◼️森家の始祖
森家の始祖は、徳島県阿南市の椿泊にある佐田神社で祀られる阿波水軍 森家の開祖 佐田九郎左衛門となる。
佐田九郎左衞門は因幡出身で当時は、鎌田姓だった。元々は藤原姓から鎌田姓となり、その後、佐田姓、森姓と改姓した。
佐田九郎左衛門の先祖を遡ると藤原鎌足の直系7世の藤原秀郷(俵藤太)となる。
佐田九郎左衞門のひ孫である森久村の一族が私の先祖で、阿波水軍 森家の分家となる。私の先祖は現在の東かがわ市相生(あいおい)の馬宿に居を構えていた。そこから東かがわ市の横内、丹生へと移った。東かがわ市の番屋(小浦海水浴場)に高松藩松平家の主君が涼みに来る度に、一行のお膳立てをする必要があり金銭的に大変だったと言う話しを子供の頃、よく聞いた。先祖が元は馬宿に住み、森久村(森権平)の一族だと言うことは祖母から聞いた。
私の先祖の森家は代々、高松藩松平家に仕える普請方で金刀比羅宮の階段造営などに参画した。
元々、現在の東かがわ市相生の馬宿に住んでいた。この東かがわ市相生は讃岐のエジソンと呼ばれる久米通賢や東大元総長の南原繁さん、歌手の笠置シヅ子さんの出身地でもある。
◼️阿波水軍 森家の家紋 木瓜紋(左)、高松藩 森家の家紋 丸に木瓜紋(右)。
◼️【高祖母】
私の高祖母(八田キヨ)の八田家は阿波秦氏、代々、庄屋で県境にあった碁浦番所の役人を務めた。この碁浦番所の貴重な記録である八田家文書が残る。
◼️碁浦御番所
◼️史跡 碁浦御番所跡
◼️【曽祖母】
私の曽祖母は東かがわ市黒羽の旧家 永峰家の出身で、黒羽城城主 永塩因幡守氏継の子孫となる。永峰因幡守氏継公は、1467年、応仁の乱に細川方として参戦し、京都御所の北側にある相国寺で安富元綱らと共に討ち死にした。氏継公は自分の最期を覚悟し、応仁の乱に参戦する前に武運祈願として1467年に妙見宮を創建した。今も黒羽神社として残る。
当主を失った永塩家一族は、亡くなった者たちを弔い、忌まわしい記憶を消し去る為に武士から帰農し、姓を永峰と変えて長く身を潜めた。平安時代から戦国の時代には大切な人を失った一族の者たちは無常感を持ち、亡くなった人の菩提を弔う為、出家する者も多くいた。静御前や母の磯禅師、赤沢信濃守の子など。永塩一族からも出家し、妙空と名乗り、各地を修行して歩いた僧がいたのかもしれない。そしてその子孫が江戸時代となり、かつて先祖の氏継公が住んだ黒羽の地に戻って来たのだろう。
◼️相国寺
◼️赤沢信濃守
◼️東かがわ市の黒羽(くれは)神社。この辺りは中国の三国時代に戦乱を避け呉(ご)の国から来た渡来人が機織りの技術を伝えた。黒羽の地名は呉と羽二重に由来する。
◼️【曽祖父の妹】
私の曽祖父の妹(森トヨ)は東かがわ市黒羽で讃岐和三盆の製造をしていた三谷家(瀬戸内寂聴さんの父方の家系)に嫁いだ。瀬戸内寂聴さんの祖父は三谷峯八、父は三谷豊吉と言い、豊吉は三谷家から瀬戸内家の養子となった。笠置シヅ子さんは、東かがわ市黒羽の三谷家の当主の家に生まれ、実家は同じく讃岐和三盆の製造をする豪農だった。
◼️【大伯母】
【神戸新聞】明治生まれの大伯母のインタビュー記事
私の祖父の姉 (私の大伯母)。明治生まれの祖父の姉は神戸市京町の旧神戸オリエンタルホテルで英語を使い電話交換手のリーダーとして勤務した。二・二六事件やGHQ支配下での電話交換、昭和天皇宿泊時の勤務を経験。1945年の神戸大空襲で自宅は焼失するも生き残った。
・上記の大叔母の祖父(私の高祖父)が森喜平、阿波浄瑠璃が上手かった祖母が板野郡の碁浦番所から森家に嫁いできた八田キヨ。
◼️森家の戸籍謄本: 八田孫平の長女で阿波浄瑠璃が上手かった八田キヨと曽祖父の妹で黒羽の三谷磯八に嫁いだ森トヨ。
◼️私の高祖母 八田キヨの父 八田孫平に関する記録
◼️高祖母の八田家が役人を務めた碁浦番所の記録、八田文書。徳島県立図書館や鳴門市図書館などで閲覧できる。
江戸時代、この碁浦番所には、伊能忠敬や松浦武四郎も訪れている。伊能忠敬は東かがわ市の引田港から出発し、鳴門市の碁浦港に到着した。その時、案内役を務めたのが高松藩随一の発明家で測量方だった久米通賢。久米通賢は東かがわ市相生の馬宿出身で今も墓地が残る。生家は高松市の四国村に移築され保存されている。私の先祖も高松藩松平家に普請方として仕え、元々は、馬宿に住んでいた。
◼️鳴門市立図書館
◼️【森家のファミリーヒストリー】森家の始祖 佐田九郎左衛門と森久村! 黒羽城 永塩因幡守氏継と碁浦番所 八田家(阿波秦氏)! 讃岐和三盆と笠置シヅ子と瀬戸内寂聴!
◼️プロフィール