【香川県のワニ信仰10】讃岐に祀られる豊玉姫と倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ)と卑弥呼の関係は?

◼️記 : 2022/6/13

◼️船岡山古墳 訪問日 : 2022/5/2

香川県高松市香川町にある船岡山古墳を訪れた😃

高松での倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の足跡を追う😃

この日は、船山神社、船岡山古墳、田村神社、一宮寺を訪れた。

船岡山に行った時に撮った写真で記事に含んでない写真を載せておこうと思う😃

●詳細記事 ↓

【香川県古代史】 卑弥呼説のある倭迹迹日百襲姫 (ヤマトトトヒモモソヒメ)は高松に住んでいた! ゆかりの地訪問! 田村神社、花泉、袂井、休石! 田村神社の水神にまつわる恐ろしい伝説とは?


●船岡山古墳 資料 (徳島文理大学)

https://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kurashi/kosodate/bunka/bunkazai/iseki.files/16962_L31_dainikaihunaokayama.pdf

●船岡山古墳群 遺構編 資料

https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/28/28507/20620_1_船岡山古墳群遺構編.pdf

●香川県高松市香川町にある船岡山古墳。

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●双方中円墳の猫塚古墳の位置

●倭迹迹日百襲姫の奈良県から讃岐へのルートは、

奈良県→大和川→堺→淡路島洲本→伊弉諾神宮→東かがわ市馬篠の艪掛神社→引田の安戸池→塩竃神社(当時の別名称)→水主神社に宮を置く(そこを大内と呼ばれ、以降一帯の地名は大内となった)

●東かがわ市の水主神社から、船で西に移動し高松の港辺りに来たと思われる。

江戸時代以前は、海岸線が今よりだいぶん内陸部にあり、峰山や岩清尾古墳群は海に近かった。

瀬戸内海を航海する船が山頂の古墳を目印とした。東かがわ市でも山頂にある古墳が発見された。向山周慶翁の家があった近くの山。

東かがわ市の水主神社→海路→高松市の船岡山→田村神社

この船岡山に移動して来た倭迹迹日百襲姫はここに宮を置いた。

船山神社は元々、船岡山にあったが今は近くに移動した。

後に、倭迹迹日百襲姫は、田村神社へと移動した。

讃岐の稲作と水路開発の指揮を取った。当時は、統治王より祭祀王の他が力があったように、巫女である倭迹迹日百襲姫のカリスマ性をもって土地の民をまとめた。

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●船岡山の裾野に建物がある。お堂のように見える。そばまで行こうとしたが、草が生い茂り、スズメバチがいたので危険を感じ断念した💦

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●船岡山の南側の立ち入り禁止の看板がある辺りを見てみると。古代の積み石が見られた。その横に石切り場?のような場所があったが、ここは異空間のようでちょっと雰囲気が違う💦 個人的な感覚では、なにか祭祀場のように感じた。

とにかくゾクゾクっとしたので行かない方が良いと思う。古墳内も関係者以外立ち入り禁止。ここはお墓なのだから人のお墓の中に入るのは良くないことだ。

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●船岡山のほとりにある船岡池。

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●綺麗なツツジが船岡山の周りに咲いている😃

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●船岡山から南に見える山。

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●船岡山から北西に見える円錐形の山。

香川県には讃岐富士と呼ばれる飯野山のような円錐形の「おむすび山」が多い。約1400万年前の激しい火山活動からできたものと言われているが、ひとつくらいは、縄文時代に築かれたピラミッドがあると思っている笑😃 その方がロマンがある^_^

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●船岡山西側の山肌。

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●船岡山古墳の説明板。以前は、栗林公園西側の岩清尾古墳群に数基ある双方中円墳と考えられていたが、最近の調査により前方後円墳がニ基あることが判明した。

と言うことは、ヤマト王権と関係のある豪族だな。双方中円墳なら日本に数基しかなくヤマト王権とは違う豪族の可能性もあるが。

奈良県天理市にある櫛山古墳は双方中円墳で、和邇氏の墳墓と言われており、高松の猫塚古墳などは同じ系統の氏族ではないのかな?

三木町にある和爾賀波神社、鰐河神社との関係も気になる。

和爾氏と賀茂氏の両氏に関係している神社かもしれない。和爾賀波神社のそばを流れる鴨部川の鴨部は、賀茂氏が住んでいた場所。

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●ばっと見て古墳だと思う人はいないだろうが、建造したばかりのときは、こんなに木も生えておらず墳丘がきれいに見えたことだろう。それが権力の象徴だったのだから。

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●北側から見た船岡山古墳

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●讃岐うどんの名店(本店は香川県庁裏)さか枝がある。

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●船岡山古墳から田村神社への移動途中に、倭迹迹日百襲姫を祭神とする船山神社が見える。

倭迹迹日百襲姫は、船岡山から田村神社に宮を移し、土地の水田耕作地の開拓を、自らも一緒になって行ったと言われる。

倭迹迹日百襲姫は、その後、奈良の桜井市の三輪山辺りに帰った。

出雲王国の王家である登美家 末裔の口伝では、倭迹迹日百襲姫は、登美家の分家 太田家の娘であり、孝霊天皇の皇女ではない。弟の八咫烏の太田タネヒコが三輪山の祭主となり、倭迹迹日百襲姫が巫女となり三輪山西部で祭りごとを行いヤマトに平和をもたらした。その事が魏志倭人伝にも書かれている。

太田タネヒコは、物部の九州からの東征の時、大乱の世の中にあったヤマトを鎮めるため物部を利用しようと考え、和歌山から奈良へと案内し導いたため、八咫烏、トビ(登美家)の案内と呼ばれる。

物部の第一次東征は、倭迹迹日百襲姫の巫女的カリスマ性により、民衆の心を掴めず失敗に終わる。その後、第二次東征では豊玉姫、娘の豊姫(台与)を巫女としてたてヤマトに攻め入り東征に成功した。

田村神社の境内にあり違和感を覚える八咫烏の像の裏の意味は、その隠された事実を表しているのではないか‼️

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魏志倭人伝に書かれている卑弥呼は二人の巫女が融合して書かれている。

一人は箸墓古墳に眠る倭迹迹日百襲姫。

もう一人は、三木町の和爾賀波神社、鰐河神社と男木島に祀られる豊玉姫。

豊玉姫は、大分県の宇佐家の娘で、物部氏と組み、第二次東征に参加したが、広島辺りで亡くなり、後を継いだ娘の豊姫(台与)がヤマトを治めた。豊姫姫の夫は、イニエ大王である崇神天皇。

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