◼️佐田 九郎左衛門(さた くろうざえもん)とは?
戦国時代の武将。
阿波水軍・森家開祖。
土佐泊城主・森元村の父として知られる。
🔸佐田九郎左衛門
時代: 戦国時代
生誕: 不明
死没: 不明
別名: 九郎兵衛
主君: 細川氏→三好氏
氏族: 佐田氏
子: 森元村 (生年不明〜文禄3年6月5日(1594年7月22日)
先祖: 藤原鎌足の直系7世の藤原秀郷(俵藤太)
藤原秀郷の墓地は群馬、栃木、鳥取にある。
◼️鳥取県東伯郡三朝町俵原にある藤原秀郷(俵藤太)の墓
🔸森家の出自と家系
『木瓜の香り』より
🔸大中臣氏の系図
天児屋命(アメノコヤネ)から藤原鎌足まで
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大中臣氏
◼️藤原氏は元々、中臣氏と言い、アメノコヤネを開祖とする。アメノコヤネはニニギ(=饒速日命)と共に渡来して来た。
アメノコヤネ / 神八井耳命→中臣氏→藤原鎌足→藤原秀郷→佐田九郎左衛門→森久村(森権平)→高松藩森家
🔸佐田九郎左衛門の略歴
因幡国(鳥取県)出身、当時は鎌田九郎兵衛といった。
佐田九郎左衛門の先祖は藤原秀郷、藤原姓から鎌田姓→佐田姓→森姓へと変遷した。
細川氏に仕え、阿波佐田館(現在の徳島市国府町黒田)三十八貫を領した。
後に細川家に仕えたが、退いた後は佐田に改名した。
その後、松永久秀に仕えたが、久秀に謀反の思惑があることを知り諫言したが、意見が対立し沖野原(鳴門市大津町段関)に戻った。
◼️阿波水軍とは?
◼️『 木瓜の香り 』
森甚一郎 (1909-1982) 著
昭和60年 森先生遺稿集刊行会刊
徳島県立図書館、徳島市立図書館に蔵書あり
[目次]
- 目次
- 序にかえて
- 第一章 木瓜の旗印
- 森家の出自と家系 / 3
- 高麗の陣における森水軍の活躍 ふるさと阿波34 / 7
- 感状に輝く森家一門の武功 -蜂須賀家三代創業文武有功士略伝- ふるさと阿波33 / 12
- 第二章 海上の統領
- 文久二年・阿波御水主分限帳 ふるさと阿波97~101 / 21
- 森家秘書 阿波御水師船用集 ふるさと阿波41~48 / 36
- 阿波の御船歌 -牟岐町の伝承と森家所蔵写本との比較- ふるさと阿波73・90 / 47
- 判形者考 ふるさと阿波29 / 51
- 第三章 主従の絆
- 蜂須賀小六正勝公の墓所改葬と興源寺墓所 ふるさと阿波69・76 / 57
- 薄倖の人・正徳院お寓の方 -水野十郎左衛門の母- ふるさと阿波104 / 63
- 蜂須賀家親族会規則 ふるさと阿波109 / 66
- 家禄不足額請願の件について ふるさと阿波110 / 70
- 第四章 研究余滴
- 権平塚の由来 ふるさと阿波36 / 75
- 近世聞書抄 ふるさと阿波35~38 / 82
- 堀田上野介正信と慈光寺 ふるさと阿波107 / 88
- 三名士(さんみょうし)と鷂(はいたか)ふるさと阿波93 / 91
- 夕霧の墓について ふるさと阿波69 / 93
- 諸国風俗問状宍喰村答書 ふるさと阿波78 / 97
- 明治二十一年徳島尋常師範学校修学日誌 -祖父の日記から- ふるさと阿波105 / 106
- 第五章 追憶
- 父の想い出 森章夫 / 111
- お父さん 板東寿子 / 112
- おじいさんの思い出 森村史 / 112
- 亡き兄を偲ぶ 朝日奈晴世 / 113
- 亡き兄上へ 沢田亀代子 / 114
- 森甚一郎氏をしのんで 蜂須賀俊雄 / 115
- 森甚一郎君の思い出 永田繁義 / 116
- 森先生を偲ぶ 中西清 / 122
- 四十数年前の想い出 北公 / 123
- 工業高校野球部時代の森先生の思い出 巽真賢 / 124
- 森甚一郎先生をしのんで -座談会記録- ふるさと阿波116 / 126
- 森家所蔵史料 / 131
- 略年譜 / 134
- あとがき / 136
◼️佐田九郎左衛門の出自
佐田九郎左衞門の先祖は藤原鎌足の直系7世の藤原秀郷、姓は藤原姓から鎌田姓→佐田姓→森姓と変遷した。
●『 木瓜の香り 』 より
森家ハ往昔八藤原姓。藤原鎌足の直系7世の子孫 俵(田原)藤太(=藤原秀郷)ノ系統ヨリ出ヅ、ノチ鎌田氏ヲ名乗り、数代武門トシテ武功ヲ顕ストイヘドモ、累世伝来ハ 不詳。
→佐田九郎左衞門は、元は鎌田姓であり、鎌田家の先祖は藤原秀郷(俵藤太)。
家紋八中古ヨリ木瓜(モッコウ)ヲ用ユ
家祖の鎌田(のち佐田) 九郎兵衛については、因幡国二住居シ、鎌田九郎左衛門ト称ス。軍術 武功ノ覚エ有り。
阿波国屋形 細川家ノ老臣 森飛騨守(切幡城主) 久米安芸守(芝原城 主)両人ノ取次ニテ阿州二来ル。
→森飛騨守と久米安芸守の取次により阿波に来た。
細川家二属シ、鎌田筑後守ト称シ、阿州名東郡西黒田村二住ス
→細川家に属し、名を鎌田筑後守とし、徳島市国府町黒田に住んだ。
徳島県徳島市国府町西黒田には小祠があり、地元では、「島殿さん」と呼ばれ崇敬されている。この地が鎌田九郎左衛門の居館跡か。
鎌田九郎左衛門は鎌田筑後守を名乗り名東郡西黒田村(徳島市国府町) にして、三十八貫を領し決断役を勤めた。
住吉(板野郡)の神主と在所の百姓が裁判で争ったとき、鎌田筑後守は 百姓に勝訴を与えた。
ところが神社が裁決を不服とし室町幕府へ上訴、判決は逆転して 百姓の敗訴となった。
鎌田筑後守は私曲があったとして所領を没収せられた。
このあと筑後守は佐田九郎兵衛と改称して板野郡沖ノ原(鳴門市大津町段関)へ移って蟄居した。
沖ノ原は「このあたりまで海が入りこみ、 勝瑞城と土佐伯城を 結ぶ軍事上の要害の地」であった。
佐田九郎兵衛は失脚後、段関で浪人をしていたが、水軍の実績を買われ 松永久秀につかえた。
しかし、不和となり、その後段関へ帰り、のち病死した。
佐田九郎兵衛には森元村・吉村二子があった。
佐田九郎兵衛は阿波入国に際し世話になった森飛騨守の氏称を請い受け森氏へ改称し、長男元村に森志摩守を名乗らせた。
二男吉村は善左衛門と称し、長左衛門家で船手頭を努めた。
森氏は、阿波に来てから短期間に鎌田姓・佐田姓・森姓と姓を変えている。
なぜ因幡からやって来て細川家に仕えたのか? → 1510年代から因幡守護山名氏の内紛や出雲尼子氏の伯耆因幡へ の勢力伸張の争いが生じた。大永4(1524)年に尼子経久が大軍を率いて伯耆へ攻め込んだ 「大永の五月崩れ」が遠因となったのかもしれない。
天文8年(1539年)に三好実休と供に細川持隆に従い伊予の河野氏と戦った際には、水軍を率いて戦功をたてている。
佐田九郎左衞門の息子の元村が撫養城主小笠原将監の娘を娶り、孫の村春が1542年に 生まれたことから佐田九郎左衞門が細川氏に仕え始めたのは1520年ごろか?
◼️佐田九郎左衞門の先祖 藤原秀郷とは?
https://www.bando-bushi.com/post/fujiwara_hidesato
◼️森 甚五兵衛(もり じんごべえ)とは?
戦国時代・江戸時代に蜂須賀家で阿波水軍を率いた森家が代々襲名した名称。
🔸歴史
蜂須賀氏が徳島藩の大名として入国する前から、阿波国(徳島)にあり、豊臣秀吉の朝鮮出兵にも参加した。
また代々、蜂須賀氏の中老として参勤交代における瀬戸内海の海上移動などで重責を果たした。
細川氏・三好氏の時代から阿波の土佐泊(鳴門市)を拠点に水軍として活躍した森氏は近世においても水軍区を家職とした武家であった。
◼️森氏の出自は?
「古事記」によると、森氏は本姓藤原、俵(田原)藤太秀郷の末裔とされる。
◼️阿波水軍の開祖 佐田九郎左衞門
因幡出身とされる家祖 佐田九郎左衛門(のち九郎兵衞)は、森飛騨守と久米安芸守の取次で阿波国守護の細川氏に仕え、名東郡西黒田村(徳島市国府町)で三八貫が給されたが後にこれを没収された。松永久秀に一時仕えたが、程なくして久秀のもとからも去った。
◼️2代目 森元村
二代元村は、森飛騨守の姓を譲り受け、森志摩守と改名した。
天文年間初め、讃岐諸将が伊予河野氏と呼応市阿波侵攻の報せを受けると、元村は土佐泊城に、四宮和泉は北泊城に配され守りを固めるとともに元村は引田の寒川氏を攻め勝利したという。
後に元村は隠居し、板東郡沖野原(鳴門市大津町)で兵力を蓄え嫡子村春が土佐泊城を結ぶ吉野川の中継地点に位置することから森氏は細川氏・三好氏のもとで吉野川本流と阿波玄関口を掌握したのではないかと考えられている。