【タブー】プロレスラーの歌唱力を検証する!ジャンボ鶴田の歌のエピソード! ジャイアント馬場、長州力、木村健悟、マイティ井上、将軍KYワカマツ、古舘伊知郎、橋本真也の歌!

◼️ジャンボ鶴田のエピソード!

現役時代からフォークシンガーとしてレコードを発売したり、ファンの前でギター片手に歌うこともあった。

井上陽水の「傘がない」をテレビで披露したこともある。

ただし、付き添った川田曰く「アンコールは無かったんだけどね」とのことである。

🔸ジャンボ鶴田最強伝説を語る川田利明

🔸中央大学へはバスケットのスポーツ推薦でなく、一般入試を受け合格したとされている。

しかし中大レスリング部、及びミュンヘンオリンピックレスリング代表の同期だった鎌田誠や、中大で同級生だったミスター・ポーゴは「鶴田はバスケットボール部の特待生だった」と明言している。

自著の受験指南書『ジャンボ鶴田の受験は格闘技だ』では、大学院入試の経験については詳細であるが、大学受験に関しては具体的に語られていない。

🔸1975年頃に新間寿が、鶴田を新日本プロレスへ引き抜くことを計画していた。

しかしこの計画が当時東京スポーツの社長だった井上博や、当時の三浦甲子二テレビ朝日専務の怒りを買うことになってしまう。

最終的に新間による鶴田引き抜き計画は失敗に終わった。

🔸レスラー時代にはバラエティ番組にもゲスト出演していた事もある。

また日野自動車のトラックや、井関農機のコンバイン「太郎」シリーズのCMにも出演経験がある。

🔸虫が大の苦手であり、セミは勿論のことで夫人の話によると「毛虫なんかはもってのほか」であったという。

🔸鶴田自身が家宝にしていたのは坂本龍馬の像であり、プロレスで得たトロフィーや記念盾、パネル写真などは無造作に押入れの中へ保管したり、欲しい人に差し上げていた。

🔸若手時代に鶴田の付き人を務めた三沢によると、たとえ後輩であっても名前を呼び捨てで言ったり使い走りしたりはせず、誰にでも「君」付けで呼んだりするなど、先輩風を吹かせたり無茶を言いつけたりすることも無かったという。

リングを降りるとマイペースを貫き、若手選手と飲食店で同席しても特に奢る様なことはせずに、1人でコンビニエンスストアの袋を手に持って宿泊施設へ戻るなど、プライベートでは普通に「鶴田友美」として過ごしていた。

🔸生前の三沢と親交があった徳光正行によると、三沢は自身の付き人に対して雑用を多くやらせたり、小言を口にしたりすることも無かったが、これは自身が付き人を務めた鶴田が干渉をあまりしない性格だったことが影響しているといい、また三沢自身も、新人時代に先輩から理不尽な仕打ちを受けた経験から「自分は下の人間に対して、同じようなことは絶対にしない」と心に誓ったのだという。

この「使い分け」は外国人選手に対しても同様であったため、テリー・ファンクも1983年の一度目の引退のあと「馬場の次のボスは鶴田ではなくて、天龍なんだよね」と語っていた。

🔸天龍はプロレス転身当初、鶴田から気の良さそうな挨拶を受け、後年「ジャンボのおかげもあってこのプロレス界にはスッと入っていけた所はあるよ。もしあの時に、元関取でも『プロレス界ってのは、そうはいかないんだぞ!』みたいなムードを俺が感じていたら、その後のプロレスへの取り組み方は変わってたかもしれないよね」と振り返っている。

しかし、2016年に天龍はインタビューの中で「リングの中で相手を見下したような試合をしたり、リングの外で“プロレスラーの鶴田友美です”というのが嫌そうなジャンボを見て、段々と違和感を持つようにはなったけどね」と、1987年春の鶴龍コンビに嫌気がさしていた頃の様子を語っている。

同じインタビューで天龍は、またリング上で常に余裕のある自分を見せたがっていた鶴田の生前のその姿勢を指摘している。

🔸新弟子時代の大仁田厚は、高い具材が入っているちゃんこが道場に用意されても先輩に良い具材を先に取られてしまい、残っているのがいつも野菜しか残らず落胆することがあった。

一方、鶴田が毎回作っていた「鶏の湯豆腐」は材料費が安い分だけ肉が沢山あったため、当時新弟子であった大仁田でも肉にありつけた。

また「食べる時は平等だからさ」と日頃から話し、新弟子でも最初から箸を付けて食べることが出来た。

このように思いやりのある鶴田を大仁田は慕っており「おれは鶴田さんが好きだったよ」と、現在も尊敬している。

🔸ある時、天龍に連れられて懐石料理を食べさせてもらったが、すぐさまおもむろに立ち上がってラーメンを食べに出掛けた。

天龍は後に「彼は味が濃くて腹いっぱいになるものがよくて、懐石料理をちまちま食っているのは性に合わないんだ。地方巡業ではどこに行っても、その辺でラーメンを食べていたし、ファンの目を気にしないおおらかさがあった。それがジャンボらしいところだよね」と解説している。

相撲時代に味を覚えて舌が肥えていた天龍とは対照的であった。

🔸田上明によると、ひどい悪ふざけをするが後輩の食事は必ず奢ってくれる天龍とは逆であり、特に奢ることはしなかった。

その一方で付き人時代の三沢によると、オフになると鶴田に食事に連れて行ってもらうことがあり「夢を持たせてくれたよね。”プロレスラーをやっていれば、こういう店に来れるんだ!”みたいなね」と回想している。

🔸佐藤昭雄は、鶴田に関して「馬場さんや猪木さんの様に『俺の会社なんだから、俺が作って、俺が客を一杯にしてやるんだ』という事には余り関心が無かったのかな。結局リングの中で良い試合をして、控室に帰って意気揚々とコメントをしても、常に馬場さんが葉巻を咥えて大きな態度で座っている訳で。ジャンボにもう一歩、物足りなさを感じたのはそういう所かもしれないね。それは何かというと、独立してお山の大将にならないと最終段階というのは作れないから。その点がジャンボには無かったかもしれない」と語っている。

🔸「ナチュラルな強さ」と評される事も多い。

弟子の三沢も「鶴田さんが筋力トレーニングをしているところを見たことがない。おそらく好きなテニスやバスケットボールを楽しみながら必要な筋肉を付けていたんだと思う」と著書の中で述べている。

生まれ持った運動基礎能力が格段に優れていたようで、吉田豪曰く「若い頃に山道を自転車で普通に走り回り、それだけで自然と超人的な体力が付き、特に目立った練習をしないままオリンピックに出られた人物」である。

大学1年生の時に「ずっと打ち込んで来たバスケでは、五輪出場は難しいかも」と不安を抱き、バスケを辞める事を決意する。

しかし鶴田は「僕は五輪に出たい。種目はなんでもいい。時間は3年間しかない」という強い想いから、各スポーツを検討した結果「アマレスなら希望がある」と想定してレスリングを選んだ。

しかしバスケットボール特待生で大学に入った男が「いくら頑張っても、五輪には出られないから」という理由でバスケを辞め、レスリングを始めるというのは理解出来ない事でもあった。

そのためレスリング部は鶴田の入部希望を断っている。

入部を断られて途方に暮れてしまった鶴田は、自衛隊体育学校では一般人でもレスリングが練習可能だと知り、そこで練習を始める。

自衛隊学校のコーチは鶴田の非凡な運動能力に気づき、本腰を入れて指導すると、鶴田は経験なしの状態からすぐに「全日本社会人選手権」と「国体」の両大会で優勝を果たした。

日本のアマレスレベルは、数多くのメダリストを輩出しているように非常に高く、驚異的な事であった。

少し前に鶴田の入部を断ったレスリング部からは逆に「鶴田君、是非こっちに来てくれないか?」と誘われるようになる。

鶴田は当初入部する気はなかったが、自衛隊体育学校のコーチから入部を薦められ所属した。

鶴田はレスリング経験が若干2年余りで、ミュンヘンオリンピック出場を勝ち取った。

しかしオリンピック本戦では、経験不足はどうしようにも出来ず、戦術の乏しさと国際ルールの不慣れに戸惑い、器用なヨーロッパ選手の敵ではなく、肝心の攻撃がほとんど出来る事なく警告負けに終わった。

🔸1985年の夏、B型肝炎のウィルスキャリアが判明してから本当にハードなトレーニングが出来なくなり、もっぱら趣味のスポーツで体力を維持していた。

それに対し天龍はオフでも週に5日は練習や稽古を欠かさない「稽古の鬼」であったが、ハードトレーニングをしなくても怪物的な強さを見せ付ける鶴田に「こいつと俺らは、持って生まれたものが違うんだなぁ」としみじみ思ったという。

三沢も自著で「鶴田さんは持って生まれたものが凄すぎた。レスラーに必要な能力を全て備えていた」と語っている。

🔸鶴田は自身が肝炎キャリアであることを自覚していながら、周囲のレスラーや関係者にはその事実を伏せてリングに上がっていた。

これは血液などの体液によって感染するB型肝炎では非常に危険かつ非常識な行為と言わざるを得ない。 

🔸天龍源一郎の証言「(鶴龍対決) 当時、すでにジャンボはB型肝炎のキャリアだったんだけど、本人以外には馬場さんしか知らなかったんだよね。

よくよく聞いたらジャンボは『流血戦になるようなことには付き合えないから…』って言ったらしいんだよね」

🔸レスリングでは鶴田よりも身長が13センチ低い小柄な磯貝頼秀に一度も勝利することが出来なかったなど、国内において無敵の選手であったとは言い難い面もある。

なお五輪など国際戦では外国人選手に全敗している。

しかし、ジャンボ鶴田試練の十番勝負の第7戦目では1972年ミュンヘン五輪レスリングの男子フリースタイル120kg級銅メダリストのクリス・テイラーに勝利している。

◼️天龍源一郎がジャンボ鶴田の故郷に墓参り、鶴田の兄に会う!

◼️明日の誓い 長州力

◼️Rolling Dreamer ジャンボ鶴田

◼️サヨナラは言わないで ジャンボ鶴田 1981年

◼️エマの面影 マイティ井上

上手い

◼️らしくもないぜ 木村健悟

上手い

◼️【武藤敬司/蝶野正洋】武藤が付き人をしていた木村健吾。師匠「木村健吾」の必殺技「稲妻レッグラリアート」を誰もやらない理由とは?

◼️燃えろ吠えろタイガーマスク 古舘伊知郎

◼️かえるの笛 ジャイアント馬場 結婚披露宴で意外な美声

◼️将軍KYワカマツ ストロング・マシーン We are No 1

◼️愛の魂 橋本真也

◼️青春のハリケーン 橋本真也

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