◼️富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」によると、忍者の祖は出雲王国の兵士とある。
出雲王国 副王の少名彦の職務は軍事であった。イズモ兵を組織し訓練にあたった。
イズモ兵が忍者の祖。3世紀以降に各地に散った兵士が出雲散家(サンカ)となった。出雲散家は秘密組織 散自出雲(さんよりいずも)を作り出雲王家の富家が指揮した。
丹波は出雲忍者の集団移住地だった。綾部市のJR山家駅近くに大親分のアヤタチの広い屋敷があった。
出雲散家の子孫 →伊賀、甲賀、楠木正成、豊臣秀吉など
◼️出雲王国とヤマト政権より
出雲王国の出雲兵士
出雲王国は、同じ信仰を持つ各地域の連合体として成立した。
しかし、他の地域に対抗勢力が現われ、王国の領土を脅かすことがあった。
そこで王国の利益を守るために、王家の兵士を中心に出雲兵の組織が調(ととの)えられた。
少名彦の職務は、軍事に関するものであった。
大祭の時、少名彦の王宮の広場では、軍事訓練大会が行われた。
これは、実際に侵入する外敵と戦うことを想定した訓練であった。
春には15歳〔古代の30歳〕、秋には30歳〔古代の60歳〕の男女が集められた。
訓練の内容は、次のようなものであった。
・基礎体力を養成するために、小川を飛び越えながら走る。
・成長の早い竹を毎日飛び越えることで、高い藪を飛び越える跳躍力を磨く。
・夜の暗闇の中で、猛スピードで野山を走る。
古代の夜は現代とは異なり闇が深かったので、その中を障害物に当たらないように暗闇の前方に棒を向けて走った。
障害物に当たれば、そこをよけて走り抜けるように訓練した。
武器の訓練として弓矢の射的や、石つぶてを的に当てる競技が行われた。
競技の結果が記録され、能力の順位が決められた。
上の順位の者が、各地区の軍事指導者に選ばれた。
王宮と各地との連絡網も作られた。
出雲兵は忍者の祖でもあった。
出雲王国が滅亡した3世紀以降に各地に散った王家の兵士は「出雲散家(さんか)」や「出雲忍者」と呼ばれた。
出雲では出雲散家のことを「山家(やまが)」や「山の人」と呼ぶこともあった。
彼らは「散自(さんより)出雲」という秘密組織をつくって、お互いに協力しあった。
出雲王国が滅亡したあと、富家はその秘密組織を指揮して各地の大事件の真相を探らせていた。
その結果、日本史の真実の情報は富家に集まり、代々伝えられることになった。
それで、富家は出雲では「日本史の家」と呼ばれた。
熊野大社〔松江市八雲町〕で春と夏に行われる大祭には、北は越前国から南は筑前国まで、各地の出雲散家の代表が参列し、聖山・熊野山〔天宮山〕を遥拝した。
彼らは、大社の近くの出雲散家の家で、白い装束に着替えてから参拝した。
そして祭りの際には必ず、代表者が富家に挨拶しに来ることになっていた。
祭りの後には、霊山・熊野山の樹木の小枝を持ち帰り、参拝の証拠として地元の人々に見せる習慣があった。
のちに杵築大社〔出雲大社〕ができてからは、彼らはその社に正月の元旦早朝に参拝するようになった。
その習慣は明治時代に途絶えてしまったが、富家と出雲散家の人々との間の付き合いは、今でも続いているという。
出雲散家の子孫は、明治時代ころまで各地で忍者として活躍していた。
丹波国は、出雲忍者の集団移住地であった。
綾部市のJR山家駅の近くには、アヤタチという大親分の広い屋敷があった。
出雲忍者の子供は年頃になると、そこに行って忍術を練習する習慣があった。
その練習とは、初めは幅のある小川を勢いをつけてなるべく遠くへ飛び越え逃げる練習だった。
その他、崖をよじ登ったり、樹木に素早く登って隠れたり、屋根の上を走り回る練習もあった。
身近な小物を使って攻撃し、相手がひるんだ隙に逃げる練習もあった。
サルタ彦大神を崇拝した出雲忍者の出身者には、能・狂言の観阿弥、世阿弥たちや、歌舞伎の出雲阿国がいて、芸能文化の発展にも大いに貢献した。
近代に学生の間で流行したデカンショ節は、その事情を示している。
丹波 篠山 山家のサル〔出雲忍者〕が ヨイヨイ
花のお江戸で芝居〔歌舞伎〕する ヨイヨイデッカンショ