【タブー】隠された海軍きっての秀才 樋端久利雄(といばな・くりお) 海軍大佐! 山本五十六連合艦隊司令長官と共にブーゲンビル島上空で戦死! 存命していれば太平洋戦争の様相を変えていた逸材! 香川県東かがわ市の大川中学校(現・三本松高校)卒業!海軍兵学校首席卒業、海軍大学校首席卒業!

◼️樋端 久利雄(といばな くりお)とは?

1903年(明治36年)8月1日 – 1943年(昭和18年)4月18日

日本の海軍軍人

香川県立大川中学校(現・三本松高校)卒業

海軍兵学校51期首席卒業

海軍大学校甲種33期首席卒業

海軍甲事件で戦死し、一階級特進で最終階級は海軍大佐。

◼️経歴

1903年(明治36年)8月1日、香川県白鳥本町で農業を営む父・樋端荒吉と母・モトの六人兄弟の第五子、三男として生れる。

大川中学校を経て、1920年(大正9年)8月26日、海軍兵学校第51期入校。

同期に小園安名、山本祐二、大井篤らがいる。

樋端は兵学校の前後数クラスで群を抜いた秀才であり、将来を嘱望されていた。

しかし、人柄は一見鋭さを感じさせないもので、思考に集中しているときは口元が締まらずぼんやりしているように見え、特に体力的に恵まれていたわけではなかった。

しかし、全校生徒が参加した弥山登山競技では1位となった。

※弥山(みせん)は広島県廿日市市宮島町の宮島(厳島)の中央部にある標高535 mの山。古くからの信仰の対象になっている。

●海軍兵学校があった江田島

1923年(大正12年)7月14日、海軍兵学校51期を首席で卒業。

少尉候補生、練習艦「磐手」乗組。

1924年(大正13年)12月、海軍少尉に任官。

戦艦「長門」乗組。

1926年(大正15年)9月、第15期飛行学生着任。

横須賀海軍航空隊付。

水上機母艦「能登呂」乗組。

霞ヶ浦海軍航空隊教官。

1928年12月30日、井上繁則(海軍大佐)の娘・千代と結婚。

1929年(昭和4年)、フランス駐在日本大使館付武官補佐官。

軍令部付国際連盟代表随員としてジュネーブ軍縮会議に同行。

1932年(昭和7年)、横須賀海軍航空隊分隊長。

樋端の考案した九二式爆撃照準器が採用される。

1933年(昭和8年)12月1日、海軍大学校(甲種33期)を入学、 1935年(昭和10年)10月、首席で卒業。

樋端は空母の飛行機は全部集め集団として使用し、総合的に攻撃力を発揮すべきとした。

教官だった小沢治三郎は「俺に航空戦術を教えてくれたのは山岡三子夫、樋端久利雄、それから木田達彦」と語っている。

軍令部第1部第1課部員兼出仕。

支那方面艦隊兼第三艦隊参謀。兼中支那派遣軍参謀。

誤爆によるパネー号事件が起こる。

重慶爆撃では、敵も迎撃するが、爆撃機と戦闘機で向かっては不利だから敵戦闘機の燃料が十分でなくその燃料が途切れるまで待ってから爆撃を敢行する「樋端ターン戦法」で戦果を上げ、「泣く子も黙る」と樋端の部隊は新聞で取り上げられた。

1938年(昭和13年)12月、連合艦隊参謀。

部下の作成した書類を細かく訂正することで知られた吉田善吾連合艦隊司令長官も樋端の作成したものを訂正することはほとんど無かった。

1939年(昭和14年)11月15日、海軍中佐に進級、第十五航空隊飛行長[。

1940年(昭和15年)11月15日、海軍省軍務局第1課A局員。

1941年(昭和16年)12月8日、太平洋戦争開戦。

1942年(昭和17年)11月20日、連合艦隊航空甲参謀。

 

◼️1943年(昭和18年)4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官に随行し、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、乗機「一式陸上攻撃機」をアメリカ陸軍航空軍「P-38戦闘機」に撃墜され戦死し(海軍甲事件)、海軍大佐に特進した。

「帝国海軍の至宝」「昭和の秋山真之」と評され将来を嘱望された樋端の戦死をしばらく隠していたため、戦後の海軍戦史に名が出ることが少なかったが、’92(H4)衣川宏(海兵78期)の『ブーゲンビリアの花』が出版され樋端の名が世に知られるようになった。

※妻の千代の父は海軍大佐の井上繁則(13-1-27)。井上繁則は山本五十六と兵学校時代の同期。1928.12.30(S3)久利雄と千代は結婚。一男一女を儲ける。長男の樋端一雄は新聞記者。

●ソロモン諸島

●ブーゲンビル島

◼️海軍甲事件

撃墜された山本長官搭乗機
1943年(昭和18年)4月

◼️事件に関する諸説

山本の戦死を報じた当時の公式発表では、山本の遺体の発見状況を「提督は機上で敵弾を受け、軍刀を手に、泰然として戦死しておられた」と発表された。

「軍医の遺体検死記録によると、「死因は戦闘機機銃弾がこめかみ(眦とも)から下顎を貫通した事によるもの」という結論が出され、ほぼ即死状態であったと推察されている。

しかし山本が搭乗していた一式陸上攻撃機を銃撃したP-38戦闘機の機銃は12.7mm4門及び20mm1門であり、検死記録の事実通りであれば頭半分は吹き飛ぶはずである。

こういった疑問点から山本の頭部を打ち抜いていたのは、拳銃弾などの小口径の銃弾であった可能性が否定できず、こういった疑問点から「山本自決説」「第三者による射殺説」が論じられることがある。

◼️山本の遺体を最初に発見した第6師団第23連隊の浜砂盈栄陸軍少尉の証言によれば、「山本長官の遺体は座席と共に放り出されていた。そして軍医長が地を這って近寄ろうとして絶命した痕跡を残していた」という。

地上から収容にあたった陸軍第17軍第6師団歩兵第23連隊の蜷川親博軍医中尉(のち大尉。1944年12月戦病死)の検死調書には、遺体に銃創は無かったとの記述がみられる。

山本の墜落現場に向かった各部隊の長、同連隊の浜砂少尉・中村見習士官・海軍佐世保鎮守府第6特別陸戦隊吉田少尉も同様に、山本の顔面には弾丸による傷痕はなかったと証言。が、前述の4士官の後に山本の遺体を正式に死体検分した田淵海軍軍医少佐は、顔面に銃弾による傷跡があったと証言している。

蜷川軍医中尉の実弟である蜷川親正(医学博士)は、山本の遺体には顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創はなく、座席に座って救助を待っていたが、全身打撲か内臓破裂により19日早朝に死亡したものとの見解を示している。

蜷川によれば、検案記録等にある顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創は、機上戦死や即死を演出するために死後損傷が加えられたとのことである。

山本五十六

山本 五十六(やまもと いそろく)

1884年〈明治17年〉4月4日 – 1943年〈昭和18年〉4月18日)

日本の海軍軍人。

最終階級は元帥海軍大将。

栄典は正三位大勲位功一級。

旧姓は、高野(たかの)。

海軍兵学校32期生。

第26、27代連合艦隊司令長官。

前線視察の際、ブーゲンビル島の上空で戦死(海軍甲事件)。

皇族・華族以外で、日本における国葬の栄誉を受けた最初の人物である。

◼️樋端の戦死が知らされると若手将校たちから「長官に代わりはあるが、樋端に代わる人材がいるか、日露戦争において日本海海戦を大勝利に導いた秋山真之参謀に匹敵するとも言われる逸材を失った海軍の損失は余りにも大きい」との声があがった。

◼️源田実は「この人に全海軍の作戦を預けて存分にその明快極まる脳味噌を働かせてもらいたかった。この人がもっと永く生き残り、もっと働ける立場にあったならば、太平洋戦争の様相はもっと変わっていたかもしれない」という。

◼️源田 実(げんだ みのる)

旧字体: 源田實、

1904年(明治37年)8月16日 – 1989年(平成元年)8月15日)

日本の海軍軍人、航空自衛官、政治家。

海軍では海兵52期を卒業し、最終階級は大佐。

戦闘機パイロット、航空参謀を歴任し、第三四三海軍航空隊司令として終戦を迎えた。

自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長を務め、ブルーインパルスを創設した。

航空自衛隊の育ての親。

政治家としては参議院議員を4期24年務めた。

赤十字飛行隊の初代飛行隊長を務める。

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