◼️ラピタ人(英: Lapita)とは?
考古学的に過去に南太平洋に存在した、もっとも早期に遠洋航海を行ったと考えられている民族。
人類史上初めて遠洋航海を実践し、太平洋の島々に住み着いたと思われる民族。
ラピタ人骨の復顔像(国立民族学博物館・大阪府吹田市)祖先はオーストロネシア語を話す”モンゴロイド系”の民族。アジア人のような顔つきをしている。
◼️1952年、ニューカレドニアで発見された土器が「ラピタ土器」と命名されたことから、この文化がラピタ文化と呼ばれるようになった。
ポリネシア文化の源流とする考えが有力である。
「ラピタ」という名前自体は、ニューカレドニアの現地語 (Haveke language) で「穴を掘ること」または「穴を掘った場所」を意味する「ハペタア (xapeta’a)」を発掘した遺物のことと誤解して付けられた。
この文化が元々は何と呼ばれていたのかは、現在まで明らかにされていない。
◼️歴史
ラピタ文化は今からおよそ3600年前にメラネシアで発生、高度な土器文化を持ちラピタ土器を残した。
ラピタ土器のうち古期のものは、紀元前1350年から同750年の間にビスマルク諸島で作られたものが見つかっている。
その後紀元前250年ごろまでに、次第に多様化した。
バヌアツやニューカレドニアには、その地方独自の様式が見られる。
メラネシアやパプアニューギニアのウンボイ島 でも見つかっているが、それらが絶えた後もフィジーでは作られ続けた。
またラピタ土器は、ポリネシア西部では紀元前800年くらいからフィジー、サモア、トンガの一帯で作られはじめた。
トンガからサモアへ、つまりポリネシアの東方にむかって植民によってラピタの文化が広がっていき、続いてマルケサス諸島、ソシエテ諸島、さらにはハワイ、イースター島、ニュージーランドへと伝わった。
しかしラピタ土器はポリネシアのほとんどの地域で途絶えた。これは小さな島などでは、土器を作るのに適した粘土が得られにくかったためと考えられる。
◼️遺物
土器は低い温度で焼いて作られており、貝殻や砂を混ぜて作られたものもある。
多くは歯型の文様が付けられたが、これは樹皮布や入れ墨などにも用いられていたと考えられている。
ラピタ文化圏では文様のないもの、すなわち石製の鍬などの人工遺物や、黒曜石、チャートなどで作られた石器も見つかっている。
◼️起源
ラピタ人のルーツは未解明の部分が多いが、台湾の土器との関連性が考えられている。
わずかに発見されている人骨から、人種的には現在のポリネシア人に似た大柄な人々だったらしいと言われている。
その祖先はオーストロネシア語を話すモンゴロイド系の民族であり、元々は台湾にいたのだが、その一部は紀元前2500年頃に南下を開始した。
フィリピンを経て紀元前2000年頃にインドネシアのスラウェシ島、ニューギニア島、メラネシアに到達した。
ここでオーストラロイドのパプア先住民と混血し、ラピタ人の始祖となる。
彼らは進路を東に変え、紀元前1100年頃にはフィジー諸島に到達する。
現在、ポリネシアと呼ばれる地域への移住は紀元前950年頃からで、サモアやトンガからもラピタ人の土器が出土している。
サモアに到達した時点 でラピタ人の東への移住の動きは一旦止まるのだが、その間に現在のポリネシアの文化が成立していったと考えられている。
5000〜6000年前の台湾または中国南部のオーストロネシア人 は、新石器時代に人口増加により移住を余儀なくされ、東南アジア(台湾)から移動したのではないか、と考えられている。
台湾の赤い細長い陶板に似た特徴がポリネシアの甕棺にも見つかっており、言語学的にも対応が見つかっていることが、それを裏付けているとする。
一部の研究者は、ラピタ人の移住は「トリプル I」に特徴づけられる、としている。それは
intrusion – 新しい土地への侵入
innovation – 新しい技術の獲得(アウトリガーカヌーなど)
integration – すでにいる民族との統合
という3つの過程があることである、としている。
現在はインドネシアやマレーシアではラピタ人に関するものは見つかっておらず、そのためユーラシア大陸の民族とラピタ人を結びつける根拠はない。
またそれとは別に、ビスマルク諸島では30,000年から35,000年前に人が住んでいたことから、これがラピタ人のルーツである、とする意見もある。
それによると、ポリネシア西部でのラピタ人の広まりは、黒曜石の交易によるものである、とする。
◼️DNA reveals Lapita ancestors of Pacific Islanders came from Asia
◼️【BBC News】DNA sheds light on settlement of Pacific
DNA解析で確認されたラピタ人のルーツは東アジア
◼️ラピュタ人とは?
超古代、巨石文化は世界中に存在していた。イギリスのストーンヘンジやエジプトのピラミッド、イースター島のモアイ像など。
その巨石文化を、生み出したのが、海洋民族ラピュタ人だとペトログリフ研究家の武内一忠氏は説く。
そのラピュタ人が世界中を航海して、巨石文化を世界中に広めた。
10000年以上前の超古代世界に、ラピタ人の元となる海洋民族 ラピュタ人が存在し、世界中の海を移動して巨石文化が広まったと、竹内氏は推測する。
◼️【書籍】もう隠せない 真実の歴史 世界史から消された謎の日本史
著者 武内一忠 氏
本の概要
シュメールもエジプトもユダヤもケルトも――世界史の民はなぜ海洋民族ラピュタと共に縄文日本に結集したのか⁈
なぜ巨石文明の遺跡が日本列島から続々と発見されるのか⁈
日本列島は先進文明の証拠群そのものであった!
海洋民族ラピュタと巨石文明の遺跡が織りなす決定打!
真実の日本の歴史では、日本は世界の中心にあって惜しみなく万人に幸せを振りまいていた。
海洋民族と共に世界の情報を共有し、その価値を認め、さらに技術の先端を見つめる縄文1万年があったのだ。
7200年前頃、環太平洋を麻布の帆と双胴のカヌーで悠々闊歩するマオリ海人族がいて、彼らがボルネオ付近の湊川人(ムーの末裔)とミックスしながら海洋民族となる。これがラピュタである。
地球温暖化による火山爆発。この当時の天変地異を収めるために、古より巨石による宇宙神信仰をもつラピュタと縄文人は協力して、巨石文化を駆使した。
熊襲、ケルト、物部、蘇我、ドルイド、ヘブライ、フェニキュア、サンカ それらのすべての秘密はここにあり!
ギルガメッシュ叙事詩は語る。「シュメールの民は東海の蓬莱山(日本)を目指した」と!
日本の歴史は
日本中心の世界史は
超不都合な真実として
葬り去られて来たのだ!
6000年前頃、世界が砂漠化していく中で、日本は悠久の森の文化を湛えていた。山からは真水が湧き、森には収穫が溢れ、何不自由ない邑(むら)の生活があった。そこへ世界中の民が海洋民族ラピュタに伴われ、蓬莱山ディルムンにやって来た。日本民族は、船団のマレビトを一世一代の手料理でもてなし、その季節を共に祀ったのだ。
しかしある時、金属文明が生まれ、世界は一気に搾取社会へと変身していく。
戦争のない縄文1万年もシューメールの民の到来とともに変質していく!
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◼️『真実の歴史』武内一忠さんインタビュー(日本人の教養:日本の古代史編)
<内容>
0:00 『真実の歴史』著者、武内一忠さん登場
2:57 日本のピラミッド、押戸石遺跡
6:36 海洋民族と日本の古代文明
10:25 阿蘇(熊本)の巨石にある特徴
11:20 日本で古代文明が発展した理由
14:07 ラピュタ人/ラピタ人が日本に来た?
◼️武内一忠先生ツアー「阿蘇の鬼と縄文水源巡り」Part1神社の秘密を解き明かす
◼️【書籍】ペトログリフが明かす超古代文明の起源
著者 武内一忠氏
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本の概要
あなたは“九州阿蘇”を中心に広く分布する古代巨石文明をご存じだろうか?
それはヨーロッパの巨石文化と同等の特性を多く持ち、発見された巨石には世界の初元文字ペトログリフが刻まれていた。
それら複数の遺跡は、ヨーロッパと同等の「レイライン」で結ばれ、北極星や夏至や冬至の日の出入りを元に計算されて築かれていることも判った。
また、巨石文化は海洋民族が伝搬した文化と言われるように、多くの民族の渡来もペトログリフや地名などで確認できた。
著者が子供の頃に知った「ペトログリフ」の存在と魅力は、一生をかけて追いたくなる【古代文明のロマン】を感じるほどの衝撃を残した。
それから30年が経過したある日、NHKの番組で「日本のピラミッドが阿蘇」にあり、そこに「ペトログリフが存在する」という報道を聞いた瞬間に“著者の人生”が大きく動いた。
現地へ探査に向かうと、これまで知っていたヨーロッパのケルトの巨石文化の方程式を元に調査を行い、次々と阿蘇の遺跡を発見していく。
著者の目の前には、ハーバード大学バリー・フィル教授の提言する「Ancient One World」そして「巨石文化は海洋民族が運んだ文化」が眼前に広がっていた。
<目次>
はじめに「波動の遺跡・押戸石山との出会い」
序章
・縄文人の感性は「神の存在」そのもの
・地球温暖化の異変による文明の芽生えと縄文中期の日本
・アムール河への道・日本の原郷
・シュメール文明の始まりと謎の海洋民族ラピュタ
第一章 世界に君臨する宇宙最高神
第二章 先史ヨーロッパの先ケルト民族
・森の民ケルトの四大祭り
・日本に残るケルト的習慣
・9・11バビロン捕囚の悪夢
第三章 九州阿蘇を中心とする巨石文化とペトログリフ
・超古代巨石文化の夜明け押戸石山遺跡
・拝み石山遺跡はプレアデス星への誘い
・西原村ペトログリフサイト
・阿蘇南郷谷・清栄山の聖牛アルダ
・ユダヤ伝承のお宮・幣立神宮
・古代海洋民族の居城・天草
・シュメールの主神アンを祀る村
・菊池川源流にソロモンの名がつく智者が嶺
・高千穂の嶺の七枝樹
・日向に封印された龍神伝説発見
・宇佐神宮の奥の院・安心院の米神山
第四章 謎のレイライン
最終章 超古代に風穴を開ける謎の三大海洋民族
・大阿蘇・押戸石山に地球安寧の願い込めたモノリス
◼️【巨石と水脈】香川県東かがわ市水主の本宮山の山頂にある巨石”くじら岩”と大内ダム。水神 倭迹迹日百襲姫を祀る水主神社、秦氏と徐福と物部氏!
くじら岩は、香川県東かがわ市の本宮山山頂にある高さ約7m、周囲約12mの巨岩。
マッコウクジラが口を開けて海面から頭を出している形をしている。
この辺りは、大内ダムがあり、水が豊富。地元では、水主(みずし)米が栽培されている。
この地には、縄文後期から弥生時代、古墳時代の遺跡や古墳が発見されていて、古くから農耕が行われていた。
良質の水で栽培される水主米(みずしまい)はブランド米としても有名だ。
くじら岩がある本宮山辺りは虎丸古墳群と呼ばれる。
縄文時代、くじら岩のある本宮山山頂で縄文人(海洋民族? 物部系渡来人?)が祭祀をしていたのか?
◼️くじら岩の歴史
石器時代〜縄文時代〜 : 海洋民族?、物部系渡来人?の祭祀場。太陽信仰、北極星信仰、雨乞い?
室町時代 : 讃岐大内郡の与田寺で増吽が活躍していた時代の応永14年(1407年)ごろ、増吽により水主三山(虎丸山、本宮山、那智山)への熊野権現勧進。
江戸時代 : 江戸時代末期の嘉永6年(1853年)に発行された「讃岐国名勝図絵」の中では「タテ石(立石)」と書かれている。
立石とは境界の目印となるものという意味。広大な水主神社の社領を示す目印ではなかったかといわれているようだ。
・下記の黄色で囲った部分
くじら岩の周りを息を止めて3周まわると願いがかなうと言い伝えられている。
●この地にある水主神社の祭神は倭迹迹日百襲姫命。
降水量の少ない讃岐の地では水脈は命。
太古の昔から、この巨石は雨乞いをする祭祀場所だったのだろうか。或いはこの地へやって来た海洋民族が北極星を拝んでいたのか。本宮山の西方には与田川の水源である笠ヶ峰がある。この本宮山の山頂からは大内ダムが見下ろせる。
●与田川は讃岐山脈の笠が峰(標高 560m)に源を発し、東かがわ市(旧大内町)を北東に流れ、瀬戸内海に注ぐ流域面積 17.2平方キロメートル、流路延長5.7キロメートルの二級河川。
大内ダムは、与田川流域の治水安全度の向上や、農業用水の補給、新たな水道水源を確保するために、昭和41年度に完成した多目的ダムである。
●紀元前3世紀に、徐福と共に日本へやって来た秦氏は道教の教えを信仰しており北極星を拝んでいた。この星の信仰はダビデの星にもつながる。
昔、この地は大内という地名だったが、その由来は倭迹迹日百襲姫が奈良からこの地に来て住んだことから名前がついた。
恐らく大内郡の秦氏はこの辺りに居住していたのだろう。
●大内郡 秦氏 水主神社 倭迹迹日百襲姫、別説:天火明命(ホアカリ=ニギハヤヒ=徐福)
●香河郡 秦氏 田村神社 倭迹迹日百襲姫、天五田根命 (天村雲命、徐福の孫)
●讃岐秦氏の居住地
くじら岩の近くに小さな祠 本宮神社がある。祭神は、「速玉之男」(はやたまのお)。
出雲王家の富家の口伝では、この「速玉之男」とは物部氏の始祖「饒速日」(ニギハヤヒ=徐福)の変名であり、「速」の字が両者共通になっている。
●本宮山と水主神社、大内ダムの位置。水主神社は水主三山( 虎丸山、本宮山、那智山)に囲まれる。室町時代には熊野三山が勧請された。熊野三山にひとつ熊野本宮大社で祀られる熊野速玉大神は、饒速日(ニギハヤヒ、徐福)のことを指す。
●秦氏が宮司を務めた讃岐一宮の田村神社と水主神社。紀元前3世紀に徐福は秦国から合計5000人の秦氏を引き連れて日本へやって来た。
航海の途中で天候の影響によりバラバラになり日本の各地に上陸した。島根県、佐賀県、宮津市、和歌山県などに上陸地が残る。
日本書紀に徐福が登場しないのは外交上の問題から存在を隠された。しかしながら、海部氏が宮司を務める籠神社や和歌山県の多くの神社に徐福は、ホアカリやニギハヤヒ、スサノオと言う名前で祀られる。
●倭迹迹日百襲姫は奈良県磯城郡田原本町黒田から東かがわ市の水主へやって来た。東かがわ市には倭迹迹日百襲姫の伝承が数多く残る。艪掛神社、袖掛神社にも祀られる。
◼️磐座(いわくら)
これまで多くの磐座を訪れて来た。
主な磐座は、奈良県桜井市の三輪山山頂、京都亀岡市の磐座大神宮、滋賀県坂本の日吉大社、宮津市の真名井神社、岡山県の吉備津彦神社裏の中山、上賀茂神社など。
磐座を拝む信仰は、徐福(ホアカリ、ニギハヤヒ、スサノオ)の子孫である物部氏の祭祀法となる。
●亀岡市の出雲大神宮の磐座。ここは磐座が非常に多い。
●岡山県の吉備津彦神社裏の中山にある磐座。この中山には数多くの磐座があり驚く。
◼️徐福とは?
中国の歴史書 史記や出雲王家の富家の口伝によると、徐福は紀元前3世紀に2回、日本へやって来た。
不老不死の薬を手に入れ始皇帝に献上する建前で、実際は日本の王になろうとしてやって来た。
一度目は、西出雲に上陸した。
当時の出雲王国の8代目主王ヤチホコ(大国主:役職名)に取り入り、その娘と結婚し、五十猛をもうけた。
しかしながら、徐福は部下に命じ、ヤチホコと副王の事代主(スクナヒコ)を暗殺してしまった。
ヤチホコは島根県の稲目洞窟、事代主は粟島の洞窟で亡くなった。
この大惨事を忘れない為に島根県美保関町では毎年、青柴垣神事を執り行う。
徐福は、出雲王国にはいれなくなり、息子の五十猛を妻に託し秦へ帰国した。
父である徐福が部下のアメノホヒとヒナドリ親子に命じ、出雲王と副王を殺害した為、五十猛は出雲にいづらくなり、徐福と共に日本に来た者たちや出雲の人たちを引き連れて、丹波(今の丹後)へ移住し、指導者となり、香語山(カゴヤマ)と名を改めた。カゴヤマは籠神社の宮司家 海部氏の先祖であり、その息子はヤマト朝廷の初代大王アメノムラクモとなる。
徐福は秦に帰国した際、始皇帝に、サメのせいで不老不死の薬が手に入らないので、もっと軍備を与えて欲しいと説明した。
始皇帝は再度、徐福を信じて、今度は童男・童女に加え、軍隊と熟練工を与えた。
徐福の2回めの来日では、佐賀県に上陸した。
2度めの来日時には、徐福は饒速日(ニギハヤヒ)と名乗った。
徐福=ホアカリ=ニギハヤヒとなる。
徐福集団は、合計で5000人が渡来したことになり、日本に大きな影響を与えた。
佐賀県に上陸した徐福の子孫は、物部(モノノベ)氏と呼ばれるようになった。
徐福たちは、吉野ヶに住み、強力な勢力を形成していった。吉野ヶ里遺跡は、徐福の拠点跡となる。
徐福は宗像三姉妹の市杵島姫を妻に迎えた。そして、生まれた穂屋姫が、丹後の香語山(カゴヤマ)と結婚した。
そして、海村雲(アマノムラクモ)が生まれた。
海村雲は、一族を連れて、丹波からヤマトへ移住した。
同じ頃、大阪・三島の出雲族が、天日方奇日方(アマヒカタクシヒカタ)をリーダーとして、ヤマトへ移住した。
両者は協力してヤマトを治めていくこととなり、海村雲が初代大王に就いた。
これが、神武天皇のモデルとなる。
クシヒカタは、ムラクモと協力関係を結ぶため、妹のタタライスズヒメの婿にムラクモを迎えた。
そして、ムラクモの息子(2代大王〈綏靖天皇〉)は、もう一人の妹イスズヨリヒメの婿となった。