【タブー】昭和時代、高松には仏生山競馬場と高松競馬場があった! 文藝春秋社を創業した菊池寛が馬主として通っていた競馬場跡地と菊池寛の知られざる人物像とは?

◼️殆ど知られていないが高松には昔、昭和時代、競馬場があった。

ひとつは、1929年に開場した仏生山競馬場、そしてもう一箇所は、1946年に完成し、1947年から1954年まで開催した郷東町の高松競馬場。

文豪 菊池寛が通っていた仏生山競馬場は、法然寺の南側、平池の東側にあった。

高松七番丁出身の文豪 菊池寛は馬主として仏生山競馬場に通った。日本競馬会の雑誌『優駿』に随筆も寄せている。

◼️高松競馬場 (高松市郷東町)

◼️菊池寛の人物像

競馬については、入門本『日本競馬読本』を上梓したほか、戦前は馬主として多くの有力な競走馬を所有した。

1940年(昭和15年)の春の帝室御賞典を所有馬・トキノチカラで制し、能力検定競走として軍人や関係者約200名のみが観戦した1944年(昭和19年)の東京優駿も、所有馬・トキノチカヒを出走させた。

●将棋については、「人生は一局の将棋なり 指し直す能わず」というフレーズを作ったといわれる。

大映社内において、将棋好きの社長・菊池の影響で将棋が流行し始め、重役連も急に将棋の勉強を始めなければならなくなった。

稲垣浩は「ヘボ以下」を自認していたが、重役連とはいい勝負だった。菊池はそんなヘボ将棋でも熱心にのぞき込んで観戦し、「シロウト将棋はあとさきも考えないから、見ていてとても面白いネ」と言ってタバコの灰をポロポロ膝に落とし、愉快そうに目を細めていたという。

●秘書矢崎寧之の息子である矢崎泰久少年と将棋を指した時、泰久に木村義雄14世名人が助言をしたため菊池寛が負けた。怒った菊池は名人のいない所でもう一局指したが、泰久が指し手を記憶していたので返り討ちにあった。

●喫煙者であったが、灰皿を使う習慣がなかったらしく、畳や椅子の肘掛けで揉み消していたため、家中焼け焦げだらけであったという。

当然ながら灰をまき散らすことにも頓着しなかった。

●長谷川町子は菊池の書生だった自身の妹から菊池は「時には帯を引きずりながら出てくる」「時計を二つもはめていることがある」「汗かきで汗疹をかくと胸元がはだけ、厚い札束が顔を覗かせている」という3つの話だけを聞いたという。

●両性愛者の傾向があった。

旧制中学時代に4級下の下級生の渋谷彰に同性愛的思慕を持っていた。この渋谷に宛てた愛の手紙が多数現存する。

2人の文通はその後も続き、菊池が京大卒業後も文通はあるが、この頃は渋谷へ翻訳の仕事を与えようとするなど通常の手紙になってきている。

また、正妻以外に多数の愛人を持ち、その内の1人に小森和子がいた。

小森はあまりに易々と菊池に体を許そうとしため、菊池から「女性的な慎みがない」と非難されたという。

※小森和子 : 東京都港区育ち。奔放な性遍歴と率直な人柄の持ち主としても知られ、菊池寛川口松太郎檀一雄の愛人だったことを自ら述懐している。

●元・文藝春秋社編集者で、出版社・ジュリアンの代表取締役である菊池夏樹は、菊池寛の孫に当たる。2009年(平成21年)4月に『菊池寛急逝の夜』(白水社)を刊行。

◼️無事之名馬(ぶじこれめいば、無事是名馬とも)

無事之名馬とは、競走馬を指して「能力が多少劣っていても、怪我なく無事に走り続ける馬は名馬である」とする考え方を表した格言である。

馬主でもあった作家・菊池寛による造語として有名だが、実際は時事新報の岡田光一郎によるものである。

岡田はまた菊池の『日本競馬読本』の代筆も行っている。

菊池が競馬関係者から書を求められた際に、『臨済録』にある「無事是貴人(ぶじこれきにん)」に想を得て色紙に揮毫していたのが言葉の始まりとされた。

「無事是貴人」とは、本来「自然体の内に悟りを啓く者が貴人」という意味の禅語で、茶道において一年の無病息災を寿ぐ言葉として転用された。

菊池は日本競馬会の雑誌『優駿』に寄せた随筆で、馬主としての経験から「樂しみを覺える割合ひに較べれば、心配や憂鬱を味はふ時の方が多い。馬を持つてゐることの樂しみが二、三割だとすれば、心配や憂鬱の率は、まづ七、八割にも及ぶであらう。それも、大部分は馬の故障から来るのだ」と語り、「馬主にとつては、少しぐらゐ素質の秀でてゐるといふことよりも、常に無事であつてくれることが望ましい。『無事之名馬』の所以である」としている。

この考えは馬主のみならず多くの競馬関係者の共感を呼び、以後「無事之名馬」は頑健に走る馬を賞賛する言葉として使用されている。

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