◼️昭和のプロレス界を盛り上げた名レスラーが、また一人亡くなられた。
テリー・ファンクさんが、79歳で逝く。
ご冥福をお祈りします!
子供の頃見たファンクス 対 ブッチャー・シーク組のタッグ選手権での伝説の試合を思い出す‼️
兄のドリー・ファンク(1941年2月3日 – )は現在、82歳だ。
◼️1977年12月15日、蔵前国技館、ザ・ファンクス vs ブッチャー、ザ・シーク組
タッグ選手権 最終戦
ファンクス 対 地上最凶悪コンビのブッチャー、シーク組
ブッチャー がテリーの右腕に凶器のフォークを突き立てる‼️
テリーが、兄 ドリーファンクを救出すべく左ストレートを連打‼️
◼️1983年 テリーファンク引退試合
◼️テリーファンク、ハリーレイスのインタビュー
◼️ザ・シークとドリーファンクが組んだ試合
◼️テリー・ファンク(Terry Funk)とは?
本名:Terrence Funk
1944年6月30日 – 2023年8月23日
アメリカ合衆国のプロレスラー。
インディアナ州ハモンド出身、テキサス州アマリロ育ち。
第51代NWA世界ヘビー級王者。実兄のドリー・ファンク・ジュニアとのタッグチーム「ザ・ファンクス」でも活躍し、日本でも人気を博した。
日本では「テキサス・ブロンコ」、「テキサスの荒馬」などの異名を持つ。
俳優として活動していたこともある。
◼️来歴
🔸NWA – WWF
プロレスラーのドリー・ファンク・シニアの次男として生まれ、兄のドリー・ファンク・ジュニアと共にレスリングの英才教育を受けながら育つ。
ウエスト・テキサス州立大学でアメリカンフットボール選手として活動後、1965年12月28日にスプートニク・モンローを相手にプロレスラーとしてデビュー。
父がプロモートしていたテキサス州アマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)にてキャリアを積んだ。
1970年6月、日本プロレスに初来日。
1971年12月7日、ドリーとのファンク兄弟でジャイアント馬場&アントニオ猪木のBI砲を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得。
1972年10月には全日本プロレスの旗揚げシリーズに参加、以降、全日本プロレスのブッカー兼看板外国人選手となって活躍した。
アメリカでは1971年8月30日、父シニアとのタッグでMSGにも登場。
1973年2月10日にジョニー・バレンタインからNWAミズーリ・ヘビー級王座を奪取。
1975年12月10日にはジャック・ブリスコを破ってNWA世界ヘビー級王座を獲得、兄ドリーと並んで史上初の兄弟世界王者となった。
1976年1月1日にはアブドーラ・ザ・ブッチャーと、同年3月30日フロリダ州マイアミでアンドレ・ザ・ジャイアント相手に防衛。
日本では6月11日蔵前国技館でジャンボ鶴田の挑戦を退ける。
以降、各地で防衛戦を続けたが、1977年2月6日、兄と同じくハーリー・レイスに敗れ王座陥落。
1978年、シルヴェスター・スタローン監督、主演「パラダイス・アレイ」にフランキー役で出演。
1977年12月に全日本プロレスで開催された世界オープンタッグ選手権にはドリーとのザ・ファンクスで出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの史上最凶悪コンビを退けて優勝。
以降、1979年と1982年の世界最強タッグ決定リーグ戦でも優勝を果たした。
レッドネックのワイルドさを強調したラフファイト主体のファイトスタイルだが、日本においては絶大なベビーフェイス人気を博し、本国アメリカでは地元テキサス以外ではヒールとして活躍。
ロサンゼルスではチャボ・ゲレロ、フロリダではダスティ・ローデス、テネシーではジェリー・ローラー、サンアントニオではワフー・マクダニエルなど、各地のヒーローと流血の抗争を繰り広げ、業界誌の不人気部門(すなわち悪党人気部門)では常に上位にランキングされていた。
1983年8月31日、蔵前国技館のスタン・ハンセン&テリー・ゴディ戦で現役を引退したが、翌1984年8月に復帰。
1985年6月にWWFと契約し、ジミー・ハートをマネージャーにカウボーイ・ギミックのヒールとしてハルク・ホーガンやジャンクヤード・ドッグと抗争を展開。
1986年1月にはドリーもホス・ファンクのリングネームでWWF入りし、同年4月7日のレッスルマニア2(ロサンゼルス大会)にはザ・ファンクスとして出場している。
その後、膝を負傷してWWFを離脱。
再び引退宣言して俳優活動に入り、『オーバー・ザ・トップ』など数本の映画やドラマに出演。
🔸WCW、ECW以降
1989年5月7日、リック・フレアーとリッキー・スティムボートのNWA王座戦に採点ジャッジとして参加。
試合後、勝者フレアーに襲い掛かり、史上初とも言われる「テーブル上でのパイルドライバー」を敢行。
フレアーとの因縁ドラマでは「イカレた中年(Middle Aged and Crazy)」のヒールとして活躍。
以降インディ団体を転戦するようになり、旧敵ザ・シークの甥であるサブゥーとの邂逅などもあり、かつて南部地区でローデス、ローラー、マクダニエルらと繰り広げてきた荒っぽいラフファイト路線に回帰。
「ハードコア・レスリングの先駆者(Hardcore Legend)」として再評価された。
1993年からは創成期のECWに参加。
1997年末までのECW全盛期を主役の一人として支えた。
1998年からはECWと提携関係にあったWWFに「チェーンソー・チャーリー(Chainsaw Charlie)」のリングネームで久々に登場。
弟子のような存在であるカクタス・ジャックとのタッグで活躍し、レッスルマニアXIVではニュー・エイジ・アウトローズのWWF世界タッグ王座に挑戦。
その後はジャスティン・ブラッドショーとのカウボーイ・タッグも結成した。
2000年からは末期のWCWに参戦し、ハードコア王座を獲得している。
近年も各地のインディ団体に出場し、一時期は初期TNAにも登場した。
2005年にWWEがECWを復活させると、当初は反WWEの立場を取っていたが、翌年のECWワン・ナイト・スタンド2006には参戦した。
近年のテリー(2008年)
2009年、兄ドリーと共にWWE殿堂に迎えられている。
2011年には、流血の大抗争を展開した因縁のライバル、アブドーラ・ザ・ブッチャーのWWE殿堂入りのインダクターを務めた。
2021年11月23日、テリーが認知症の治療を続けていると、複数のアメリカ国内の専門メディアが報じた。
同年夏よりテキサス州アマリロの生活支援施設に滞在した後、この報道の時点では介護付きホームに入所して生活していると報告された。
2023年8月23日、死去したことがWWE(ワールドレスリング・エンターテインメント)より発表された。
79歳没。
◼️評価
🔸レスラーとしての姿勢
NWA世界ヘビー級王者のドリー・ファンク・ジュニアのポリスマンとして各地のトップレスラーとの対戦を経験し、あらゆるスタイルに対応できる技術を築いた。しかし、受けの美学といえるファイトスタイルは、怪我を頻発させる代償を伴った。
NWA王者として活動し超一流のレスラーとしての名声を得た後でも、新しいことに果敢にチャレンジする姿勢は、「リビング・レジェンド」(生ける伝説)と讃えられている。
ハードコアマッチやデスマッチへの挑戦、50歳を過ぎてからムーンサルトプレスを使い始めるなど(形は不完全であったが)、後に続く者からのリスペクトは絶えない。
後年は若手育成にも力を入れ、ECW時代は積極的に若手とも試合を行なっている(他のベテラン勢は自分のポジションを奪われるのを嫌がり、若手との対戦は避けていたという)。
また、長年の酷使により膝が完全に壊れているため、膝サポーターは欠かせず、選手としての末期はロングタイツを着用している。
鎮痛剤を常用しているといわれ、その副作用のせいか、単なる性格的なものなのかは不明だが、感情を抑制出来ず癇癪を起こすことが多いと伝えられている。
◼️日本での活躍
テリー・ファンクは1970年代後半から1980年代前半にかけて、日本のプロレス界で最も成功した外国人レスラーの一人である。
1977年の「世界オープンタッグ選手権」決勝戦において、凶器攻撃を繰り返すアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シークの最凶悪コンビに「テキサス魂」で真っ向勝負を挑む姿に、男女を問わず熱狂的なファンが付き親衛隊も生まれた。
大成功を収めた「世界オープンタッグ選手権」は、年末の興行は不振とされていた日本のプロレス界の定説を覆し、以降「世界最強タッグ決定リーグ戦」へと発展して全日本プロレスの看板シリーズとなった。
日本では絶対的なベビーフェイスとして認識されているが、アメリカでは地元のアマリロ地区以外では主にヒールとして活動していた。
ブッカーとしても敏腕で、1981年にはスタン・ハンセンの新日本プロレスから全日本プロレスへの引き抜きにも成功した。
同様にハルク・ホーガンとも契約書を交わすまで至ったが、ホーガンがこれを新日本に提示しギャラの上乗せを要求したため、ホテルでホーガンを殴ったとジャイアント馬場は語っている。
しかし、テリー本人は自著などで暴行に関しては否定している。
なお、一度目の引退を発表したのは1980年で、突如「私の膝は皆が思っている以上に状態が良くない。動ける内に身を退きたいので、3年後の誕生日に引退する」と発言し、ファン、そしてプロレスマスコミを驚かせた。
1983年の引退試合の前に来日したグランド・チャンピオン・カーニバルIIIには「テリー・ファンクさよならシリーズ」と副題がついていた。
1984年2月のニック・ボックウィンクルvsジャンボ鶴田の一戦では特別レフェリーを務めた。
1993年5月5日にはFMWの川崎球場大会で、弟子ともいえる大仁田厚と「ノーロープ有刺鉄線電流爆破超大型時限爆弾デスマッチ」で対決した。
一方でFMWの対立団体であったIWAジャパンにも参戦し、1995年8月20日の川崎球場大会では「ワンナイトデスマッチトーナメント」に出場。
準決勝ではタイガー・ジェット・シンと「バーブドワイヤボード(有刺鉄線ボード)・グラスウインドウクラッシュデスマッチ」で、決勝戦ではカクタス・ジャック(現:ミック・フォーリー)と「ノーロープ・スクランブルバンクハウス・スーパーバーブドワイヤーウェポンウィズアタイムボム(時限爆弾)・デスマッチ」でそれぞれ対決している。
また、1998年にはザ・グレート・カブキの引退試合のタッグパートナーも務めている。
1995年5月3日には福岡ドーム大会で新日本プロレスに初参戦した。
2005年8月4日、「WRESTLE-1 スペシャルタッグマッチ」にて同じく往年のスター選手ミル・マスカラスとコンビを組み、若手選手の本間朋晃&中嶋勝彦組に勝利。
2010年1月4日、新日本プロレス「レッスルキングダムIV IN 東京ドーム」に参戦。
長州力、蝶野正洋、中西学と組み、ブッチャー、矢野通、飯塚高史、石井智宏組と対戦した。
2013年10月、全日本プロレスに22年ぶりにザ・ファンクスとして来日。両国国技館での第2試合に出場し、渕正信&西村修組と20分1本勝負で対戦した(結果は時間切れ引き分け)。