【タブー】ヤマト王権に従わなかった古代豪族 土蜘蛛の正体とは? 鬼、蝦夷、毛人、熊襲、隼人、温羅、名草戸畔、出雲族! 葛城一言主神社の蜘蛛塚と高天彦神社近くにある蜘蛛窟とは?

◼️ヤマト朝廷が日本を統一していく過程でヤマト朝廷にまつろわぬ者たち、敵対する者達は当然、悪者とされた。

現地では普通に暮らす人々だが、ヤマト朝廷の支配に従わない者たちは次々と戦いの渦に飲み込まれていった。

ヤマト朝廷にまつろわぬ者たちは、土蜘蛛、鬼などと呼ばれた。

日本各地には悪者とされた罪のない者たちの伝承が多く残る。

🔸関東、東北の蝦夷(エミシ)、毛人


🔸南九州の熊襲(くまそ)、隼人(ハヤト)

🔸奈良県御所市 葛城一言主神社参道の蜘蛛塚 (境内にも蜘蛛塚がある。蜘蛛とは出雲族のこと。物部勢力とこの地で戦った出雲族の大彦(=長髄彦)は北陸を経て長野に移り住み布施氏となった。奈良県の葛城や桜井市など各地に出雲族が住んでいたがそのことは殆ど語られない。記紀とは異なる歴史がある。)

“スネが長い”から名づけられたナガスネヒコは蔑称! 大彦は孝元天皇の息子。

●戦死した出雲族を埋めた蜘蛛塚

●葛城一言主神社境内の蜘蛛塚

●布制神社(ふせじんじゃ) : 長野県長野市篠ノ井布施五明下六反に鎮座している神社。
祭神は大彦命であり、配神に豊受比売大神、健御名方命、矢坂斗女命である。

●高天彦神社(たかまひこじんじゃ): 奈良県御所市北窪にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社

●高天彦神社境内の蜘蛛塚

●蜘蛛窟

高天彦神社周辺には、土蜘蛛( =出雲族)を埋めたとされる「土蜘蛛塚」、土蜘蛛が住んでいた「蜘蛛窟」がある。

「蜘蛛塚の由来について」という案内には、「此の塚は長臑族(ながすねぞく)の栖『住家』にして、昔は南側に出入口ありとの伝承あり」とある。

長臑族と書かれているが、長髄彦はヤマトの大王の息子である大彦のこと、葛城に住んでいた出雲族が久米により一網打尽にされ殺された。大彦たちはこの物部の第二次東征に伴い、伊賀、北陸、長野へ移動した。

●等彌神社、十二柱神社

●ダンノダイラ

奥不動寺の東方約500m地点に広がる緩やかな山腹一帯をダンノダイラという。その東端に磐座がある。この場所は桜井市の出雲地区と呼ばれ出雲族が居住していた。

●ダンノダイラの磐座群

🔸岩手県 蝦夷の族長 アテルイ

🔸岡山県の温羅(鬼退治伝承)→桃太郎


🔸島根県 出雲王家の口伝

🔸和歌山県海南市 名草戸畔(ナグサトベ)」の口伝

◼️土蜘蛛とは?

1, 大和王権に恭順しなかった古代豪族の総称・蔑称。


2, 日本の妖怪。


3, 能の演目の一つ

🔸古代豪族としての土蜘蛛

勝てば官軍。歴史は勝者が書き換える。

記紀は藤原不比等により天皇家の万世一系を通す為、実際の歴史とは異なる部分が多い。

実際には、何度も王朝が交代している。

ヤマト政権の初代大王は徐福の孫にあたる出雲族の血を引くアメノムラクモ(=海部氏。籠神社の宮司家)

◼️出雲王家口伝にみるヤマト政権の歴代王朝

 1)海部王朝|初代大王(アメノムラクモ)、二代 沼川耳大王

 2)磯城 (しき) 王朝|3代〜9代。出雲族の太陽信仰。

 3)物部王朝|10代 崇神天皇〜14代 三韓征服。

 4)応神王朝|15代 応神天皇 住吉大社創建。

 5)仁徳王朝|16代 仁徳天皇〜25代 和の六王と巨大古墳。

 6)蘇我王朝|26代 継体天皇(オホド王) 〜 現在の天皇家に続くと言われる出雲系の蘇我王朝。

土蜘蛛に関する記述は、神話の時代から大和朝廷の拡大期までに見ることができる。

その多くは大和朝廷の勢力圏境界付近に住む豪族で、大和朝廷の支配を拒み、天皇や天皇の差し向けた軍によって討伐された。

水田耕作より狩猟を主にしたとも伝えられる。

岩窟に住み背が低く手足が長いという記述も多く見られるが、これらは蔑視からくる多少の誇張を含んでいる可能性がある。

土蜘蛛の名が見られる最も古い文献は『古事記』で、神武天皇東征のおり、忍坂(現・奈良県桜井市忍阪)にて穴倉に住む尾の生えた種族「土雲」を討ったとの記述がある。

『古事記』と同時期に成立したとされる『日本書紀』には土蜘蛛に関する記述が散見される。

「神武紀」には新城戸畔(にいきとべ)、居勢祝(こせのはふり)、猪祝(いのはふり)という三者が登場し、それぞれ大和国の各所を本拠地としていたが、神武天皇に従わなかったために退治された。

同じく大和の高尾張邑という場所にも土蜘蛛がいたとされ、次のように書かれている。

其の人となり、身短くして手足長し。侏儒と相類へり。皇軍、葛の網を結ひて掩襲ひ殺す。因りて号を改め其の邑を葛城(かづらき)と曰ふ。


その姿は背が低く手足が長い。侏儒(=ひきひと、背が普通より低い人達)によく似ている。天皇の軍は彼らを蔓草の網で襲って殺した。これにちなんで、この村の名を葛城(かづらき)と改めた。


このほか、「景行紀」では景行天皇が九州巡幸の際に討った九州各地の土蜘蛛の記述が見られる。彼らは力が強く大勢の部下を持ち、やはり天皇への朝貢を拒んだため退治された。

各地の風土記にも土蜘蛛について沢山の記述が見られ、特に『肥前国風土記』『豊後国風土記』には様々な土蜘蛛が登場する。

その多くは天皇の派遣した軍隊によって滅ぼされているが、中には佐嘉郡(現・佐賀県佐賀市)の大山田女(おおやまだめ)・狭山田女(さやまだめ)のように、その土地の荒ぶる神を鎮める方法を進言し、賛辞を送られている珍しい例もある。

『肥前国風土記』にはこの二人の賢さを称えて「賢し女(さかしめ)をもって国の名にする」ともあり、これが転じて「佐嘉郡(さかのこおり)」となり、「佐賀」という地名の元となったとされる。

また彼女らをはじめ、賀周の里(現・佐賀県唐津市見借)の海松橿媛(みるかしひめ)、嬢子山(現・佐賀県多久市)の八十女人(やそおみな)、浮穴の郷の浮穴沫媛(うきあなあわひめ)、速来の村(現・長崎県佐世保市早岐)の速来津姫(はやきつひめ)など、『肥前国風土記』には女性を首長とする土蜘蛛が多く見られるのも特徴である。

『常陸国風土記』には、「国樔(くず)」あるいは土地の言葉で「土蜘蛛」「八握脛(やつかはぎ、脚の長い者の意)」と呼ばれる種族のことが書かれている。

かれらは「山の佐伯」「野の佐伯」(佐伯とは朝命を遮る者の意)といい、人里から離れた場所に岩窟を掘ってそこに住み、人が来れば岩窟に入って隠れるという、狼のような性質と梟のような情をもった集団だったという。

彼らを倒すために出征してきた黒坂命は茨で砦をつくってこれを攻略し、これによりこの地を「茨城」と呼ぶようになったとされている。

このほか、陸奥国・越後国・摂津国・肥後国・日向国の各風土記逸文、および『丹後国風土記残欠』にも土蜘蛛の名が登場し、大和の王権に逆らう辺境民の総称・蔑称として使われていたことが伺える。

●妖怪としての土蜘蛛

時代が下ると、「土蜘蛛」は巨大な蜘蛛の妖怪の名として登場するようになる。

江戸時代中期の百科事典『和漢三才図会』巻五十二の「螲蟷(つちぐも)」の項には、蜘蛛に似て土中に巣を作り、網を張って下から蠅などを捕らえるとある。

妖怪としての土蜘蛛においてよく知られるのは源頼光による土蜘蛛退治譚だが、これには大きく二つのパターンが存在する。この話が見える最古の文献が『屋代本平家物語』の「劔巻」で、そこでは次のような話になっている。

あるとき頼光は熱病に冒され、一ヶ月以上床に伏せっていた。その頼光の元に突然身の丈7尺もある法師が現れ、頼光を縄でふんじばろうとした。頼光がすかさず枕元にあった名刀・膝丸で切りつけると、法師は逃げ去っていった。

翌日、頼光が四天王を率いて法師の残した血痕を辿っていくと、北野天満宮の裏手にある大きな塚に行きあたった。

そこを掘り返してみると全長4尺の「山蜘蛛」が現れたので頼光らはこれを退治し、鉄串に刺して河原に晒した。

土蜘蛛が原因であったらしい頼光の熱病も回復し、このときから膝丸は「蜘蛛切」とよばれるようになった。


もうひとつのパターンは、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけて成立したとされる絵巻物『土蜘蛛草紙』(原本・東京国立博物館蔵)に見られる話である。この絵巻では、鬼の顔に虎の胴体、蜘蛛の脚を持った巨大な化物が描かれている。

源頼光と頼光四天王のひとり渡辺綱が都の北山にある蓮台野に出かけたとき、空飛ぶ髑髏を見つけた。

怪しく思ってそれを追いかけていくと、神楽岡(現在の吉田山/京都市左京区)にある廃屋にたどり着いた。

綱を外に待たせて頼光が家に入ると、荒れ果てた家の中には290歳にもなるという老婆がいた。

老婆は、ここには鬼の塚があって人跡もすっかり絶えてしまった、最早どうしようもないので殺してくれと頼光に頼むが、頼光はそれを無視して家の探索を続ける。

日が暮れるにつれて風や雷雨が激しくなり、あたりを異形の者がうろつきはじめる。

そこへ現れたのは身長3尺、うち2尺が頭という異形の尼。頼光が睨みつけるとにこにこと笑っていたが、やがて雪や霞のごとく消え去った。

やがて明け方になると、今度は美しい女が現れた。訪問を喜んで出てきた家主だろうかと頼光が思っていると、女は頼光めがけて鞠のような白雲を10個ほど投げつけ、頼光はたちまち目が見えなくなった。

すぐに太刀で斬りつけたところ女はいなくなり、代わりに綱が駆けつけてきた。太刀は板敷きを貫いて折れており、白い血がついていた。

化物の残した白い血痕を追って、頼光が綱とともに化物の行方を探していると、老婆の住まいに戻ってきた。

しかし老婆の姿はなく、代わりに白い血が流れているだけだった。「老婆は既に化物に喰われてしまったのだろう」と思いつつ更に探していくと、西山の洞窟の中に、白い血が細い谷川のごとく流れていた。

頼光と綱は、用心のために、藤や葛で作った人形に烏帽子と衣を着せて、前に立てて進むことにした。

洞窟の奥には寂れた一軒の建物があり、錦をかぶったような巨大な化物がいた。化物が「体が重くて苦しい」と叫ぶと、途端に折れた太刀の先が飛んできて人形に刺さった。

化物が何も言わなくなったので、頼光と綱は力を合わせて化物を引きずり出す。化物もはじめは抵抗の素振りを見せたが、やがて観念して仰向けに倒れたので、頼光は剣を抜き首を刎ねた。

化物の正体は巨大な山蜘蛛で、女に化けていたときに斬られた腹の傷から、1990もの生首が転がり出た。

更に脇腹を切り裂いてみると、7~8歳ほどの人間の子供くらいの大きさの小蜘蛛が数えきれぬほど沸いて出た。

頼光と綱は首を穴に埋め、化物の棲み処に火をつけて焼き払った。この功は帝の耳に入り、頼光と綱は恩賞を受けた。

これら源頼光による退治譚は古くから広く知られるところであったらしく、江戸時代の浮世絵師・鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』では「源頼光土蜘蛛を退治したまひし事 児女のしる処也」と紹介されている。

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