【香川県のワニ信仰7】出雲族はいつ頃、なぜインドから出雲に来たのか? ドラヴィダ人とは? DNA鑑定は? 他の伝承には出雲族の移住について残っていないのか?

🟣香川県のワニ信仰1-6これまでの推論。

【香川県のワニ信仰1】金毘羅さんはワニの神様! ゾウ(ガネーシャ)を祀る八栗寺の聖天堂! 主祭神がワニに乗って来た三木町の和爾賀波神社と鰐河神社! ワニの正体は? 神武天皇の父が生まれた屋島の鵜羽神社! 

【香川県のワニ信仰2】金毘羅(こんぴら)さんはワニの神様! 祭神の大物主神は大国主神で大黒天の起源はシヴァ神! 象頭山に鎮座し境内にゾウの像! インドから移住してきた出雲族が支配! 

【香川のワニ信仰3】香川のワニ信仰(水神)を追う! 高松市田町商店街の琴平神社(祭神:大物主神、蛇神、水神、雷神。元は金毘羅大権現=インドのワニの神様クンピーラ神)! 

【香川県のワニ信仰4】高松市屋島 鵜羽神社(うのはじんじゃ)は神武天皇の父が生まれた場所! 軒下の木鼻はゾウの彫刻! 境内遺跡から製塩用の「炉」や1-7世紀の土器片も発見された!

【香川県のワニ信仰5】出雲族の足跡を追う! 香川県高松市屋島の鵜羽神社近くの 八坂神社訪問! 御祭神: 須佐之男命 スサノオノミコト (出雲系国津神、大国主命の先祖? 徐福? 饒速日? インド神話のインドラ神の化身 牛頭天王?)

【香川県のワニ信仰6】インドのワニ神 クンピーラ(金毘羅)に乗った女神ガンガーとは? 三木町の鰐河神社と和爾賀波神社の祭神 豊玉姫はワニに乗ってやって来た!

🟣出雲族はいつ頃、なぜインドから出雲に来たのか?

出雲王国の末裔 富家の口伝(「出雲王国とヤマト政権」富士林雅樹著)によると出雲族は、インドにルーツを持つドラヴィダ人で、日本に移住して来て縄文人となった。

彼らは、3500年以上前にアーリア人の侵攻を受けインドのクナ国のクナト王に率いられてシベリアを経由して北海道に辿り着き、日本海を南下して砂鉄の取れる川がある出雲にやって来た。

↓ アーリア人のインド侵入

北海道や東北地方には、既にアイヌ人とブリヤート人(ロシア連邦やモンゴル国、中華人民共和国に住むモンゴル系民族)が住んでいた。

↓ アイヌ人

↓ ブリヤート人

ブリヤート族の結婚式。新婦は人妻になった証に髪を分けて二つに垂らす。
髪を二つに分けられる新婦。この髪型が既婚者の証になる=フルンボイル市・エベンキ族自治旗

●出雲族は青森県の三内丸山遺跡の地にある期間住んでいた。そこで先に住んでいたアイヌ人やブリヤート人と混血していった。

更に南下し、最終的に出雲に留まった理由は、斐伊川で砂鉄が取れること、また島根県の港があったことと書かれている。出雲族は、この港で、鉄などの交易を行なっていた。

この出雲王家末裔の富家の口伝によると、クナ国は、中央インドのマディヤ・プラデーシュ州のグナと言う町にあった。そのクナ国のクナト王が、アーリア人の侵略に対する対策として、東方への移住を決め、日本の出雲にやって来た。彼らは、ドラヴィダ族であり、彼らが日本へ来て出雲族となった。

中央インドに位置するマディヤ・プラデーシュ州

●出雲族は、3500年前〜4000年前ぐらい、紀元前1500年頃に、インドから日本に渡来し、日本海を南下して出雲に辿り着き生活基盤を整えていった。その後、紀元前660年頃に日本で初めての統一王朝 出雲王国が成立した。出雲王国が最も勢力範囲を広げた時期には、東は新潟県、西は九州の宗像辺り、そして四国、中国、近畿地方まで統治していた。

その後、紀元後3世紀ごろ、第二次モノノベ東征により出雲王国は滅亡した。

●出雲族は太陽信仰、ワニとヘビの信仰(龍蛇信仰)を持っていた。出雲大社は龍蛇信仰、奈良県桜井市の大神神社は蛇信仰。

●出雲王国では、王のことを大名持、副王を少名彦と呼ばれた。8代目・大名持の時代に、最大の繁栄を迎えた。大名持には、神門臣家のヤチホコ(八千矛)が選ばれた。この方は大国主と呼ばれた。

副王・少名彦は、八重波津身が選ばれた。この方はコトシロヌシ(事代主)とも呼ばれた。事代主は、死後の贈り名で、発音に対する当て字であり、正しい意味の漢字では、事知主と書く。武力ではなく言論で統治する王と言う意味である。香川県の金刀比羅宮には、末社・事知社があり、コトシロヌシを祀っている。

●今、2022/6/7に、出雲王国とヤマト政権を読みながら驚きと共に怖さが出てきた。自分が最初に”感じさせられた”推論のもととなる情報が後から後から出てきて(出雲族のワニ信仰、鵜羽神社の大己貴を祀る古い石碑、女神ガンガー、出雲族の勢力範囲、三木町〜琴平町一帯の金比羅神社の多さ、等々)この「香川県の金比羅信仰の起源探し」をやめさせてくれない。どうやら自分の意思とは別の力が働いているようだ。古代出雲族の人々の見えない力が働き、自分たちの歴史をちゃんと伝えていって欲しいという意思があるように感じてきた。

静御前が最期をとげた香川県木田郡三木町にある池の畔に建つ静薬師に行く途中にある和爾賀波神社の本殿の裏にパワーを感じていたことから始まり、5月末あたりから和爾賀波神社の由緒を調べ出した。その少し前には、高松での倭迹迹日百襲姫の足跡とその正体を調べる旅に出ており、その過程で知った出雲王国とヤマト政権という書籍の存在があった。

今、考えると偶然ではないような気がするが、静御前は京都の神泉苑で雨乞いの舞をし、雨を降らせ、後白河法皇から日本一と称せられた巫女や女神のような存在。倭迹迹日百襲姫も讃岐の土地に稲作と水路開拓を指揮した巫女、水神と考えられる存在。また和爾賀並神社、鰐河神社の御祭神 豊玉姫も鰐神、水神、巫女。

「出雲王国とヤマト政権」と言う書籍の存在を知ったとき、この書籍は早めに手に入れておかないといけないと直感的に感じすぐに購入した。

三木町の和爾賀波神社と鰐河神社の御祭神の豊玉姫がワニに乗ってきて鎮座したと言う社伝を辿っていくと、屋島の鵜羽神社の存在を知った。新川の下流は屋島、鴨部川の下流には鴨神社がある。賀茂氏は、出雲族の富家の出だ。

屋島の鵜羽神社は、豊玉姫が亀に乗りやって来て神武天皇の父 ウガヤフキアエズを産んだ場所と言われる。自分の推論は、出雲族の一団が、勢力拡大の過程で中国地方から渡海し、この屋島の地にやってきたのではないかというもの。天津神のウガヤフキアエズを祀る神社ではあったが、高松市田町の琴平神社の境内で鵜羽神社のことが気になりだし、すぐに足を運んだ。鵜羽神社に行ってみると本殿横に祀ってある古い石碑があり、彫られた字を見てみると国津神の大巳貴(=大国主)と刻まれていた。出雲族の足跡が残っていた。これは現地に行かないと分からないことだった。

出雲族の一団は恐らく岡山辺りから瀬戸内海を渡り、屋島にやってきた。そこから新川を遡り鰐河神社がある場所辺りまできて、水不足に苛まれている土地に水神であるワニを神格化したクンピーラを祀った。或いは瀬戸内海で二手に分かれ一方は屋島、もう一方は鴨部川の下流に辿り着いたのかもしれないし、遷宮によりワニカワ神社が別れたのかもしれない。そしてワニに乗ってやって来た豊玉姫と言うのは、ガンジス川を神格化した女神 ガンガー、豊玉姫が乗っていたワニはクンピーラ神を表しているのであろう。

出雲族の一団は、この鰐河神社や和爾賀波神社を後にして、仮宮を置く聖なる場所を求めて琴平の象頭山までやって来た。象頭山の中腹に鎮座する金刀比羅宮の辺りからは美しい日の出が拝める。太陽信仰のある出雲族の一団は、象頭山に何か神気を感じ、行宮(一時的に置く宮)を置いた。そして、象頭山を聖なる場所として鰐神 クンピーラ神を祀り、やがて土地にいた人々も信仰するようになっていった。日本には生息しないワニは、蛇や龍に姿を変えて信仰されて行った。

出雲王国が最も勢力範囲を拡大したのが、8代目の大名持 大国主と副王 少名彦 コトシロヌシのとき。この二人は、紀元前3世紀初め頃に中国の秦からやって来た徐福の策略により殺められるので、讃岐の地に出雲族の一団が来たのは、紀元前3世紀初より前。紀元前660年頃に出雲統一王朝が成立したから、紀元前3世紀〜7世紀の間に讃岐の地に来て、讃岐の地を治めていたのだろう。

●少し話しはそれるが、今、気になって調べてみたが、これまで自分が惹かれたり、少々不思議な体験をした神社は、元々、出雲族に関係する神社が多い(歴史の過程で存続していく為に、祭神を変えざるをえない神社も多い)。

三輪神社(三輪山登山は5回くらい。一度は目がグルグル回り途中下山)、日吉大社(大己貴命)、出雲大社、籠神社、真名井神社、住吉大社、西宮神社、上賀茂神社、下鴨神社、貴船神社、宗像大社。

出雲王家口伝のインドから日本への移住について説明された動画 ↓

🟣他の伝承には出雲族のインドからの移住について残っていないのか?

宇佐神宮社家の宇佐家の宇佐公康氏の著書 「古伝が語る古代史」で伝承として、出雲族を「シベリア方面より日本列島に移動漂着したサルタ族」と表現している。

🟣古代出雲人のDNA鑑定の結果は?

古代出雲人の人骨から、縄文人・弥生人のルーツに迫る。古代出雲人は現代人より縄文人に近い遺伝子を持っている ↓

https://readyfor.jp/projects/izumo17990

古代出雲人は縄文人寄りであるとDNA解析で判明 ↓

https://newspicks.com/news/4543732/

古墳時代の出雲人は、同時代に関東で見つかった人骨や現代の日本人よりも、縄文人に近い遺伝子を持っている。出雲市で発見された古代人骨のDNA解析から分かった。

●出雲と枕崎出身者を含む日本人のゲノム規模SNP データの解析結果は 「うちなる二重構造」モデルを支持する

https://www.k.u-tokyo.ac.jp/information/category/press/8532.html

🟣ドラヴィダ人とは?

ドラヴィダ人(Dravidian)は、ドラヴィダ語族の言語(タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語、トゥル語、トーダ語(英語版)、コータ語(英語版)などの言語)を母語として使用する民族の総称。

現在では主に、インド特に南インド四州すなわちタミル・ナードゥ州、ケーララ州、アーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州を中心として居住し、バングラデシュ、マレーシア、シンガポール、モルディブ、マダガスカル、セーシェルなどにも居住している。

●起源

インダス文明はドラヴィダ人によるものだとされている。これは同文明の遺跡から発見された未解読のインダス文字により記された言語が、マヤ文字で有名であるユーリ・クノロゾフらソ連の研究者によってドラヴィダ語族の言語である可能性が高いことが指摘されたからである。

これをきっかけにインダス文字の研究では、Iravatham Mahadevanがドラヴィダ語仮説(Dravidian hypothesis, 南インドのドラヴィダ系の言語)を提唱し、Shikaripura Ranganatha Raoはドラヴィダ語仮説に反対していた。これらの対立にはドラヴィダ運動の政治的な側面からの影響もあった。

現在に至るまで多くの研究がなされているが、インダス文明の言語がドラヴィダ語に最も近かったことはほぼ確実である。

インダス文明では早い時期に農耕・牧畜を始めていたと考えられているが、アーリア人の移動が始まった後は、一部は南下し、一部は同化していった。

●人類学的特徴

ドラヴィダ人はアーリア人とは外見が異なり、アーリア人よりも一般的に肌の色が黒く背が低いが手足が長い(土蜘蛛、縄文人の特徴)、ウェーブがかった髪などの特徴がある。

ドラヴィダ人のY染色体ハプログループは他のインドの民族同様、様々なタイプがみられる。

インドのドラヴィダ人では多い順にH:32.9%、O:13.6%、L:11.6%、R1a:11.0%、J:10.5%となっている。

↓ 縄文人と弥生人

文化

紀元前53000年頃、アフリカ東岸からインド南西部に移住する。 さらに北、東へと広がって行く。


紀元前2600年頃、インダス川流域(現在のパキスタン)にインダス文明を形成する。複数の都市よりなる文明である。


紀元前1800年頃から、紀元前1500年頃にかけてインダス文明の都市は放棄される。気候の変化が理由だと言われる。


紀元前1500年頃から、イラン高原からアーリア人のインド北西部への移住が始まる。


北部支派:インド西部のオリッサ、ベンガル


中部支派:インド中部のマディヤ・プラデーシュ


南部支派:インド南部のデカン高原


紀元前1300年頃から、アーリア人は一部地域の一部のドラヴィダ人を支配し、階級制度のカースト制を作り出し、アーリア人は司祭階級のブラフミンと、王族・貴族のクシャトリア、一般市民のヴァイシャを独占し、ドラヴィタ系の民族は奴隷階級のシュードラに封じ込められたとされていた。しかし近年の研究ではアーリア人・ドラヴィダ人共に様々な階級に分かれていた事が発覚した。


紀元前1000年頃から、アーリア人のガンジス川流域への移住と共に、ドラヴィダ系民族との混血が始まる。アーリア人の認識は人種ではなく、言語や宗教によってなされるようになる。


現在ドラヴィダ系の人々はインド全域に居住しているが、古くからの文化を保持する民族は南インドを中心に居住している。


メソポタミアのシュメール文明との関連性も指摘されている。ドラヴィダ語とシュメール語に共通性が見られるといった議論がインドではなされており、ドラヴィダ人はメソポタミア地方から移住したとの説も存在している。

🟣アーリア人とは?

アーリア人

インド=ヨーロッパ語系諸族と同義に用いられることもあるが,正確には,インド=ヨーロッパ語系諸族の一派でインドとイランに定住した民族。

アーリアとはサンスクリット語の「高貴」の意からきている。

現在では,アーリアはインド=アーリア語派のように言語とその言語集団についてのみ使用される。

アーリア人の祖先は中央アジアで遊牧生活を営んでいたが,前 2000年頃からその一部が南下してアフガニスタンに入り,カブール渓谷を通ってインダス川上流地方に侵入,インダス文明をつくった先住民に代り,またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入った。

その一部は前 1000年頃東のガンジス川流域に侵入,先住民を征服してこれと混血し,のちのインド文明発展の主役となった。

中央アジアからイラン高原に侵入した一部はのちのペルシア文明を発展させた。形質的にはコーカソイドに属する。

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