【東かがわ市・黒羽神社】黒羽城 城主 永塩氏継 創建の黒羽神社(妙見宮)で奉納される大獅子! 獅子舞の起源はインド! 妙見神、毘沙門天、吉祥天、弁財天はインド起源! 毘沙門天とムカデの関係は? 呉の帰化人が蕃神信仰を広めた!

🟣東かがわ市黒羽(くれは)の黒羽神社(妙見宮)では、毎年10月に獅子舞が奉納される。

黒羽神社の祭神 妙見天と妙見信仰の起源はインドにある。

大化(645年-650年)の頃、呉(三国時代の魏・呉・蜀)の帰化人の技術者が来て機織りや養蚕を教え、この地の民は羽二重が織れるまでになった。

呉の帰化人の中にはこの地に住み、地元の民と同化していった。その過程において大陸の文化、風習、信仰をこの地に伝えた。

妙見天や黒羽神社の南側に位置する吉祥寺の吉祥天、毘沙門天、弁財天は全てインドにその起源を持つ。

黒羽と言う地名は、呉(くれ)と羽二重の羽に由来する。

●額に「妙見宮」と書かれている。

●妙見大明神の石碑

🟣獅子舞の起源は?

獅子舞は厄払いや豊作祈願の目的で祭りなどで奉納され、人々の暮らしに浸透してきた。獅子舞は日本人に身近な存在だが、その獅子の起源であるライオンは日本に生息していない。

ライオンの和名は獅子だが、獅子舞の獅子はライオンを元にした伝説上の生き物。獅子とライオンを比較してみると類似点は、獅子は頭部から毛が生えており、眉毛やこめかみ辺りに渦巻き模様が付いているものもある。これはライオンのたてがみと類似している。

獅子舞は厄を払うべく険しい表情や鋭い牙を持ち、激しい動作をするが、これはライオンの獰猛さと似ている。

獅子舞が日本に伝来した過程は?

インドでは、アショカの獅子柱頭デザインの切手がある。柱頭には4頭のインドライオンが背中合わせに並んでいる。
古代文明の発祥とともに、ライオンは王の権威付けとして実際の動物というよりも、強い霊力を持った霊獣として認識されてきた。

●仏教の重要な聖地のひとつであるインドのサールナートにあるアショーカの尖塔の柱頭。紀元前250年ごろにアショーカ王の命により作られたもの↓

日本に伝わってきた獅子舞のもととなったのは、諸説あるがインドで仏教と強く結びついた獅子と関係がある。

紀元前3世紀にインドのアショカ王が仏教を広めるために建設した石柱の一部に、王の権威の象徴として、ライオンをモチーフにした獅子が彫られている。仏教において獅子は、仏の威厳を表すものだったと言える。

インドの獅子はシルクロードを経て中国に伝わり、舞いに取り入れられたと言われている。紀元前2世紀に、漢の武帝が宮殿でライオンを飼っていたという記録があり、その後中国の文献で多数獅子舞に関する記述が登場する。中国で獅子舞が定着したというのは間違いないだろう。


中国の獅子舞は朝鮮半島に伝えられ、それが日本にも伝わった。612年に朝鮮半島の百済(くだら)の味摩之(みまじ)という人物が、今の奈良県に最初に伝えたとされる。朝鮮から日本に仏教が伝来したのと時期がほぼ同じ時期となる。

インドのアショカ王が仏教の布教のため、獅子を彫った石柱を建設したが、日本でも仏教が全国に広まるのと同時に獅子舞が普及していった。味摩之が伝えた獅子舞は、まず奈良の桜井寺(現在の旧豊浦寺跡)や日本最初の国立劇場とされる土舞台という場所で子供達に教えられた。当時日本を統治していた聖徳太子が芸能文化の発展のために行ったとも言われる。

日本の獅子舞で踊る獅子は、1人で1匹の獅子を演じる「一人立の獅子舞」、2人以上の演者で1匹の獅子を演じる「二人立の獅子舞」と、数人から10人ほどで1匹の獅子を演じる「むかで獅子」に分類される。

「二人立」は古代に成立した外来の舞楽・伎楽(ぎがく)系統や散楽から派生し曲芸や軽業と融合し御師と結びついた伊勢大神楽に代表される大神楽系統が存在する。

「一人立」は土着の芸能をもとに中世末から近世初期にかけて成立した風流(ふりゅう)系統といった芸能史的に異なる系統に分かれる。

🟣2019年 黒羽神社 大獅子

🟣妙見信仰とは?

妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもの。

「菩薩」とは、本来「ボーディ・サットヴァ」(梵語:bodhisattva)の音写で、「菩提を求める衆生」の意であり、十界では上位である四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)の一つだが、妙見菩薩は他のインド由来の菩薩とは異なり、中国の星宿思想から北極星を神格化したものであることから、形式上の名称は菩薩でありながら実質は大黒天や毘沙門天・弁才天と同じ天部に分類されている。

🟣黒羽の吉祥寺(毘沙門庵)

●黒羽の吉祥寺は毘沙門庵とも呼ばれ、毘沙門天、弁財天、ムカデが登場する伝承が伝わる。

●毘沙門天とムカデ、弁財天、大蛇が登場する伝承

●黒羽「毘沙門天」由来

大昔、呉羽(黒羽村)に大きな毒蛇が住み着き村人たちを苦しめた。

ある年、村一番の美少女がイケニエに選ばれた。

父母は弁天様に救いを願い、弁天様は少女の身代わりになった。

少女を丸呑みしようとした毒蛇に大ムカデが突進してきた。

逃げる毒蛇に大ムカデは毘沙門天の姿に返り、黒い羽根の付いた矢を射かけ、毒蛇は倒れた。

それ以来「黒羽村」と呼ばれるようになった。(一部抜粋)

●毘沙門天 本尊

黒羽の毘沙門天。高さは80cmくらい。

●ムカデをモチーフにしたような彫刻が見られる。

・毘沙門天(びしゃもんてん)

仏教の護法神。サンスクリット語バイシュラバナ(Vaiśravana)を吠室囉末拏などと音写し、転じて毘沙門天となる。

多聞(たもん)天、遍聞(へんもん)天とも称する。

インドのベーダ時代からの神で、ヒンドゥー教ではクベーラ kuberaの異名をもつ。

もとは暗黒界の悪霊の主であったが、ヒンドゥー教では財宝、福徳をつかさどる神となり、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)を率い、帝釈(たいしゃく)天に属して北方を守護する神とされていた。

仏教では四天王の一尊で須弥山(しゅみせん)の北方に住し、多数の夜叉を眷属(けんぞく)として閻浮提(えんぶだい)州の北方を守る護法の善神とされた。

その形像は甲冑(かっちゅう)を身に着け、憤怒(ふんぬ)の相をし、左手に宝塔を捧(ささ)げ、右手に宝棒または鉾(ほこ)を執(と)り、二夜叉(鬼)の上に座る。

また十二天の一とされるが、わが国では単独としても古来から信仰された。

信貴山(しぎさん)(朝護孫子寺(ちょうごそんしじ))では毘沙門天を本尊としており、楠木正成(くすのきまさしげ)はその申し子として幼名を多聞丸と称するなど、武将の信仰が厚かった。また平安時代には、王城鎮護のため北方に建てられた鞍馬(くらま)寺に左手をかざした毘沙門天像を安置したり、さらに東寺(教王護国寺)の兜跋(とばつ)毘沙門天像のように密教において特別の彫像も現れるに至った。

後世、武将形のまま七福神の一つに数えられ、福徳を授ける神として民間に信仰された。

🟣毘沙門天とムカデ

百足(ムカデ)は毘沙門天の様々なお使いをする眷属。

軍神と財宝の神である、毘沙門天のお使いがなぜ「ムカデ」なのかは不明だが、百足は、「毘沙門天の教え」に登場する。その教えは、「たくさんの足(百足)のうち、たった一足の歩調や歩く方向が違っても前に進むのに支障がでる。困難や問題に向かうには皆が心を一つにして当るようにとの教えである」

武田信玄など戦国武将は、毘沙門天が武神で戦勝の神とされることと合わせて、毘沙門天のお使いのムカデは一糸乱れず果敢に素早く前に進み、決して後ろへ退かないことから、武具甲冑や旗指物にムカデの図を用いたりしたとされる。

毘沙門天が古代インドでは宝石の神とされていたことに加えて、百足は足が多いので、おあし(銭)がたくさんついて金運を呼ぶとか、商人や芸人の間では「客足、出足」が増え繁盛するなどと、人々の信仰を集めた。また、鉱山師や鍛冶師にも信仰されたが、これは、鉱脈の形や鉱山の採掘穴がムカデの姿形に似ているからともいわれる。

🟣信貴山朝護孫子寺 (奈良県生駒郡平群町信貴山2260-1) 全国の毘沙門天を祀る社の総本山。本堂の神額のムカデ。

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