◼️藤原 喜明(ふじわら よしあき)とは?
1949年4月27日 –
日本のプロレスラー。
プロレスラー以外に俳優、・タレント・イラストレーター・陶芸家・エッセイストとして活躍している。
関節技の鬼という異名をとり藤原組長の愛称で親しまれている。
◼️1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門。
そして入門の10日後である同月12日に和歌山県白浜町坂田会館にて藤波辰巳相手にデビュー戦を行う。
新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。
1975年、第2回カール・ゴッチ杯で木村たかしを破り優勝。
道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。
アントニオ猪木のスパーリング・パートナーにも抜擢され、海外遠征にも同行した。
海外では1976年秋にドイツにてホースト・ホフマンやクリス・テイラーと対戦。
1978年11月にローラン・ボックが猪木を招聘して開催したツアーにも同行しており、ミレ・ツルノ、ウィレム・ルスカ、ピート・ロバーツ、ジョニー・ロンドス、クラウス・ワラスらと対戦した。
1978年にはMSGシリーズの第1回大会に出場、予選トーナメント1回戦でマーティン・ジョーンズを下すも、2回戦でチーフ・ジェイ・ストロンボーに敗退、敗者復活戦でもバロン・シクルナに敗れて決勝リーグ進出は果たせなかった。
1979年の第2回大会においても、カネックに連敗して予選ブロックで姿を消している。
猪木の用心棒的な存在としてセメントの強さには定評があったものの、華やかさに欠ける藤原は、前座レスラーのポジションから脱することはできなかった。
しかし、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会において、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃、テロリストとして一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる。
以降、長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』にも毎回登場するようになり、独特の人相やファイトスタイルも相俟って一躍知名度が上がった)。
同年6月に第1次UWFに参加。持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー(佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。
新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、1993年にパンクラス、1995年に格闘探偵団バトラーツが分裂するという、2度に及ぶレスラーの大量離脱を経て、団体としての機能を失った。
以後はフリーランスとして選手活動を続けている。
◼️新日本プロレスに度々訪れた道場破りの多くと対戦したと語っている。
◼️プロレスラーという職業に関しては、自分は稼げなくなって金に困ったら自殺すればいいと思っているが、一方で仕事としての不安定さ、ギャンブル性を面白く思っている。
藤原はこれを「動物で例えるなら、ペットになるか、野生で生きるかだ」と2017年の専門誌の人生相談コーナーで述べている。
◼️アントニオ猪木 vs 藤原喜明
1986年
![](https://bizconsul.net/wp-content/uploads/2023/09/image-52.jpeg)
◼️1986年3月26日
Team UWF: Yoshiaki Fujiwara/Osamu Kido/Nobuhiko Takada/Kazuo Yamazaki/Akira Maeda
Team NJPW: Antonio Inoki/Tatsumi Fujinami/Kengo Kimura/Umanosuke Ueda/Kantaro Hoshino
![](https://bizconsul.net/wp-content/uploads/2023/09/image-62.jpeg)
![](https://bizconsul.net/wp-content/uploads/2023/09/image-53.jpeg)
◼️猪木さんとの関係を語る藤原喜明さん
◼️猪木との関係について語る藤原喜明さん
ノーブックのセメントマッチだったと言われているアクラム・ペールワン戦の話
◼️アントニオ猪木さん 最後の闘い
2022.03.02
https://m.bilibili.com/video/BV1La411M772
![](https://bizconsul.net/wp-content/uploads/2023/09/image-54.jpeg)