(ばんしん)とはその国、その土地の外部(外国、異国)からやってきた神。単に外国の神という意味ではなく、外来の神、つまり、外から入り込んできた後に定着し、その国、その土地で既に信仰の対象とされるようになってきている神を指していう。蕃神が信仰されるようになる経緯としては、意識的に布教される、あるいは、その国の人々が蕃神の存在を知り、自発的に信仰を始める、などが考えられる。

日本の七福神はそのほとんどが外来の神、つまり蕃神である。

呉服(ごふく)は日本における織物の呼称の一つで、特に絹織物を指したことから洋服が普及したのちにハレの衣装となった和服用反物の呼称となり、そこから和服そのものの呼称ともなっている。中世日本では織機の意味から、呉織・呉服(くれはとり)と呼ばれ、後に「ごふく」と音読されるようになった。

古代中国の呉から日本に伝わった織り方によって作られた反物に由来し、綿織物や麻織物を意味する太物に対し、絹織物を意味する語として使われるようになった。『世説故事苑』によれば応神天皇の時代に伝来した。

●明治生まれの大叔母が、神戸新聞に取材を受けた際の記事 (昭和39年) 大叔母は、瀬戸内寂聴さんのところに手伝いにいっていた時期があり、その関係で瀬戸内寂聴さんとも交流があった。

●瀬戸内寂聴さんの父 三谷豊吉さんは、東かがわ市相生村の黒羽出身で、和三盆の製造を行う製糖業を営んでいた。

●戦後、東京ブギウギで一世を風靡した歌手の笠置シヅ子さんは、相生村で生まれた。実の父は三谷陳平さんと言い、製糖業を営む旧家の跡取りだった。笠置さんの祖父は漢学者で、その教え子が、戦後初の東大総長となった相生村出身の南原繁さんで、笠置さんの後援会長を務めた。

●明治時代、香川県会議員だった東かがわ市黒羽の永峰雄吉さん。

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