【タブー・貴重】アンドレ・ザ・ジャイアントの真実! インタビュー動画とエピソード! 「Fish Song」を歌うアンドレ! 素顔は人から受けた恩義を忘れない人情家! 裕福な家庭で育ち、知的でセルフプロデュース力に長けた人物!

◼️アンドレ・ザ・ジャイアント(André the Giant)とは?

本名:André René Roussimoff

1946年5月19日 – 1993年1月27日 (46歳没)

フランス出身のプロレスラー。

公式プロフィールでは身長が7フィート4インチ(約223cm)、体重が520ポンド(約236kg)

北米では「世界8番目の不思議(The 8th Wonder of the World)」、日本では「大巨人」などの異名で呼ばれた。

◼️世界一背が高い人は?

ロバート・パーシング・ワドロー(英: Robert Pershing Wadlow)

1918年2月22日 – 1940年7月15日

「疑う余地のない医学的な記録がある中で、最も身長の高い人間」としてギネス世界記録に認定されている男性。

死亡時の身長は272cmという前例のないものであり、体重は約200kgであった。

ワドローは成人後も死ぬまで身長が伸び続けこのような高身長になったのだが、それは脳下垂体腫瘍のためであった。

◼️フランスのセーヌ=エ=マルヌ県クロミエにて、ブルガリア出身の父親とポーランド出身の母親の元で生まれる。

少年時代からサッカー、ボクシング、レスリングなどに打ち込む。

裕福な農家の生まれ育ちであったが「農家は高校に行かなくて良い」と考えたため14歳で地元グルノーブルの中学校を卒業してからは高校に進学せず、農場勤務や木工の見習い、ベーラー専用エンジンの製造工場勤務などに励んだ。

1964年、18歳の時にパリでアンドレ “ザ・ブッチャー” ロシモフ(Andre “The Butcher” Rousimoff)としてデビュー。

『プロレススーパースター列伝』などで日本に流布していた「プロレスラーになる前にはきこりをしていて、山中にいるところをエドワード・カーペンティアに “発見” された」という逸話は事実ではなく、デビュー前はパリの家具運送会社に勤務しており、無名時代にカーペンティアに見出されたというのが真相である。

もっとも、南アフリカでのデビュー説もあるなどフランス時代の経歴については不明瞭な部分も多く、様々な説がある。

フランス時代はジェアン・フェレ(Géant Ferré / Giant Ferré)、モンスター・エッフェルタワー(Monster Eiffel Tower)

などの名義で活動していた。

◼️インタビュー

◼️インタビュー 

◼️インタビュー 歌うアンドレ⁉︎

◼️インタビュー

◼️俳優としての活動

◼️エピソード

🔸その巨体ゆえに投げ技をかけられることはほとんど無かったが、ハーリー・レイス、ハルク・ホーガン、スタン・ハンセン、ブラックジャック・マリガンなどのレスラーによってボディスラムで投げられている(マリガンは日本では報じられることはなかったが、1982年9月18日、WWFのフィラデルフィア大会における6人タッグマッチでアンドレを投げている。

また、試合中ではなく試合後の乱闘シーンにおいてだが、カマラも1983年2月12日、ルイジアナ州シュリーブポートでのMSWAのハウス・ショーでアンドレをボディスラムで投げている。

日本人で成功したのはストロング小林、アントニオ猪木、長州力の3人のみであり、アンドレをボディスラムで投げることがレスラーのステイタスとされた時期もあった。

アンドレ自身は「俺は気心の知れた奴にしかボディスラムを許さなかった」とハンセンへ語っていたといい、レイスは投げる時にアンドレが自分に「早くしろ」と囁いたと坂口憲二に語っていた。

メキシコではカネック、オーストリアではオットー・ワンツも成功しており、ブルーザー・ブロディもオーストラリアで投げたというが、これは非公式記録となっている。

新間寿の回想によると、猪木に投げられた時は「私はそこにはアンドレの思いやりがあったと思っている」とのこと。

これらの証言から踏ん張った状態のアンドレを本当に投げることのできたレスラーがどれだけ居たのかは不明。

🔸カール・ゴッチはモンスター・ロシモフ時代のアンドレをジャーマン・スープレックスで投げ切っており、当時のアンドレは全盛時ほどの体重ではなかったものの、これがスープレックス技でアンドレを投げた最初の記録とされている。

その後、ローラン・ボックも1979年12月15日にドイツのジンデルフィンゲンで行われた試合でアンドレを「背後から持ち上げ、仰向けに叩きつけるスープレックス」で投げたと発言しているが、これはジャーマン・スープレックスを放とうとしてバランスが崩れ、結果的にバックドロップのような形で投げたものと考えられている。

その写真は『週刊ファイト』の1982年1月5日号に掲載されたが、この試合のVTRを観た同紙の記者は、ボックはバックドロップ以外にも「ダブルアーム・スープレックスでジャイアントを斜め横ながら投げ捨てた」と報じている。

🔸ベースボール・マガジン社発行の『プロレス異人伝 来日外国人レスラー・グラフィティ』の「外国人係は見ていた」の項にてインタビューを受けたタイガー服部によると、アンドレはヒッププッシュを繰り出す際に放屁していたそうで、その臭いはリング内の選手やレフェリーはおろか、リング外にいるカメラマンや若手選手、リング最前列から10番目くらいの観客にまで届いたという。

これについては、朝日新聞2015年(平成27年)5月2日土曜日 beランキング、記憶に残る昭和の外国人レスラーの人気アンケートでアンドレは5位に入り、プロレス取材歴が半世紀におよぶ門馬忠雄が「外国人レスラーの最高峰に推しているが、彼には異界から来た者のオーラがありました。驚いたのは来日するたび、身長も体重もでかくなっていたことです。

晩年の体重は280(キロ)を超えていたでしょう。ワインをケースごと飲み干しというエピソードと共にゆで卵は一度に20個も食べるので、出す方も怪物じみていて、おならは鼻がひん曲がるほど臭かった」と語る。

記事は「時には試合中でも暴音とともに放たれた悪臭は、リングサイドをも阿鼻叫喚の地獄に一変させる、凶器の最臭兵器となった」と締めくくっている。

🔸キラー・カーンによれば、引退したのちにスタン・ハンセンやハルク・ホーガンと話した際、双方がアンドレは彼らをうまく持ち上げてくれたと証言し、アンドレには感謝しており、「あれほどのレスラーはもう出てこないだろう」と発言していた、とされる。カーン自身は「相手のいいところを出させてあげて試合を盛り上げる。一流中の一流」とコメントしている。

🔸マネージャーを務めたアーノルド・スコーランによるとかなりのアイデアマンで、日本で大巨人伝説がマンネリ化し始めて来た頃、レスラー以外の人間を襲撃するというアイデアを自ら猪木に提案した。

その際に襲撃されたのは気心の知れたレフェリーのミスター高橋やリングアナウンサーの田中秀和ら新日プロのスタッフであり、決してファンや一般人には手を出さなかった。

ただし、花道以外の通路から不意を突く形で入場し、観客を驚かせるといった少々悪戯めいたムーブはしばしば見られた。

🔸マイティ井上とは若手時代から親友の間柄であった。

アンドレは生涯独身を貫いたと言われているが、井上はアンドレに内縁の妻がいたこと、娘も一人いたことを明言している。

本名については、井上が見たアンドレのパスポートには「アンドレ・レネ・ロシモフ」と書かれていたというが「アンドレの本名はジャン・フェレだ」と雑誌インタビューでは答えている。

井上はフランス語が分からなかったが、アンドレの言うことは理解していた。

アンドレが新日本と提携していたWWFに転戦した後も親交は続き、国際へ特別参加した際も、井上は「WWFは大丈夫なのか? 怒られるだろ? ギャラも高いだろ?」と問い正したが、アンドレは「マクマホン・シニアの許可はもらった。ギャラはいくらでもいい」と答え、国際への特別参戦が実現した(新間寿によれば、新日本に対してマクマホン・シニアから新間に電話があり、「アンドレが国際に恩返しをしたいと言っている」と説明して了解を求めてきたため、新間は猪木と坂口に相談し新日本としては黙認することにしたという)。

井上と国際の吉原功社長がモントリオールを訪れた際には、日本での恩返しとして、アンドレが井上と吉原の食事代を負担したという。

🔸国際プロレス時代の縁から若松市政がジャイアント・マシーンのマネージャーに起用された。

アンドレは若松に恩義を感じており、若松がニューヨークを訪問した際、高級レストランに招待し、さらにWWFでマネージャーとして登場するつもりはないか、と勧誘した。

🔸現役時代からカーリーヘアのカツラを着用し、リングに上がっていた。

これはより一層巨大感を表現させるために着用していたという。

ただし後年はカーリーヘアーのカツラを外し、地毛のパーマヘアーで闘っている。

🔸アンドレは弁護士に渡してあった遺書の中で「死後48時間以内の火葬」を希望していたが、パリには彼の巨体に対応できる施設がなく、結局そのままアメリカへ移送された。

🔸レスラー、プロレス記者、団体バス運転手など、アンドレには日本人の友人知人が多くいたが、黒人に対しては嫌悪感を隠さなかったと言われる。

バッドニュース・アレンがアンドレの差別発言に激怒し、ホテルの屋上にアンドレを呼び出し「謝らなければここから突き落としてやる」と言って謝罪させたという逸話がある。

しかし、黒人レスラーのアーニー・ラッドとは親友同士で、両者は北米各地で抗争を展開できる気心の知れた仲だった。

同じくMSWA、WCCW、WWFなど各団体で抗争を繰り広げたカマラもアンドレのことを称えている(カマラのWWF入りはアンドレの仲介によるものだったという)。

また、アイスマン・キング・パーソンズ、S・D・ジョーンズ、ジャンクヤード・ドッグ、トニー・アトラスなど、WWFや南部エリアでアンドレのタッグ・パートナーを務めた黒人選手は数多い。

ロッキー・ジョンソンの息子のザ・ロックも、子供の頃にアンドレに可愛がってもらっていたという(ロックの自著『The Rock Says』には、アンドレに抱き上げられた少年時代のロックの写真が掲載されている)。

🔸1980年代前半、アンドレは日本のマスコミの取材を断り、新日本プロレスの外国人選手控室への入室を許可しなかった。

「IWGPチャンピオン・シリーズ」名古屋大会の翌日である1986年6月18日新日本プロレス千葉県松戸市大会において、アンドレは外国人選手控室への入室を許可した。

その際居合わせた東京スポーツの記者は「いつゲラヴェー(出て行け)と叫ぶのか」と最初のうちは恐怖に感じていたという。

新日本プロレス5月シリーズに参戦した際は、誕生日が休養日と同日になった場合に限り、毎年スタン・ハンセン、チャボ・ゲレロ、ボブ・バックランド、ディック・マードックなどを招待して誕生日パーティーを開催していた。

前述の通り、同時期のアンドレは日本のマスコミの取材を断っていた。

1985年の「IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ」に参戦した際、アンドレと京王プラザホテルの1階にあったレストランのウェイトレスと友人関係であった事から、東京スポーツのカメラマンがそのウェイトレスに対して「好物であるカリフォルニアワインを用意する」とアンドレの誕生日パーティー取材を依頼し、東京スポーツは1979年に新潟県長岡市の焼肉店で開催された誕生日パーティー以来、6年ぶりにアンドレの誕生日パーティーの取材を取り付ける事に成功した。

🔸藤波辰爾は、アンドレのジャイアント・マシーンへの変身について、「あれはアンドレのそれまでの実績を考えないで、『ワールドプロレスリング』の視聴率を最優先に考えての苦肉の策。

ジャイアント・マシーンは迷走していた当時の新日本の象徴だった」と述べている他、スーパー・ストロング・マシンも後年、「それを知った時には、新日本は本当に苦しいんだろうなと思った。俺への当てつけとは思わなかった。アンドレぐらいの大物が被るとなれば、それだけマシンというものに価値があったということの裏返しである」と述べている。

🔸1984年12月19日、ハワイNBCアリーナにおける興行の第8試合で、レフェリーを務めたことがある。

シバ・アフィ&ラーズ・アンダーソンvsマーク・ルーイン&ケビン・サリバンの試合を裁くも、敗れたルーイン組が判定への不服からアンドレに食って掛かり、乱闘寸前になったという。

それ以前の1978年にも、NWAのリッキー・スティムボートvsリック・フレアー、WWWFのダスティ・ローデスvsスーパースター・ビリー・グラハムなどの試合でスペシャル・レフェリーを担当した。

🔸当時外国人レスラーの相談役も務めていた新日本プロレスのレフェリー、ミスター高橋がアンドレが宿泊していたホテルへ出向き「実は覆面を被ってほしいんだ」とおそるおそる切り出した。

その際、差し出したのがジャイアント・マシーンのマスクである。

そのマスクを見たアンドレは大喜びし、早速その場で着けてみせ「どうかな、(高橋のニックネーム)ピーター。似合うかい?」と満足気にポーズをとったという。

高橋はプライドが高いアンドレは絶対に断るだろうと思っていたため、この反応は全く意外だったと後に述懐している。

なお、この時のマスクは当然、アンドレ自身から採寸したものではなく(バイク用のフルフェイスのヘルメットに合わせて作成したと言われる)、そのためジャイアント・マシーン登場当時はマスクがアンドレの頭にはフィットしていなかった。

後期には改めて新しいマスクが制作されている。

🔸スタン・ハンセンはアンドレを先輩として尊敬し続け、両者は新日本プロレスを去った後、全日本プロレスでほぼ10年ぶりの同行を喜び、試合後はよく二人で飲食に出かけた。

その際、よく話題になったのが既述の田園コロシアムの一戦で、互いに相手を称え飽きることなく語り合ったという。

🔸WWFに参戦したキラー・カーンとアンドレが対戦した際、アンドレが自身の過失で試合中に自分の足を痛めてしまい、それに気付いたカーンは機転をきかせトップロープからニー・ドロップを見舞った。

後日カーンは通訳を連れてアンドレの入院先へ見舞いに出向き、前述した試合の件について謝罪。

しかしそれを聞いたアンドレは大声で笑いのけ、「気にするな、あれはアクシデント。君の機転が無かったら試合が台無しになっていたところだった」と逆に励ましの言葉をかけたという。

さらにアンドレは「それよりも、あの試合は『キラー・カーンがアンドレ・ザ・ジャイアントの足をニー・ドロップで骨折させた』ということにしよう。

俺が退院したら、君との試合は盛り上がること間違いなしだ」と言い、格好のストーリーラインまで提案している。

このアングルは新日本プロレスに凱旋帰国したカーンの株を急上昇させ、彼を瞬く間にメインイベンターへ昇格させた原動力となった。

この頃の新日本プロレスは全日本プロレスとの外国人選手引き抜き合戦の挙句、スター選手を失ったのと同時に猪木とタイガーマスクが怪我で休場と痛手を被った時期でもあるが、代わってメインに上った「あのアンドレの足を骨折させた大型日本人レスラー」とアンドレとの対戦は興行を大いに盛り上げた。

🔸巨体ながら運動神経にも優れており、クロールで泳ぐこともできる。

🔸2017年にプロレスデビューしたアンドレザ・ジャイアントパンダは、アンドレにちなんで名付けられた。

🔸1987年に脳腫瘍で死去したスコット・アーウィンは、1980年代前半にフロリダやジョージアなどアメリカ南部でアンドレと抗争を繰り広げていたが、余命いくばくもないと診断された際、かつての仲間やライバル達の家を最期の別れと感謝のために訪ねて周り、アンドレの家にも訪れた。

その時アンドレは、アーウィンを抱きしめて号泣したという。

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