【タブー】全日本プロレス 解説者 田鶴浜弘 (たづはま・ひろし) さんの持論を貫き通す信念! 伝説の発言集「この試合はスターウォーズを思い出します!」、「心臓にきてます!」、「脳神経をやられた!」、「没収試合!」、「馬場と上田は62対57で馬場」! 田鶴浜発言に柔軟に対応していた倉持隆夫アナウンサーの現在は?

◼️昭和時代の全日本プロレスの解説者 田鶴浜さんは、同じ言葉を繰り返し使う癖がおありになった。

多くの引き出しを持たれた方で、今でも印象に残っている解説をされた。

◼️テリーファンク vs ロッキー羽田

→ 「(テリー・ファンクは)脳神経をやられたですな!」

◼️【噛み合わない試合と噛みあわない解説】ブルーザー・ブロディ & スタン・ハンセン vs ミル・マスカラス & カラス

→ 「この試合は、スターウォーズを思い出します!」、「ローリング!」、「地上軍対空軍!」

◼️ジャイアント馬場、石川 vs シン、ミラノ

→ 「心臓にきてます!」

◼️ジャイアント馬場vsキラートアーカマタ PWFヘビー級選手権

→ 「没収試合」をあくまでも主張する田鶴浜弘さん

◼️シン vs ドリーファンクJr.

→ 「シン衛隊」、「あっ、ゴングが鳴りました!」、「試合じゃないです。痛めあいっこです!」

◼️ハーリー・レイス

→ 「レイスの凄さは大学生以上でないとわからない!」

◼️1980 01 21 ビリー・ロビンソン vs. タイガー・トグチ

→ 珍しく終始、普通に解説する田鶴浜さん

◼️ジャイアント馬場 vs 上田馬之助

→ 「私なりのレスリングの要素別の採点では62対57で馬場」、「しかし、リングを取り巻く人間模様があなどれない!」

◼️1980 ロッキー羽田 vs. 菅原信義

→ 田鶴浜さんの解説

◼️全日本プロレス 1981.06.10 リッキー・スティムボートVSジミー・スヌーカ

→ 「巌流島の決闘!」、「空中殺法時代の到来!」、「偽装」、「これは没収試合ですな!」、「人間格闘モデルの限界」

◼️ジミー・スヌーカ(Jimmy Snuka)

本名:James Reiher Snuka

1943年5月18日 – 2017年1月15日

フィジー出身のプロレスラー。

跳躍力を活かしたハイフライ・ムーヴにより、スーパーフライ(Superfly)のニックネームを持つ。

日本では「飛獣」なる異名が付けられた。

◼️その他の田鶴浜弘さん発言

●コロシアムでコロシアイですな。

●あけましておめでとうございました。

◼️倉持隆夫アナウンサー

倉持 隆夫(くらもち たかお)

1941年1月2日 –

日本テレビ放送網の元アナウンサー。

◼️来歴

東京都三鷹市出身。

東京都立豊多摩高等学校、早稲田大学法学部卒業。

早大在籍時には笹沢左保の書生を務めている。

1964年4月、アナウンサーとして日本テレビに入社。徳光和夫の薦めで『全日本プロレス中継』の実況アナウンサーの一員となる。

特に1976年頃からは清水一郎、徳光の後を受けたメインアナウンサーとなる。ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、ミル・マスカラス、ザ・ファンクスらの数々の名勝負を18年間にわたり実況。

独特の「倉持節」でプロレスファンを熱狂させ、1990年の実況最後の日には試合会場でウェーブが沸き起こるほどの支持を得た。

1990年から若林健治にメイン実況を譲って事業部へ異動。

その間、日本テレビ在籍のまま東京ケーブルネットワーク製作(日テレと資本関係にある)のジャパン女子プロレス実況や、NWAやWWFのビデオ実況も行っている。

1995年、日本テレビの親会社である読売新聞北陸支社・金沢総局へ出向して、系列局テレビ金沢のワイド番組『2時間ワイドじゃんけんぽん』のニュースキャスターを務める。

その後、報道部勤務を経て、2001年3月に定年退職。

日本テレビ所属として全日本プロレスの中継に関わり続けた関係上、全日本にとって「不倶戴天の敵」にあたるアントニオ猪木の試合の実況を担当したのは1979年8月26日に行われたプロレス夢のオールスター戦メインイベント、馬場・猪木組対アブドーラ・ザ・ブッチャー・タイガー・ジェット・シン戦のみだったが、退職後、『紙のプロレス』誌のインタビューや自らの著書で、自らが猪木に心酔していることをたびたび明かしており、実況アナとして活躍していた当時、猪木の試合の実況で人気を博した古舘伊知郎に嫉妬していたことも告白している。

金沢での勤務時代、同地を訪れた猪木と会う機会を得、人柄に魅せられたという。

夫人と共にスペイン・セビリアに移住していたが、現在は帰国し、日本に住んでいる。

◼️プロレス実況

🔸1977年世界オープンタッグ選手権最終戦・蔵前国技館でのザ・ファンクスVSザ・シーク&アブドーラ・ザ・ブッチャー戦、1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦最終戦におけるスタン・ハンセンの突然の乱入(試合後の乱闘騒ぎで「これは全日本プロレスのリング上だ!!」とコメントしている)、その翌年の馬場・ハンセンの初一騎討ちなど、全日本プロレスの歴史的瞬間に数多く立ち会う。

また1980年5月2日、後楽園ホールでのアブドーラ・ザ・ブッチャー対ザ・シーク戦で、倉持自身がザ・シークに襲撃され額を割られ救急車送りにされるという前代未聞のアクシデントにも遭遇した(ブッチャーVSシークは局の判断で未放送となったが、後年の懐古番組(日テレジータス・プロレスクラシックなど)で放送されることになる)。

🔸全日本プロレス中継レギュラー枠最後の実況は日本武道館におけるテリー・ゴディ・スティーブ・ウィリアムス組対ハンセン・天龍源一郎組の世界タッグ選手権。

ヒザを痛めていた天龍の不甲斐なさにハンセンと天龍が仲間割れしたシーンを「何だー!何だー!何が起こっている!」と実況。

リング上での挨拶では「会場の皆さん!視聴率が欲しいんです!」と述べている。

また、東京ドームで行われた「日米レスリングサミット」ではメインイベントのスタン・ハンセン対ハルク・ホーガン戦を実況。

フィニッシュが近づいたことを感じた倉持はレポートする徳光和夫を制し「ちょっと待ってください!実況を続けます!」と述べ、「ハルク・ホーガンのアックスボンバー!これがアックスボンバーだ!」と実況。これが全日本プロレス最後の実況となった。

◼️現在

◼️田鶴浜弘さん

田鶴浜 弘(たづはま ひろし)

1905年8月29日 – 1991年8月15日

日本のスポーツライター、プロレス評論家。

日本ボディビル協会の副会長も務めた。

早稲田大学卒業。

報知新聞記者を皮切りにスポーツ記者として広く活躍し、とりわけプロレスでは「プロレス評論家の草分け的存在」と称される。

日本初のプロレス専門誌『月刊プロレス』の創刊にも携わった。

1972年の全日本プロレス創立から1985年頃まで、日本テレビの『全日本プロレス中継』で解説者を務める。

なおメインの解説者は田鶴浜より28歳若い山田隆で、田鶴浜は二番手のポジションだった。

1975年に全日本で行われたオープン選手権では準備委員会の委員を務めた。

子供向け入門書を含め著書を多く発表している。

弟子に流智美がおり、流によると「そのレスラーの前に出た時、見せられないような物は書いてはいけない」と教えを受けたという。

漫画『キン肉マン』に登場する解説者のタザハマは田鶴浜がモデルである。

◼️田鶴浜弘さんのお墓 多摩霊園10区

◼️著書

◼️【全日本プロレス20周年記念】馬場、ハンセン、ドリー vs 鶴田、アンドレ、ゴディ

→ アンドレは膝の具合が良くないようだ。

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