◼️赤沢信濃守宗伝(あかざわ・しなののかみ・そうでん)とは?
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
三好氏の家臣。
阿波国板野郡にあった板西城主(ばんざいじょうしゅ)
◼️時代: 戦国時代 – 安土桃山時代
生誕: 不明
死没: 天正10年(1582年)9月
別名: 入道信濃守(通称)、崇伝
墓所: 徳島県板野郡板野町の愛染院
官位: 信濃守
主君: 三好実休、長治
氏族: 赤沢氏
妻: 三好実休娘
子: 鹿之丞
◼️赤沢氏
赤沢氏は小笠原氏の庶家であり信濃国を本拠としていたが、延徳3年(1491年)に一族の赤沢朝経が室町幕府の管領・細川政元に外様の内衆として仕え、その子・長経も阿波細川家の細川澄元に仕えた。
赤沢宗伝は長経の子孫、又はその名跡を継いだと思われるが判然としない。
また、弘治元年(1555年)には、赤沢本家の赤沢経智、経智の子・長勝、貞経も甲斐武田氏に信濃を追われ、信濃守護の小笠原長時と共に小笠原庶家の三好長慶を頼り上洛している。
◼️生涯
宗伝は阿波守護代三好氏当主である三好長慶の弟・三好実休に仕え、実休の姪を室と迎えており、嫡子・鹿之丞、一族の「板西城三人衆」・赤沢出羽守、坂上備前守、安芸飛騍守、及び、阿部采女正(下庄)、坂東紀伊守(椎本庄)、大寺松太輔(大寺庄)、赤沢美濃守(上庄)、新開右近(西分庄)、犬伏左近(犬伏庄)、七条孫四郎(七条庄)、高輪幸内(高輪庄)を「赤沢家十二人衆」として近隣に配した。
永禄5年(1562年)3月、久米田の戦いにおいて実休が戦死すると、上桜城主の篠原長房、木津城主の篠原自遁と共に出家し、その後、実休の子・三好長治を重臣として補佐した。
元亀4年(1573年)5月、篠原長房が主君・三好長治、十河存保(長治の実弟)、阿波守護・細川真之(長治の異父兄)により上桜城を攻められ、7月に戦死した(上桜城の戦い)。
この時、長房と親交が厚かった宗伝の板西城も攻められている。
その後、宗伝は「紫雲(篠原長房)の討伐は以っての外だ。
忠節な武士を討つ事によって三好の天下も終末が近い。」と嘆き、板西城を捨て3年間高野山へ引篭ったと伝わる。
天正4年(1576年)、三好長治も細川真之と争い戦死し、十河存保が三好長治の跡を継いだ。
天正10年(1582年)9月、宗伝は、長宗我部元親が三好存保(十河存保)の勝瑞城を攻めた中富川の戦いにおいて、一族郎党を率い三好方として奮戦したが、討ち死にした。
四国八十八箇所霊場、第三番札所、金泉寺奥の院の愛染院に廟が祀られている。
◼️中富川の戦いとは?
●中富川の戦い(なかとみがわのたたかい): 天正10年(1582年)、阿波国へ攻略を目指す土佐国の長宗我部元親と、これを阻もうとする勝瑞城を本陣とする十河存保以下の三好氏諸将との間で起きた戦い。攻防戦は約20日間行われた。
●長宗我部元親の四国平定戦
●年月日:天正10年(1582年)8月28日-同年9月21日
●場所:中富川河畔、勝瑞城周辺(現藍住町)
●結果:長宗我部氏の勝利
◼️板西城跡 (徳島県板野郡板野町古城城ノ内)
◼️赤沢信濃守宗伝の墓所 愛染院(あいぜんいん)
愛染院は、徳島県板野郡板野町に所在する高野山真言宗の寺院。
山号は金鶏山。本尊は不動明王。
別名那東のお不動さん。
四国八十八箇所霊場第三番札所金泉寺奥の院。
伝承によれば平安時代前期の弘仁7年(816年)四国を巡錫中の弘法大師(空海)がこの地に霊気を感じた。
そこでみずから不動明王を刻み、ここに本尊として安置したのが始まりと言われている。
以前は「阿弥陀寺(あみだんじ)」と呼ばれていたが、大正10年に四国二十一番札所太龍寺の境内にあった「愛染院」と合併し、現在の寺名となった。
愛染院には戦国時代この地を治めていた板西城主の赤澤信濃守崇伝の廟が祀られている。
赤澤信濃守は天正10年(1582年)長宗我部元親の進攻にあい、中富川の戦いにおいて草鞋の紐が切れ、討ち死にしたと伝えられている。
いつのころからか、この廟に参詣すると腰から下の病が治癒するとの信仰を集めるようになった。
治癒した信者は当院に草鞋を奉納する習わしがある。またこの赤澤信濃守廟と仁王門の前にはそれぞれ大わらじが奉納されている。
◼️大内町史
●大内町史の記述
寺伝によると、天正10年(1582年)中富川の合戦において討死した坂西城主 赤沢信濃守の一子 正本法師が入野郷小砂村に小砂坊を開基し、貞享元年(1684年)三本松村に移り、海暁山 勝覚寺となったとされ、以来、阿波国美馬郡の安楽寺末、高松安養寺の末寺であったが、宝暦7年、興正寺直末となった。
第20代住職 赤沢融海は、幕末から明治期の名僧として、詩画歌俳にも秀でていた。
また、好妙人 谷口庄松(正真同行)は当時の門徒であった。
◼️赤沢信濃守宗伝 没後
●天正10年(1582年)2月、赤沢信濃守宗伝は、長曾我部元親軍と徳島県の中富川で戦い、討死し、一門は各地に離散した。
赤沢信濃守の一子である正本は現在の香川県東かがわ市の小砂村(こざれむら)に逃れた。後に、大坂天満 興正寺で得度し小砂村に戻り、小砂坊と称して堂宇を創立した。
真享元年(1684年)、当時、小砂村の小砂坊 九代 願故法師は同坊を三本松村に移し堂宇を建立し海暁山 勝覚寺と号した。
◼️大阪 興正寺別院とは?
大阪興正寺別院は、もともと天満興正寺別院として大坂天満(現在の大阪市北区天満4丁目7 滝川公園)にあった。
天満興正寺別院跡地にある石碑文には、文永元年(1264)に興正寺第3世源海上人が天満の地に房舎を建立したと伝えている。
天正13年(1585)、興正寺第17世顕尊上人は本願寺とともに和泉貝塚から天満の地へ移り住む。
興正寺の本堂は天正14年(1586)8月19日に棟上げされた。
天正19年(1591)、興正寺は豊臣秀吉の命により京都堀川七条の地に本願寺とともに寺基を移転することになったが、天満御坊は大阪における真宗布教の法城となっていった。
●天満興正寺別院跡碑
◼️海暁閣 勝覚寺
阿波の国 三好氏落城のとき、その家臣であった板西城主・赤沢信濃守宗伝は討ち死にし、その長子・正本法師は菩提を弔うため、大坂天満 興正寺で証秀上人について得度し、天正十年(1582)、丹生村 小砂に一宇を建立したのが勝覚寺の始めとされている。
古い安楽寺末寺帖にも小砂勝覚寺とあり、追記事にも三本松勝覚寺とあり、貞亨元年(1684年)に第九世・願故法師は、小砂坊を三本松に移し、堂宇を建立し、港町三本松の発展とともにその勢力をひろめ、今日に至っている。
開基以来四百年の法灯を継承している。
なお、本堂全面の扁額「海暁閣」を二十世融海上人が本願寺より頂戴したことにより、現在は「海暁閣」を使っている。
●東かがわ市の小砂 (こざれ)
●東かがわ市の小砂には勝覚寺門徒であった庄松同行のお墓と説教所の正真堂がある。
●国道11号線沿いから南へ入る
●庄松同行の墓
◼️妙好人 庄松 (しょうま)とは?
寛政11年(1799)~明治4年(1871)
大内郡土居村 (東かがわ市土居)生まれ。
本名・谷口庄松といい、農業の傍ら寺男として勝覚寺に出入りし、他力本願を習得した。
役僧周天の影響を受け、晩年 赤澤融海に仕えた。
鈴木大拙博士は「庄松は一般にいう
知性的な分別観からは理解できない人物だ。彼の言行からすると、小児的な心理。原始民族の心理しか持ち合わせていなかったように見えるが、それは間違いで、彼こそ無性的直覚の境地に入っていた真の妙好人といえる」と『仏教の大意』で述べ、昭和21年、天皇皇后両陛下に庄松のことをご進講の中でふれられている。
興正寺中興の祖、本寂上人にも認められ法名正真を授けられた。
一生涯独身で過ごした。
小砂に墓所があり、勝覚寺に銅像が建っている。
●鈴木大拙 (すずきだいせつ) : 仏教学者、文学博士。文化勲章、日本学士院会員。1963年、ノーベル賞候補。
◼️勝覚寺ホームページ
●三つ紅葉の紋は、勝覚寺 第二十世 赤澤融海法師(庄松同行在世当時住職、本山興正寺執事)が、多年にわたる本山に対する功績に対し、旧五摂家 鷹司家より下賜されたものである。
●赤沢融海法師、庄松同行
●三条実美公 (右大臣、太政大臣、内大臣、貴族院議員、内閣総理大臣)
●鷹司治子 (公爵 三条実美と結婚)
●華園家乗
https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000039-I001943085-00/
●勝覚寺内にある庄松同行の像
●海暁閣 (かいぎょうかく)
本願寺 第二十代御門主、広如宗主より、山号、海暁閣を賜り、四国唯一の閣寺院として、今日に至る。
●広如(こうにょ)宗主
1798年7月14日(グレゴリオ暦換算) – 1871年10月3日(グレゴリオ暦)
幕末の浄土真宗の僧。
浄土真宗本願寺派第20世宗主。
西本願寺住職。
諱は光沢。
院号は信法院。
法印大僧正。
養父は第19世本如。
実父は第18世文如の三男文淳。
母は顕証寺闡教(文如の弟)の娘。
室は九条尚忠の養女・祥子(鷹司政煕息女、光輝院如順)。
第21世明如(大谷光尊)は五男。
●境内 : 裸の大将の撮影場所にもなった。
◼️伝承 昔ばなし
🔸赤沢信濃守のわらじ
とんと昔あったと。 板野町板西城主(ばんざいじょうしゅ)に赤沢信濃守(あかざわしなののかみ)ちゅう武将がおった。
土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が勝瑞城(しょうずいじょう)へ攻め寄せてきたとき、城の近くの中富川(なかとみがわ)で大合戦(かっせん)となった。
阿波で一番おっきょい戦(いくさ)ちゅうことで、阿波の殿(との)さん三好氏(みよしし)も滅ぼされてしもうた。
三好氏の家来だった信濃守(しなののかみ)も中富川で戦(たたこ)うたが、うち死にしてしもうた。
信濃守は敵のえらい侍(さむらい)の一人を組み伏せ、ヨロイ通(どおし)で体を刺そうとしたが、履いとったわらじのひもが切れてしもうた。
ほのひょうしに敵将が起き上がり逆に刺し殺されてしもうたんじゃと。
こんなことがあって、信濃守をまつってある板野町松坂(まつさか)の阿弥陀寺(あみだじ、現愛染院)のホコラはんにわらじがいっぱいかけられとるんじゃ。
ほれに、奥方(おくがた)も神経痛で足が弱っとってはよう逃げることがでけなんだ。ほれから、腰から下(しも)と足の病(やまい)によう効くちゅうてお参りに来る人がおるんじゃ。
わらじは病が治った願ほどきのしるしじゃそうな。おーしまい。
◼️明治時代に勝覚寺内にあった三本松尋常小学校の卒業生
●保井コノさん。日本初の女性博士号。男女差別といじめに対抗しながら1927年、東京大学から理学博士号を授与された。学問に一生を捧げ独身を貫いた。
●志度藤雄さん。吉田茂首相の料理番を務めた。日本のフランス料理の草分け。勝覚寺内にあった三本松尋常高等小学校卒業。日本での料理修行に飽きたらずロンドンへ密航、不法入国で逮捕、強制送還されるも脱走してパリで料理を学んだ探究心の塊。
◼️プロフィール