香川県独立の父 中野武営さんがいなければ香川県は存在しなかったかもしれない! 渋沢栄一さんの盟友! 高松市出身の政治家、実業家!

作成日: 2020/11/27

最終更新日: 2020/11/29

🟣中野武営さんを取材した動画

🟣中野 武営(なかの たけなか。なかの ぶえい)とは?

嘉永元年1月3日(1848年2月7日)〜 大正7年(1918年)10月8日)

明治・大正時代の官僚出身政治家、実業家。

讃岐国・高松藩出身。

官僚時代を経て、大隈重信の立憲改進党結成に参加。

旧愛媛県の県議会議員に当選、次いで県議会議長となり、香川県の独立(再置)運動に奔走。

後に代議士(衆議院議員〉となり、さらに東京市会議員、同議長も務めた。

武士としての気骨と商才を併せ持って実業家としても成功し、「士魂商才」と称された。

関西鉄道社長、東京馬車鉄道株式会社取締役、東京株式取引所理事長、日清生命保険会社社長等を歴任。

初代の東京商業会議所会頭 渋沢栄一の盟友で、後任で第二代東京商業会議所会頭となり、実業界・商工業者の発言力向上や産業振興、軍事費抑制、「営業税廃税運動」などを推進した。

また財界の世話役として、渋沢とともに紛争の調停や新会社の立ち上げ、公益団体の設立などを数多く手掛けた。

野球選手・審判の中野武二は息子。

孫に作郎、次郎、俊三郎。

雅号の「随郷」は、「郷に入りては郷に随ふ」の意。

🟣略歴

1848年(弘化5年)、高松藩勘定奉行中野次郎兵衛武憲の長子として高松に生まれる。

中野家は祖父の代までは代々骨董屋を営み、父 中野武憲の代で高松藩士となり幕末時には勘定奉行となっていた。

文武両道に秀でて高松藩藩校講道館に学び、18歳で十八史略の試験に通って藩士となる。

家は貧しかったとも、資産があり、維新後も裕福だったとも言われる。

●官吏時代

藩では1871年(明治4年)から兵事を担当。同年、廃藩置県により高松藩が高松県になると、高松県史生となる。

高松県と丸亀県が合併して香川県になると、香川県史生となって、租税を担当。

名東県、愛媛県勤務を経て、1874年(明治7年)からは中央に出仕、内務省地租改正局に籍を置き、全国各地に出向して地租改正作業に携わる。

1881年(明治14年)には農商務省権少書記官となるが、同年10月明治十四年の政変が起こり、薩長派への反発から官職を辞す。

●香川県出身者として・政治家として

辞職後は、立憲改進党結成に参加する一方、河野敏鎌とともに東京で弁護士事務所「修進社」を設立。

1887年(明治20年)、愛媛県議となり、翌1888年(明治21年)には県議会議長に選ばれる。

県議長時代は、愛媛県から讃岐地方を香川県として分県(再置)させることに奔走。

1888年(明治21年)当時の愛媛県知事は白根専一である。

香川県の分県運動はそれまでにもたびたび盛り上がったが、今回は中野のいとこの小田知周(おだ ともたか)、菊池武凞らのグループが中心になっていた。

中野は県会議長に選出されながら議会を欠席して東京でひそかに分県運動に奔走し、これを成功させた。内務大臣山縣有朋が、「香川県設置之件」とする建議書を黒田清隆総理に提出し、元老院の審議を経て、12月3日に香川県の設置を裁可する勅令(第79号)が公布された。

中野は、大隈重信や松方正義など中央人脈を活用したのではないかと伝えられている。(『海南新聞』明治21年11月13日)この功により香川県では「独立の父」と呼ばれている。

郷里の香川には、当時、新聞が発行されていなかった。

1889年(明治22年)、中野は、いとこの小田知周と一緒に香川新報(後に四国新聞)を創刊する。

小田が社長に就任。当時、地方での新聞発行はなかなか長続きしなかったが、香川新報はその後、他紙と合併して「香川日日新聞」、改名して「四国新聞」と様変わりしつつ現在も発行され続けている。

1890年(明治23年)、帝国議会開設にともない第1回衆議院議員総選挙では、香川県第1区の高松市から出馬して衆議院議員に選出され、1903年(明治36年)まで6期を務める。

理財に通じた武官は「衆議院の予算通」として知られた。

1909年(明治42年)、実業界の声を政界に反映させるべく、東京実業組合連合会の支援等を得て東京市から立候補し、衆議院議員に選出され戊申倶楽部を組織し、代議士会長になる。

●実業家として

政治家としての活動の傍ら、1887年(明治20年)、東京株式取引所の肝煎となる。

1888年(明治21年)には、東京株式取引所副頭取(同年5月から12月まで)、関西鉄道株式会社社長(1888年から1891年まで)にも就任し、本格的な実業家としても活動を展開し始める。

1891年(明治24年)、東京株式取引所副頭取(1892年まで)。

1900年に東京株式取引所理事長となり12年間経営に責任をもつ。この間、限月復旧問題への対応を図る。

1891年、経営難となっていた東京馬車鉄道取締役に選出されて経営の立て直しを果たしてその手腕を広く認められ、実業家としての名声を確立した。

小田原馬車鉄道社長(現在の箱根登山鉄道)となってその電化を実現し、それを先例に東京市の馬車鉄道電化を促した。

日清生命社長、東洋製鉄株式会社設立(初代社長)、田園都市株式会社(初代社長)などさまざまな会社の設立や経営に携わった。

●財界人として

渋沢栄一のあとを受けて1905年(明治38年)から1917年(大正6年)まで、第二代東京商業会議所会頭を務める。

明治後期から大正中期にかけて、香川県出身者中で最も中央の政財界で存在感を発揮した人物であった。

日露戦争のポーツマス条約で賠償金が取れず、世情が騒然となったときには、中野は講和条約締結を支持し、賠償金をとれなかったとはいえ、戦争継続した場合費やされたであろう「人の力と金の力」を産業に向けて国富を増進を目指すべきと説いたが、軍拡反対運動および増税反対運動に関しては、政府と真っ向から対立することになる。

日露戦争が終わると、中野率いる商業会議所およびその全国組織である商業会議所連合会は戦時に導入された非常特別税である織物消費税、通行税、塩専売(いわゆる「三悪税」)の廃止と新たな増税の反対を訴えて活発に運動したが、目的は容易には達せられなかった。中野は都市商工業者を主とする実業界の意見が政治に反映されるためには、実業界の代表が政界に出る必要があると痛感し、1908年(明治41年)、東京市から衆議院議員総選挙に出馬して当選(1911年まで)、実業家議員らで戊申倶楽部を結成した。ただし戊申倶楽部は小会派にとどまり、政治的に大きな力を獲得するまでには至らなかった。

政友会と山県系官僚との連携をバックにした第1次西園寺内閣第2次桂内閣は、商業会議所の増税反対や三悪税廃止の建議をほとんど取り入れなかった。

1912年(大正元年)第2次西園寺内閣の折には、中野武営は、商業会議所会頭として陸軍の二個師団増設要求に反対を強く表明し、大正政変の引き金を引いた。

そして、陸軍の増師要求を却下した西園寺内閣が陸相上原勇作の辞任で倒れて第3次桂内閣が成立すると、陸軍と長州閥に反発する世論が高まり、立憲国民党に政友会が合流して「憲政擁護連合会」が結成され、新聞雑誌が激しい藩閥批判を展開するなど、第一次憲政擁護運動から大正政変に至る。

続いた山本権兵衛内閣の時は「営業税廃税運動」も大きな盛り上がりを見せた。

1914年(大正3年)、東京市会議員となり、市会議長を最期まで務める。

1917年(大正6年)、70歳を機に東京商業会議所会頭を退任。

1918年(大正7年)、9月2日の田園都市株式会社設立総会で社長に就任後、体調を崩し、危篤状態に陥る。

このとき渋沢は、中野に男爵の授爵を各方面に運動したが果たせなかった。中野の授爵には原敬山縣有朋が否定的だったのではないかとみられている。

10月7日付で正七位勲三等から正五位に昇位後の1918年(大正7年)10月8日、尿毒症のため70歳にて死去。

葬儀は10月12日、渋沢栄一を葬儀委員長に青山斎場で執り行われた。戒名は「入庵随郷居士」。