◼️高松藩屈指の奇才 平賀源内
草間茶屋(高額の美少年クラブ)に通い、衆道を極める。
二代目 瀬川菊之丞に惚れ込む。
『男色評判記-男色品定-』出版!
🟣平賀源内とは?
●平賀 源内(ひらが げんない)
享保13年(1728年) – 安永8年12月18日(1780年1月24日)
江戸時代中頃の人物。
本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家。
讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の白石家の三男として生まれる。
幼少の頃から異彩を放ち、掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。
寛延元年(1748年)に父の死により後役として高松藩の蔵番となる。
宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
大坂、京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。
宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中の田沼意次にも知られるようになる。
宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する。
このとき「仕官お構い」(奉公構)となり、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。
宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと交友する。
宝暦13年(1763年)には『物類品隲ぶつるいひんしつ』を刊行。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。
明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩の秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。
安永2年(1773年)には出羽秋田藩の佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。
安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。獄死した遺体を引き取ったのは狂歌師の平秩東作ともされている。
享年52。
杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。
ただし晩年については諸説あり、上記の通り大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで、田沼意次ないしは故郷高松藩(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれも詳細は不明。大正13年(1924年)、従五位を追贈された。
●人物
天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
🟡男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。とりわけ、二代目 瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。晩年の殺傷事件も男色に関するものが起因していたともされる。
🟡ちなみに、江戸時代の大ヒット作品、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた滑稽本。
「栗毛」は栗色の馬。「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意味。
内容は、栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)のドタバタ旅行記だが、二人の関係は喜多八が矢次郎兵衛の馴染みの蔭間(男娼)だった。
◼️平賀源内が惚れ込んだ二代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう)とは?
◆二代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう)
寛保元年(1741年) – 安永2年閏3月13日(1773年5月4日)
寛延から安政期に活躍した江戸の女形役者。
屋号は濱村屋、俳名は路考。
通称「王子路考」。
容姿にすぐれ、地芸と所作、時代と世話を兼ねた。現在の歌舞伎・日本舞踊で人気演目のひとつになっている『鷺娘』は、二代目菊之丞が初演したものである(ただし当時の振付けは伝わっていない)。
また当時の江戸の人気を一身に集め、路考髷、路考茶、路考櫛など、その名の付くものが庶民に流行するほどであった。
◼️平賀源内
『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。
玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。
源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕とある。
発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者ともいわれ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。)。
気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという。
1765年に温度計「日本創製寒熱昇降器」を製作。現存しないが源内の参照したオランダの書物及びその原典のフランスの書物の記述からアルコール温度計だったとみられる。この温度計には、極寒、寒、冷、平、暖、暑、極暑の文字列のほか数字列も記されており華氏を採用していた。
土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。この通説は土用の丑の日の由来としても平賀源内の業績としても最も知られたもののひとつだが、両者を結び付ける明確な根拠となる一次資料や著作は存在しない。
また明和6年(1769年)にはCMソングとされる歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
浄瑠璃作者としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。
🟡衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年(明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。
鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
文章の「起承転結」を説明する際によく使われる「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。
🟣草間茶屋とは?
陰間茶屋(かげまちゃや)とは江戸時代中期、元禄(1688-1704)年間ごろに成立した陰間が売春をする居酒屋・料理屋・傾城屋の類。
京阪など上方では専ら「若衆茶屋」、「若衆宿」と称した。
元来は陰間とは歌舞伎における女形(女役)の修行中の舞台に立つことがない(陰の間の)少年を指した。
彼らが男性と性的関係を持つことは、女形としての修行の一環と考えられていた。但し女形の男娼は一部であり、今でいう「女装」をしない男性の姿のままの男娼が多くを占めていた。
陰間茶屋は当初は芝居小屋と併設されていたが、次第に男色目的に特化して、独立した陰間茶屋が増えていった。
🟡陰間茶屋の料金は?
料金は非常に高額で、庶民に手の出せるものではなかった。
平賀源内が陰間茶屋や男色案内書とでもいうべく『江戸男色細見-菊の園-』、『男色評判記-男色品定-』を出しており、それによれば一刻(2時間)で1分(4分の1両)、一日買い切りで3両、外に連れ出すときは1両3分~2両がかかった。ちなみに江戸中期における1両は現在の5~10万円相当とされる。
主な客は金銭に余裕のある武家、商人、僧侶の他、女の場合は御殿女中や富裕な商家などの後家(未亡人)が主だった。
但し幕府の天保の改革で風俗の取り締まりが行われ、天保13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。
🟣若衆歌舞伎
●用語
陰間(かげま) – 売春をする若衆。
陰子(かげこ) – まだ舞台を踏んでいない修行中の少年俳優。密かに男色を売った。
🟣衆道(しゅどう、英: Shudō)とは?
日本における女人禁制又は極めて女人禁制に近い環境で発生した男性の男色をいう。
「若衆道」(わかしゅどう)の略であり、別名に「若道」(じゃくどう/にゃくどう)、「若色」(じゃくしょく)がある。