讃岐に幕末の志士がいたことを知る人は少ない。
地元の香川県人でさえ知らない。
それが琴平の勤王博徒 日柳燕石だ。
🟣日柳 燕石とは?
日柳 燕石(くさなぎ えんせき)
文化14年3月14日(1817年4月29日) – 慶応4年8月25日(1868年10月10日)
江戸時代末期の志士。
讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。
幼名 長次郎のち耕吉、諱は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。
●生涯
父は加島屋惣兵衛という。
幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後13歳で琴平(松尾村)の医師・三井雪航に学んだ。
三井雪航や岩村南里に経史・詩文、奈良松荘に国学・歌学を学び、河野鉄兜や森田節斎らと交遊した。
詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。
当時の榎井村は幕府直轄地で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の松尾村の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅大権現 松尾寺に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。
そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには四書五経を読破した。
反面、侠気をもって知られ、21歳で父母に死別したのちに家督を相続して詩作に興じ33歳頃まで遊俠したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていた。
また勤王の志が非常に厚く、天下の志士と交わり国事のために私財を投げ出して尽力した。
勤王博徒と呼ばれる所以である。
文久末年頃より長土諸藩の志士で幕吏の追跡を受けて彼の家に潜匿するものが多く、よくこれらの志士を庇護していたが、慶応元年(1865年)5月に、高杉晋作が幕吏に追われて榎井村に燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿・逃亡させたことから嫌疑を受けて、高杉の身代りに約3年間のあいだ高松の獄に幽せられた。
鳥羽・伏見の戦いの後、慶応4年(1868年)正月20日に出獄したが、これは高松藩が朝敵の汚名を被ることを恐れたためである。
その後、赦免の朝命に接して京都に上って書を奉った。
朝廷は召して御盃を賜い燕石を桂小五郎(木戸孝允)と共に西国地方に周旋させた。
その後、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、史官に任じられて軍務方記録を掌り、北陸に従軍したが4年間の投獄がもとで従軍中不幸にも越後柏崎で病没した。
52歳であった。
墓は新潟県柏崎市の柏崎招魂所に立てられたが、爪髪は香川県仲多度郡琴平町榎井の先祖の墓所に日柳燕石士煥の墓として立てられている。
明治36年(1903年)、従四位を追贈された。
🟣人物
●燕石と交友があった志士の中には、長州藩の吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊介、土佐藩の中岡慎太郎や越後の長谷川正傑らがいたと言われる。
●燕石の別宅は、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、“象頭山を呑む”意気を示す「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられた。
●呑象楼は興泉寺の前にあったが、現在は榎井小学校北西に移築されている。
●琴平町ホームページ
https://www.town.kotohira.kagawa.jp/soshiki/3/1703.html
●日柳燕石生家跡、墓所
●呑象楼跡
●著書には「呑象樓遺稿」「西遊詩草」「旅の恥かき捨ての日記」や、獄中で著した「皇国千字文」「娑婆歌三関」などがある。
高杉を匿い出獄をした際の歌 「いせ海老の腰はしばらくかがめて居れど、やがて錦の鎧着る」
◼️日柳燕石
没年:明治1.8.25(1868.10.10)
生年:文化14(1817)
幕末の勤皇博徒。
本名: 加島屋長次郎。
日柳燕石は漢詩人としての雅号。
讃岐国(香川県)榎井村生まれ。
生家 加島屋は質屋兼地主で裕福であり、幼少より漢籍に親しんで学もあったが、榎井村の隣が金比羅様社領で博奕も盛んだったことから博徒になった。
16歳ごろからの遊蕩で生家を食いつぶしたが、金比羅様の賭場からあがるテラ銭で潤沢。
高松藩勤皇派の魁で藩主一族の松平左近の影響で勤皇派になり、安政2(1855)年同藩勤皇派と組んで挙兵を計画し、6年に兵器製造、文久3(1863)年には軍費2000両の調達にかかったが、露見して藩士たちは捕らえられたものの燕石は無事。
慶応1(1865)年長州の高杉晋作が紅屋喜助の変名で妾 おうのと四国へ逃げてきたのをかくまった。
高杉の奇兵隊に博徒出身者が多いのは燕石との付き合いからだといわれる。
高杉のほかにもかくまわれた勤皇の志士は多く、燕石から漢詩をもらってその志を称されているが、サムライが博奕打に漢詩をもらうのも妙。
慶応1年閏5月に逮捕され、明治1(1868)年出獄後、征討総督仁和寺宮(彰仁親王)の日誌方として奥羽戦争に参戦し、柏崎の陣中で病没した。
維新の内戦に参加した博徒は多いが、勤皇派は燕石、佐幕派は新門辰五郎が代表。
<著作>『椚蝨余話』
<参考文献> 田村栄太郎『やくざ考』
🟣2018 日柳燕石 百五十回忌 幕末の志士、侠客、詩人で高杉晋作、吉田松陰と交わる。
🟣【特集】全部「春暁」(日柳燕石作)
🟣詩吟 「娑婆歌」 日柳燕石
◼️松平 頼該(まつだいら よりかね)とは?
通称 松平左近
江戸時代後期の高松松平家御厄介(一門)。
仏教改革者。
通称は左近(さこん)。
号は橘斎、橘舎、金岳、如水庵。
別称に宮脇公。
幼名は隆之丞、道之助。
江戸小石川出身。
●略歴
高松藩8代藩主・松平頼儀の長男として誕生した。
異母弟の頼胤が生まれると疎まれ、8歳のとき国元高松に移される。
31歳で高松藩城下の宮脇村亀阜荘(現在の高松市立亀阜小学校)へ隠居する。
その後、幕末の勤皇志士と交わり、日柳燕石、藤川三渓らを庇護した。
また本門法華宗の高松八品講を組織する。
●戊辰戦争で高松藩は、慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いに幕府側として加わったことから朝敵となり、官軍による征討の対象となった。
藩内には、官軍を迎え討って戦火を交えることを辞さない意見もあったが、頼該が藩論をまとめ、1月18日に家老の小河又右衛門久成(おごう またうえもんひさしげ)と小夫兵庫正容(おぶ ひょうごまさしず)を切腹させて首を鎮撫使に差出し、藩主頼聰を城から出させて浄願寺にて謹慎させ、官軍に恭順を示し高松藩を戦火から救った。
頼該は同年のうちに死去した。
享年60。
本行院殿慈門金岳源該日教大居士を諡され、高松本堯寺(ほんぎょうじ)に埋葬された。
大正4年(1915年)11月、贈正四位。
●霊廟
松平頼該が祀られている本堯寺の霊廟は、木造平屋建、瓦葺で16平方メートル。
1868年(明治元年)に建築され、1909年(明治42年)に改修。
墓石がある奥殿と拝殿が相の間でつながれており、複合社殿形式をもつ武家廟所の遺例として希少であることから、2019年(令和元年)12月5日登録有形文化財(建造物)に指定された。
森様、この記事の中で日柳燕石が「仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、史官に任じられて軍務方記録を掌り、北陸に従軍した」とあります。私は香川県三豊市の出身で、今、信州上田に住んでおりますが、近くに昔の「北国街道」があり、戊辰戦争のとき、江戸からこの街道を、仁和寺宮嘉彰親王が錦の御旗のもと、 官軍を率いて、越後長岡に進軍していきました。この時、仁和寺宮と官軍が休憩したところやゆかりのある神社に、石碑などが残っております(注1)。今数ある写真の中からそれを見出そうとしたのですが、多数に紛れてお見せできません。しかしながら、この官軍の中に、香川県琴平出身の日柳燕石が、祐筆として従軍していたのを、森様のこの記事で知って、大変感動しました。
素晴らしい記事をありがとうございました。
注(1)例えば、この碑文の中に出てく小松宮彰仁親王は改名後の名前で、仁和寺宮嘉彰親王と同一人物:cf. http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s02.htm
太田様
はじめまして。コメントを頂きまして有難うございます。励みになります。
また非常に興味深い「科野大宮の碑から上田の歴史を考察」を送って頂きありがとうございます。拝読させて頂きます。
讃岐にも幕末の志士達がいて高松藩の松平左近により比護されていたようです。多くの他藩の志士達を匿い助けた日柳燕石のことが世に広まることを願っています。
ありがとうございました。