◼️高松市屋島周辺
🔸六萬寺 (高松市牟礼町)
1183年、源平合戦の折、屋島の行宮ができるまで安徳天皇の行在所だった場所。
寿永2年(1183年)、源平の戦いの折に屋島の行宮ができるまで安徳天皇の行在所となった。
天正11年(1583年)に、ほとんどの堂宇が焼失するも、延宝6年(1678年)、広大な寺地の中で愛宕権現社があった所に現在の建物が復興された。

🔸安徳天皇社 (高松市屋島東)
臨時に皇居を設置した場所。安徳天皇の行宮。
安徳天皇社
寿永2年(1183年)、平宗盛は、安徳天皇を奉じて、一の谷から屋島に来た。この地は、壇の浦の入り江にのぞみ、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦には地の利を得たところであった為、平宗盛は、行宮を建て将士の陣営をつくった。安徳天皇社のあたりが行宮跡であったといわれている。(高松観光協会)
この頃の屋島は独立した島になっていた。干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は強襲を決意。寡兵であることを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏へと攻め込んだ。海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は狼狽し、内裏を捨てて、屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。


🔸神櫛王墓 (高松市牟礼町)
第12代景行天皇の皇子である神櫛皇子の古墳に治定。


🔸皇子神社 (高松市庵治町)
応神天皇の皇子ウジノワキイラツコ(宇治天皇)が星川建彦(仁徳天皇)の策略により宇治川にて暗殺された後、現在の天理市庵治から逃げてきた菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子と親族が建立した神社。
皇子神社のだんじりでウジノワキイラツコが宇治川で船を転覆させられ暗殺されたときの恐怖を再現している。台座で太を叩く少年は死装束に血を表す血のタスキをしている。天理市庵治村から高松市庵治へ逃げて来たウジノワキイラツコの子と親族が皇子神社を建てた。
🔸庵治の皇子神社のだんじり。少年たちの恐怖と祭神ウジノワキイラツコの恐怖が重なり見ていると涙が出てくるほどだ。





🔸鶴尾神社 (高松市西春日町)
鶴尾神社の祭神はウジノワキイラツコ。ウジノワキイラツコ(宇治天皇)を祀る神社は全国でも珍しい(宇治上神社、宇治神社、皇子神社、鶴尾神社)。
鶴尾神社裏山にある双方中円墳は和邇氏が造った菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子の墓ではないか。
ウジノワキイラツコの母は和邇氏の出身。
和邇氏の拠点は現在の天理市、
全国に5基しかない双方中円墳は奈良県天理市柳本町の櫛山古墳、高松市鶴尾神社裏山の猫塚古墳、鏡塚古墳、稲荷山北端1号墳。
櫛山古墳、猫塚古墳、鏡塚古墳は4世紀に造られた。応神天皇崩御は4世紀。




◼️プロフィール
