源義経に寵愛された静御前と母 磯禅師の終焉の地(墓所)を訪ねて! Part1 (香川県さぬき市長尾寺、鼓ヶ渕、磯禅師の墓、静御前の墓)

🟣最近の運動不足解消もかねて、香川県郷土史研究のフィールドワークとして、香川県さぬき市長尾、香川県木田郡三木町にある磯禅師と、その娘で源義経に寵愛された静御前の終焉の地を訪れた。

この日は、11月というのに気温が20度以上あり、半袖でも充分過ごせる暑さだった。

🟣プロローグ 磯禅師と静御前

◼️磯禅師(いそのぜんじ)とは?

静御前の母 磯禅師は、現在の東かがわ市丹生(にぶ)の小磯(こいそ)で生まれた。

磯禅師は、この地の豪農だった長町庄左衛門の娘イソで、長町家一族は、村上源氏の末裔と言われる。

※村上源氏は、第62代 村上天皇(926年7月14日- 967年7月5日)の皇子を祖とする源氏氏族。

磯禅師の生家跡は、現在は、農耕地になっている。

その片隅に、「静御前の母 磯野禅尼 出生の地」の標柱が建っている。

昔は、畑の真ん中に化粧井戸があったとのこと。

長町家の裏には古い祠があり、磯野禅師の祠と伝えられている↓

釈王寺

長町家の菩提寺は、近くの大谷にある釈王寺で、この寺は、四国八十八ヶ所霊場番外札所で、725年行基によって開創され、803年弘法大師空海によって整備されたといわれる。

戦国時代に兵火に罹り焼失したが、1733年に再興されている。

以前は、磯禅師の供養塔(鎌倉時代の古い家型石塔)があったが、現在は東かがわ市の白鳥地区に移されたようである。

源義経が屋島の戦いで勝利できたのは、静御前の母 磯禅師の讃岐での地縁、血縁者の支援があったからだと推測される。

◼️イソ(磯禅師)は12才のとき、東かがわ市小磯浦から京都へ渡る!

●小磯漁港、釈王寺、袖掛神社(倭迹迹日百襲姫ゆかりの地)の位置関係

平安時代、小磯の辺りは貴族の荘園であったことが縁で、イソは12歳のときに京都へ渡り、舞の道に入った。

https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/44/44586/115322_1_三殿北遺跡.pdf

藤原道憲(ふじわらのみちのり)に従って舞楽の一種を極め、禅師の称号を授けられ磯禅師となった。

その舞いは、蝙蝠(かわほり)と呼ばれる扇子の一種を持ち、立烏帽子(たてえぼし)、白い水干(すいかん:当時の下級役人の普段着)に長袴で、太刀を腰に差した男装で舞うもので、白拍子(しらびょうし)の始まりといわれている。

◼️静御前(しずかごぜん)とは?

↑ 肉筆画で描写された白拍子姿の静御前(葛飾北斎筆、北斎館蔵、文政3年(1820年)頃)

平安時代末期から鎌倉時代初期の女性、白拍子。

母は白拍子の磯禅師。現代で言うと2世タレントか⁉︎

磯禅師の娘、静は母に似て美しく、幼少より舞を修めた。(静は、後白河法皇と磯禅師の間にできた子という説がある)

◼️静御前 年表

1168年 白拍子 磯禅師の娘として京都に生まれる。母から舞を学ぶ。

1181年 13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛される。

神泉苑(しんせんえん): 京都市中京区に存在する、平安京大内裏に接して造営された禁苑(天皇のための庭園)。古代から中世にかけては東寺が管掌する雨乞いの道場となり、江戸時代に東寺真言宗の寺院となった。

法住寺殿: 1161年(永暦2年)に建てられた後白河法皇の院御所。1183年、六条西洞院の長講堂に移った。

1184年3月20日 義経が一の谷の合戦に勝利。京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられる。このとき静は16歳だった。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破った。

1185年12月15日 (文治元年11月6日)都落ちした義経の一行が九州へ渡るべく大物浜(尼崎市)から乗船するが、暴風雨によって難破し一行は離散。義経に従っていたのは源有綱・堀景光・武蔵坊弁慶並びに妾の静のみであった。

11月17日 義経が大和国吉野山に隠れているとの噂があるので、吉野山の執行(修行)僧兵によって捜索するも見つからなかったところ、夜10時頃、義経の妾の静が藤尾坂を下り蔵王堂にたどり着く。その姿がいかにも怪しいので衆徒達はこれを見咎め、執行坊に連れてきて詳細を問う。静「私は九朗大夫判官の妾です。大物浜より豫州(義経)はこの山に来ました。5日間逗留しましたが、衆徒蜂起の噂を聞いて、伊豫守は山伏の姿を借りて逐電してしまいました。その時数多くの金銀類をわたくしに与え、雑色男たちを付けて京に送ろうとされました。しかし彼らは財宝を奪い取り、深い峯雪の中に捨て置いて行ってしまったので、このように迷って来たのです。」

11月18日 静の証言によって義経を探すため、吉野の大衆はまた雪を踏み分け山を捜索する。吉野執行は静を大変気の毒に思い、充分労ってから鎌倉へ差し出すことになった。

12月8日 吉野の執行が静を京都にいる北条時政の屋敷に送る。義経を捜すための軍が吉野山に差し向けられる。

12月15日 北条時政から鎌倉へ送られた手紙より静の証言。「豫州が都を出て西海へ赴いた明け方、一緒に連れ立って大物浜に到着しました。それから船が難破し海を渡ることができませんでした。その夜は天王寺で宿泊し、豫州はそこから逃げて姿を隠しました。迎えを寄越すので一両日の間ここで待つように約束し、ただし約束の日を過ぎたらすぐさま立ち去るように言われました。しばらく待っていると、馬を送ってきたのでこれに乗り、どこへ行くかわからないまま三日目に吉野山に着きました。そこで五日間逗留し、それを最後にお別れしました。その後の行方は知りません。私は深山の雪を凌ぎ、やっとのことで蔵王堂に着いたところ、吉野執行に捕らえられました。」

12月16日 静を鎌倉へ召し出すよう時政に返書が送られる。

文治二年1月29日 義経の行方未だに分からず。さらに問いただしたいことがあるので、静を差し出すように北条時政に伝えられる。

2月13日 鎌倉に京都の時政から静を送る旨の返事が届く。

1186年 文治2年 3月に母の磯禅師とともに鎌倉に送られる。

3月1日 静、母の磯禅師と共に鎌倉に到着。安達清常の屋敷に入る。

3月6日 すでに京都で時政に調べられたが、はなはだ信用できないとして再び問注所の役人に義経の行方を問われる。静「吉野の山中ではなく、その僧坊である。しかし山の大衆蜂起の事を聞いて、そこから(義経は)山伏の姿になり、大峰に入ると言って僧に送られて山に入りました。自分もまた跡を慕って一の鳥居の辺りまで行ったが、その僧に女人は大峰に入るべからずと叱られたので、やむなく都の方へ向かった。ところが同行していた雑色達が財宝を奪って逃げてしまい、蔵王堂に迷い着きました。」重ねて僧の名を尋ねるとそれは忘れたと言う。およそ京都での申し立てと今の言葉といささか違っているし、大峰に入ったと言っているが、多武峯に向かったあと隠れたとの噂があるので、それらにきっと虚偽があるだろうから重ねて取り調べるよう命じられる。

3月22日 静再び子細を尋ねられるも、義経の行方は知らないというだけであった。義経の子を妊娠しているので出産ののち帰すとの沙汰。

1186年 4月8日、静は頼朝に鶴岡八幡宮社前で白拍子の舞を命じられた。

1186年 閏7月29日、静は男子を産んだ。安達清常が赤子を受け取ろうとするが、静は泣き叫んで離さなかった。磯禅師が赤子を取り上げて清常に渡し、赤子は由比ヶ浜に沈められた。

1186年 9月16日、静と磯禅師は京に帰された。憐れんだ政子と大姫が多くの重宝を持たせたという。

1186年 京都の法勝寺で、義経と子を失った喪失感から苦悩の多い日々を過ごす。健康面もすぐれず。

1187年 母の故郷 讃岐の小磯(香川県東かがわ市丹生の小磯)へと向かう。大阪難波から淡路島の洲本まで船で渡り、更に東かがわ市の小磯浦へ船で渡った。

1189年 文治4年3月20日 香川県さぬき市の長尾寺(四国霊場第八十七番札所)に参拝したとき、9代住職の宥意和尚(ゆういおしょう)から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、剃髪して尼となった。

1190年 建久元年11月、母の磯禅尼が長尾寺からの参拝の帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなる

1192年 建久3年3月14日 24才 香川県木田郡三木町の静薬師庵で亡くなる

◼️静御前の生涯

白拍子 磯禅師の娘として京都に生まれる。

静は、13歳で宮中節会(せちえ)に奉仕することを許され、後白河法皇から神泉苑での雨乞いの舞を日本一と賞賛された。

義経は、一の谷の合戦に勝利して京都へ凱旋した頃、後白河法皇から静を与えられる。

このとき静は16歳だった。それからほぼ1年後、義経は少数の軍勢にもかかわらず、電撃作戦により屋島の戦いで平氏を打ち破った。

義経が未知の地で勝利を得ることができたのは、徳島県の大坂峠から東かがわ市の引田、白鳥、丹生を通り屋島へ向かう途中、静御前の母、磯禅師の出身地である丹生が、義経の情報収集拠点になっていたと推測される。

寿永4年(1185) 、下関「壇ノ浦」の戦いで源義経は平家を滅ぼした。

しかし、その後、義経は他の者の意見を聞かない独断的行動や御白河法皇との親交が、武家政治を進める 兄 源頼朝との対立を生むこととなり、平氏滅亡の立役者にも関わらず、頼朝に追われる身となってしまう。


義経は、愛妾の静御前を連れて吉野山に逃れようとするが、女人禁制の山のため同行することができず、静と別れざるを得なくなる。

このとき、義経は静に形見として、”初音”という名器の鼓を与えた。

この鼓は、重源僧上が唐から持ち帰って天皇に献上され、その後、後白河法皇より平清盛に下賜されて平家の家宝となっていたが、屋島合戦のとき壇ノ浦(屋島の壇の浦)の波間に漂っているところを伊勢の三郎が見つけて義経に献上したという鼓。

後に、尼僧となり源義経への想いを断ち切るために、この鼓を捨てた泉の渕には「鼓渕」の碑が立っている。(香川県さぬき市長尾町。琴平電鉄の長尾駅近く) ↓


奈良の吉野山で、義経一行と別れた静は京都へ戻る途中で捕らえられ、神奈川県の鎌倉へ護送されて義経の行く先を厳しく問い質されるが、頑として応じなかった。

静が、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮において奉納舞を懇請され、頼朝をはじめ多くの武将が居並ぶ中で、義経を想い慕う歌を唄いながら舞ったというエピソードはよく知られている。

=========


吉野山峰の白雪ふみわけて  

入りにし人の跡ぞ恋しき

しづやしづ賎のおだまきくり返し  

昔を今になすよしもがな
 

=========

このとき静は懐妊6が月の身で、その後、義経の男児を産むが、その日の内に命を断たれた。

静は、文治2年(1186年)9月中旬、神奈川県の鎌倉から京都へ帰ることを許され、子を失い傷心のうちに母と共に京都の法勝寺の一室に一時身を寄せた。

その後、翌年1187年の春から夏にかけての頃、母と共に母の故郷である讃岐の国へと向かった。

奈良県吉野で義経と別れる→捕えられ頼朝のいる神奈川県 鎌倉へ移され義経の居場所を詰問される→鎌倉市の由比ヶ浜(ゆいがはま)で子を失う→1186年、鎌倉から京都へ→京都の法勝寺で苦悩の多い日々を過ごす→1187年 母の故郷讃岐の小磯へと向かう。大阪難波から淡路島の洲本まで船で渡り、更に東かがわ市の小磯浦へ船で渡った。


讃岐へ帰ってからの静御前は母の生家、香川県東かがわ市小磯の長町家の屋敷でしばらく静養していたが、すでに母の両親は他界しており、母と共に寺社遍歴の旅に出た。

お遍路の旅に出た親子は、現在もある志度寺や八栗寺、屋島寺、六万寺など屋島合戦ゆかりの寺々などで、義経の戦いの跡を偲ぶとともに、そこで亡くなった将兵たちの菩提を弔った。


そして、文治4年(1189年)3月20日、長尾寺(四国霊場第八十七番札所)に参拝したとき、9代住職の宥意和尚(ゆういおしょう)から「いろはうた」などによって世の無常を諭さされ、母とともに得度を受け、剃髪して尼となった。

母は磯禅尼(いそのぜんに)、静は宥心尼(ゆうしんに)と名乗った。

この後、義経からもらった形見の鼓を煩悩の種と思い切って川へ捨てた(さねき市長尾に鼓ヶ渕が残る)。

四国88カ所霊場 87番札所の長尾寺の境内には、静御前が剃髪した際の髪が埋められている剃髪塚がある。本堂には静御前の位牌が安置されている。


それからの静は母の縁者がいたといわれる現在の香川県木田郡三木町井戸中代(なかだい)に行き、鍛冶池(かじいけ)という池の畔にささやかな草庵を結んだ。

その後、静と母は、京都から追ってきた静の侍女であった琴路(ことじ)と共にひたすら念仏三昧の月日を送った。

この草庵は、何度か建て替えられ静薬師庵として、香川県木田郡三木町の鍛治池のほとりに今も残る。

静御前、静御前の子、侍女の琴路の墓がある。

●香川県木田郡三木町井戸中代の鍛冶池のほとりある静薬師(薬師庵)。ここには義経形見の黄金の念持仏(薬師如来)を安置した。静薬師の位牌には戒名は「大願院壷山貞證大信女 位」、裏面は「源義経公妃静御前」と書かれている。

●静薬師には静御前、静御前の子、侍女の琴路の墓が池のほとりにひっそりと佇む↓

●願勝寺

静御前の菩提寺 願勝寺は、静薬師から約2Kmの場所にあり、源氏の武将 佐々木盛綱(後に出家し源光坊)が、静御前の菩提を弔うため創建したといわれる。この寺にも静御前の墓と位牌が残る。この寺には13世紀に鋳造した梵鐘があり、”静御前菩提寺”の名と”鶴岡八幡の舞い姿”が浮き彫りなっていた。しかしながら、第二次大戦中にこの鐘を国に提供し消失した。現在の鐘楼は1947年に鋳造されたもので”静御前の舞い姿”の浮き彫りがある。

願勝寺と長尾寺の位置関係

長尾寺と静薬師の位置関係


建久元年(1190年)11月、母の磯禅尼は長尾寺からの参拝の帰りに、井戸川のほとりで倒れ、69歳で亡くなった。この場所は、長尾駅から歩いて10分くらいの県道10号線沿いにある。

1年余りの後、建久3年(1192年) 3月14日、静も母の後を追い24歳でこの世を去った。

静が亡くなってから7日目の夜、侍女の琴路もまた後を追うように鍛冶池に入水して相果てたと伝わる。

●静御前終焉の地、静薬師の説明書き。この静薬師の隣に静御前、琴路の墓、そして静御前の子を弔った墓がひっそりと佇む。

東かがわ市に静御前の母、磯禅師の出生地がある! 源義経は屋島の戦いの際、東かがわ市で平氏側の情報を得ていたのでないか?

🟣高松市からコトデンで長尾寺、鼓ヶ渕、磯禅師の墓、静薬師、静御前の墓へ行くには?

高松市の琴平電鉄 瓦町駅 → 長尾駅

2020/11/17、午前10:33に、高松市の琴平電鉄、瓦町駅出発。

高松市の瓦町駅からさぬき市の長尾駅は、33分かかる。

今回の目的地は、長尾寺、鼓ヶ渕、磯禅師の墓、弁慶の馬の墓、静御前の墓、静薬師庵。

●瓦町駅内の讃岐弁のポスター

↑ 高松市 琴平電鉄の瓦町駅構内。讃岐弁のポスター

長尾駅

●長尾駅前の観光案内図

●長尾駅舎

長尾駅から鼓ヶ渕

非常に見つけにくい‼️ ので長尾駅から鼓渕までの写真を貼っておく。

↑ 上記の黄色で囲った場所に鼓ヶ渕がある。赤丸が長尾駅。

↑ 長尾駅からの徒歩ルート略図。Aが鼓ヶ渕、Bが磯禅師の墓

まず、長尾駅を南に下ると下記のたばこ店が見える。そこを右に曲がり、直進する。長尾街道(県道10号線)までは行かない。

↑長尾駅を南へ下ると、左手にある社。

たばこ店を右折し、2-3分、直進すると下記の四つ角がある。その四つ角を右に曲がると、すぐ右手に鼓ヶ渕がある。逃しやすいので注意! 新しい住宅地のそばに立っている。

↑ 前方に琴平電鉄の踏切が見える、

↑ 踏み切りに向かって歩いていくと右手に鼓ヶ渕がある。

↑以前の鼓ヶ渕。後ろの田んぼは現在、住宅となっている。

↑ 以前の鼓ヶ渕

🟣磯禅師の墓

↑ コトデン長尾駅を南へ下り長尾街道で西へ進む。黄色で囲った場所に磯禅師の墓がある。石碑の裏にあるのが墓。

長尾駅から磯禅師の墓 : 長尾駅を南へ向かい長尾街道で右に曲がり西へ8-10分くらい歩くと、左手に「かしむら」の看板が見えてくる、そこを通り過ぎると右手に磯禅師の墓が見えてくる。

交通量が多く、狭い県道なので写真を撮る際は注意が必要!

↑ 石碑の裏にあるのが墓

↑ 石碑の裏にあるのが、お墓

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です