【タブー】長州力のかませ犬発言から始まる抗争アングルの発案者は誰だったのか? 武藤、橋本、蝶野の闘魂三銃士が誕生した会社の裏事情とは?

◼️「かませ犬発言」とは?

1982年7月23日、メキシコ遠征においてカネックを破り、UWA世界ヘビー級王座を獲得。

9月26日に奪還されるも、当時のメキシコのマット界における重量級の第一人者であったカネックから世界王座を奪取し、2ヶ月間に渡って戴冠した。

凱旋帰国後、それまでの短髪パーマからストレートの長髪にイメージチェンジした長州は、10月8日に後楽園ホールで行われた猪木&藤波と組んでのアブドーラ・ザ・ブッチャー、アレン、S・D・ジョーンズ組との6人タッグマッチにおいて、藤波と仲間割れして新日本正規軍に謀反を起こす。

以後、一躍ブレイクを果たすこととなった。

そのきっかけとなったのは、試合前のマイクアピールで「藤波、俺はお前の噛ませ犬ではない」と発言したことからとされているが、長州が実際に発した言葉は「なんで俺がお前の前を歩かなきゃいけないんだ。なんで、俺がお前の前にコールされなきゃいけないんだ」であった(格下が先に入場し先にリングアナウンサーに紹介されるのが業界の慣わしである)。

🔸かませ犬発言事件の試合

長州からのタッチを受けない藤波辰爾

長州と藤波の争いに無関心を装う猪木。

藤波は年下ではあるが先輩であり、長州との試合では6戦6勝と、この時点では人気・実績共に圧倒的に勝っていたが、メキシコ遠征での世界王座戴冠を機に、それまで燻っていた長州にチャンスを与えるべく、猪木の発案で藤波との抗争アングルがスタートしたとされる。

「噛ませ犬」という言葉が取り上げられるようになったのは、長州が雑誌『ビッグ・レスラー』1982年12月号(立風書房)における造反直後の単独インタビューの中で「だけど、ここで自分を主張できなかったら、僕は一生 ”かませ犬” のままで終わってしまうんですよ」とコメントしたことに対し「藤波のかませ犬になるのは、もうごめんだ!」というインタビュータイトルが付けられたことが発端であった。

その後、当時『ワールドプロレスリング』のアナウンサーだった古舘伊知郎が実況の中でも「かませ犬」という例えを多用。

実際に本人が発した言葉ではないが「俺はお前の噛ませ犬じゃない」という台詞は、造反に至った長州の心情を明確に印象付ける表現として浸透していった。

2019年のターザン山本の分析によると「ジャンボ鶴田に先を越された心労によって『噛ませ犬じゃない』という言葉になって怒りが出た」とのこと。

山本は当時の長州の状態をうつ病に喩えていた。

ファンもまた、そうした長州の心境を真実と捉え、その行動を支持するに至った。

◼️「革命戦士」へ

造反後、1982年11月のWWFへの短期遠征(ヒールのポジションでマサ斎藤のパートナーとなり、22日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてロッキー・ジョンソン&トニー・ガレアと、25日にはフィラデルフィアのスペクトラムにてペドロ・モラレス&サルバトーレ・ベロモと対戦)を経て、師と仰ぐ斎藤やキラー・カーンと共に、1983年より「革命軍」を結成。当時の体制に反旗を翻す。

さらに、ラッシャー木村率いる国際軍団を振り切る形で長州と活動を共にしたアニマル浜口、浜口と同じく国際軍団を離れた寺西勇、タイガーマスクとの抗争で同じく新日本正規軍を敵に回していた小林邦昭、そしてレスリング日本一の触れ込みで新日本入団後、海外武者修行に出て帰国した長州の弟子ともいえる谷津嘉章らを加えて「維新軍」を結成する。

また、アメリカで活動するタイガー戸口(キム・ドク)も時折、維新軍に同行した。

試合においては、1981年末に全日本プロレスに転出したスタン・ハンセンのウエスタン・ラリアットをコピーした「リキ・ラリアット」を使うようになり、ハンセンのファイトスタイルを取り入れた攻撃主体の「ハイスパート・レスリング」を確立(ハンセンが新日本プロレスに参戦していた当時、長州は何度もウエスタン・ラリアットを浴びていた)。

ニューヨークにて発掘されたWWFインターナショナル・ヘビー級王座を巡って藤波と「名勝負数え唄」と謳われる連戦を繰り広げ、1983年4月3日には藤波からピンフォール勝ちを収めて王座奪取。

「俺の人生にも一度くらいこんなことがあってもいいだろう」というコメントを残した。

新日本正規軍と維新軍の軍団抗争では、ボブ・オートン・ジュニア&アドリアン・アドニスを模したツープラトン攻撃を駆使し、タッグマッチにおける合体技をマット界に広めた。

1984年6月1日には高松市民文化センターで行われたIWGPリーグ戦(第二回大会)において、アンドレ・ザ・ジャイアントをボディスラムで投げることに成功している(試合には敗退)。

しかし、トーキックを誤って入れてしまうなど、不器用なファイトぶりが外国人レスラーには不評であったという。

同大会では、6月14日の蔵前国技館における猪木対ハルク・ホーガンの優勝決定戦に突如乱入、両者にリキ・ラリアットを放った。

結果として猪木がリングアウト勝ちによる優勝を収めたが、試合を破壊されたことに納得しない観客による大規模な暴力行為が勃発、新日本プロレス史上初となる本格的な暴動事件を引き起こした。

🔸1984年6月14日 猪木vsホーガン戦に乱入した長州力

レフェリーを務めたミスター高橋は、この乱入劇は猪木自身の発案によるアングルであり、長州本人は気乗りせず仕方なく従ったが、この事件が会社への不信感につながり新日本プロレスを離脱する一因になったのではないかとしている。

同年8月2日、離脱前における猪木との最後のシングルマッチが行われた。

◼️ジャパンプロレス旗揚げ – 全日本プロレス参戦

1984年9月21日をもって長州ら維新軍は新日本プロレスを退団。

その後、ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて戦場を全日本プロレスへと移した。

UWFに続き、長州および維新軍にも去られた新日本は選手が不足し、窮余の策として若手を登用、これが後の闘魂三銃士の隆盛に繋がる。

1985年2月21日にはジャパンプロレス主催の大阪城ホール大会において、

天龍源一郎との初のシングルマッチが実現。リングアウト勝ちを収めた。

全日本プロレスのエースであったジャンボ鶴田とは、同年11月4日、同じく大阪城ホールでのジャパンプロレス主催興行におけるメインイベントにて60分フルタイムの激闘を展開した。

この試合は同年のプロレス大賞において年間最高試合賞(ベストバウト)を獲得した。

全日本マットでは、ブルーザー・ブロディ、ハーリー・レイス、ニック・ボックウィンクル、ドリー・ファンク・ジュニア、リック・フレアーといった、当時の全日本プロレスならではの豪華外国人選手達とも対戦した。

1985年3月14日には愛知県体育館にてロード・ウォリアーズのAWA世界タッグ王座(パートナーはキラー・カーン)、同年4月23日には相模原市立総合体育館にてフレアーのNWA世界ヘビー級王座と、当時のアメリカにおけるメジャー団体のビッグタイトルにも挑戦している。

1986年2月5日、谷津と組んで鶴田&天龍の鶴龍コンビからインターナショナル・タッグ王座を奪取(谷津がジャーマン・スープレックスで天龍からフォール勝ち)。

さらに、2か月後の4月5日にはハンセンを破ってPWFヘビー級王座を奪取(この試合はAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチとして行われ、試合ではPWFとAWA両方のルールが適用された。

試合はハンセンの反則による決着となったため、反則では王座移動が無いAWA王座はハンセンの防衛となり、PWF王座のみが移動した)。

PWF王座は全日本創設以来の看板タイトルで、この時点で鶴田も天龍も奪取していなかった。

以降、テリー・ゴディ、テリー・ファンク、カート・ヘニングらを相手に防衛に成功するなど、全日本マットの頂点に立った。

しかし、ジャパンプロレスの自主興行は不入り続きで利益が上がらず、竹田勝司会長ら経営首脳陣とも金銭的な問題で対立するようになる(ジャパンプロレスの施設は竹田会長個人が購買していた竹田会長の所有物であり、それゆえ竹田会長は家賃を含めてジャパンプロレスから200万円の給料を支給されていたが、それに対して長州は、当時のバブル経済下で金銭感覚が麻痺していたこともあり、逆恨みに近い形で不満を抱いていた)。

TBSとのテレビ放送の契約も土壇場で白紙になり、ジャパンプロレスの完全独立も不可能な状態になっていた。

そうした状況下、新日本の倍賞鉄夫(当時:『INOKI闘魂LIVE』実行委員長)は、ジャパンの大塚直樹副会長と反目していた加藤一良専務を通じて長州に接触、1億円の移籍金を提示して新日本への復帰を打診する。

当時、長州自身も経済的に困窮していたこともあり、新日本への出戻りを決意するに至った。

1987年2月から手首の嚢腫(ガングリオン)を理由に全日本のシリーズを欠場し、その流れで新日本に復帰。

契約問題で全日本プロレス会長のジャイアント馬場および日本テレビとの騒動に発展した。

長州は追放処分となったが、追放されたことで全日本やジャパンのリングに上がれなくなったため、新日本に戻る以外、長州には選択肢が無くなった。

その結果、新日本側が長州よりも立場が優位になり、移籍金は当初提示されていた1億円の10%=1000万円程度に安くなってしまったという。

全日本プロレスへの参戦期間は決して長くは無かったものの、「攻め」のレスリングを主体とする新日本での猪木や藤波との一連の抗争に加えて、全日本流の「受け」のプロレスにも触れたことで、長州のファイトスタイルは徐々に幅が広がり、新日本マット復帰後4年を経た1991年あたりからはもっぱら「受け」のレスリングを展開するようになった。

平成維震軍の一員として長州政権下の新日マットに上がったザ・グレート・カブキは、長州のファイトスタイルの変化に感心したという。

天龍は、それまでオールドファッションなアメリカン・プロレススタイルが主流であった全日本にハイスパート・レスリングを持ち込んだ長州に刺激を受け、ライバル意識をムキ出しにしたことで注目されることとなった。

後の天龍革命は長州の維新革命に触発されたものであることを公言している。

御大の馬場とは年末の世界最強タッグ決定リーグ戦のみの対戦だったが、長州は馬場のリーダー像に一目置いており、「(馬場さんは)大人物だった。人のことをよーく見ている」と回顧している。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です