【タブー】ザ・デストロイヤー! 名門シラキュース大学院卒業のプロレスラー! フリーメーソンのメンバー! 人気番組「うわさのチャンネル」でも活躍! 旭日双光章を受章! 感動の引退試合とインタビュー動画!

◼️ザ・デストロイヤーとは?

ディック “ザ・デストロイヤー” ベイヤー

Dick “The Destroyer” Beyer

https://en.m.wikipedia.org/wiki/Dick_Beyer

本名:Richard John Beyer

1930年7月11日 – 2019年3月7日

アメリカ合衆国のプロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。

日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山やジャイアント馬場と対戦。

テレビタレントとしても活躍した。

息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。

シラキュース大学教育学部卒業、シラキュース大学大学院修士課程修了。

在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーとしての活動も並行して始めた。

●【記事】Dick Beyer dies; Syracuse football player gained fame as wrestler ‘The Destroyer’

https://www.syracuse.com/orangefootball/2019/03/dick-beyer-dies-syracuse-football-player-gained-fame-as-wrestler-the-destroyer.html

●デストロイヤーは、そのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子、せんだみつおら)にレギュラー出演し、和田に「おいデストロイヤー、こっちこい」などぞんざいに扱われて戸惑うなどコメディアン(ボケキャラ)としてのセンスを見せリングの外でも人気を博した。

番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「俺はギャラがないんだぞ!」「数日後には父親参観なんだよ俺」と叫びながら悶絶する姿が見られた。

デストロイヤーの『うわさのチャンネル!!』への出演は、当時『全日本プロレス中継』のプロデューサーであった原章が考えたアイデアだった。

1979年6月、日本でのレギュラー出場に一旦終止符を打ち北米のマット界へ再び主戦場を移したが、その「日本陣営引退記念試合」として組まれた馬場との特別試合で、親日家であるデストロイヤーらしく、入場式ののち後楽園ホールの放送席に駆けつけ、「視聴者プレゼントに」とマスク(試合実用2枚、未使用多数)や試合に使われたガウンなどをサイン入りで寄贈した。

また花束の贈呈にはうわさのチャンネル!!で競演した和田、せんだらも出席した。

●2017年、プロレスラー時代から日米両国の友好親善および青少年交流に貢献してきた実績を評価され、日本政府より秋の叙勲において外国人叙勲者として旭日双光章を受章することが発表された。

自身の健康状態を鑑みて来日を見送った代わりに翌2018年2月に米ニューヨーク州バッファローに於いて叙勲伝達式が行われ、高橋礼一郎ニューヨーク総領事(当時)より勲章が伝達された。

最晩年の2019年2月19日、『ジャイアント馬場没20年追善興行〜王者の魂〜』におけるアブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーに際し、メッセージを送った。

2019年3月7日、アメリカ合衆国ニューヨーク州バッファローの自宅にて88歳で死去。

長男のカートによると、7日正午過ぎに家族に囲まれて自宅のベッドで息を引き取ったという。

◼️フリーメーソンのメンバー

🟣『金曜10時! うわさのチャンネル!!』とは?

日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組。

和田アキ子とタモリが最初に共演した番組でもある。

製作局の日本テレビでは1973年10月5日から1979年6月29日まで、毎週金曜 22:00 – 22:54 (JST) に生放送。

遅れネット局では録画放送。

初回(1973年10月5日放送分)の視聴率は4.7%だったが、和田アキ子とザ・デストロイヤー、せんだみつおらの掛け合いが人気となり、1か月も経つと20%を突破。

井原は後年「この番組がヒットして正直ホッとして胸をなで下ろした」と述懐している。

全盛期には視聴率30%を超える人気番組となったが、和田が「ゴッド姉ちゃん」のイメージが定着してしまったのを嫌ったことや、歌手に専念したいとの意向で日本テレビへ強引に降板を申し入れたことから、1978年春で降板。

しかし和田はその後1978年12月から裏番組の時代劇『翔べ! 必殺うらごろし』(朝日放送制作・テレビ朝日系)にレギュラー出演した。

この一件が原因で以後2年間、和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった(後に和解)。

和田と並ぶ番組の顔であったせんだも同年末で病気療養による長期芸能活動停止に伴い番組に出ない期間が生じた。

両者が番組から消えた後は、千昌夫を中心に和田メインの頃からのレギュラーであるタモリ・木の葉のこのほか所ジョージや轟二郎らが千のサポートに回るような形で放送を続けたものの、この頃より番組の人気が急激に低迷。

さらには徳光和夫が『ズームイン!!朝!』(1979年3月開始)の総合司会に就任するため降板したことも相俟って視聴率が下落し、同年秋の改編を待たずに打ち切りとなった。

本番組は、同局の人気オーディション番組『スター誕生!』の出身歌手たちをサポートする役割も果たしていた。

また、ほとんどの期間においてはモノラル放送だったが、1978年9月29日放送回から最終回まではステレオ放送で行われていた。

●番組内容

アコのゴッド姉ちゃん

このコーナーは、和田アキ子が、ガキ大将的存在の「ゴッド姉ちゃん」に、せんだみつお、ザ・デストロイヤー(なぜかドイツ軍兵士のヘルメットを被っている)らが、仲間の悪ガキどもに扮したメインコーナー。

和田は連中をひたすらののしり、ハリセンでどつき倒したが、犬やヘビには弱く、せんだらがたまにダレ犬をけしかけて逆襲したり、ザ・デストロイヤーがヘビのおもちゃを出して和田に悲鳴を上げさせたりする場面もあった。

この番組への出演を機に、和田の「姉御肌」のキャラクターが定着した。

このコーナーの中で、ゲストがザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられて悶絶することがよくあったが、それがきっかけでブレイクしたタレントも多い。

当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫はそれまではスポーツ関係のアナウンサーという印象でしかなかったが、このコーナー出演をきっかけにバラエティへも進出し、後の「おもしろまじめ」で小林完吾と共演するきっかけにもなっている。

また、ガッツ石松がまだ現役のプロボクシング世界チャンピオンの時にこのコーナーに出演して、「ぼくさーボクサーなの」というギャグを発していた。

🟣金曜10時!!うわさのチャンネル デストロイヤー・徳光和夫 四の方固め

🟣追悼デストロイヤー デビュー直後のタモリ。デタラメ中国語講座 昭和51年(1976) チェルシア・チャン陳秋霞

🟣タモリのなんでも講座 1978

🟣ザ・デストロイヤー対スタン・ハンセン

🟣引退試合

🟣【G馬場引退試合】ジャイアント馬場/ザ・デストロイヤーvsジン・キニスキー/ブルーノ・サンマルチノ99’May Baba/Destroyer vs Kiniski/Bruno

🟣Wrestling Inc. Flashback Dick “The Destroyer” Beyer Interview 2008

🟣”Destroyer” Dick Beyer/Doctor X Shoot Interview

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