【タブー】瀬戸内海、西九州にかつて水上生活者 「家船 (えぶね)」が存在した! 海のサンカ (漂泊民)とは? 古代海部の血統をひく水軍の末裔か?

🟣2019年に研修後、実技試験に合格し、香川県と岡山県にある12の島と2つの港で開催される瀬戸内国際芸術祭でオフィシャルツアーガイドとして活動した。

その際、坂出市の沙弥島(しゃみじま)ナカンダ浜で二人組のアーティストであるヨタさんが家船の制作をされていた。

作品名は、「ヨタの漂う鬼の家」と言い、完成した家船は「ワンダーえびす丸」と命名された。

このとき初めて「家船」のことを知った。

タイのバンコクや香港を訪問したときに水上生活者を見たことはあったが、日本にも近代まで水上生活者がいたことは知らなかった。

2019年の瀬戸内国際芸術祭で何度かこの家船の製作現場を各国の方々に案内することとなった。

●忘れられた瀬戸内海の記憶「ヨタ(Yotta)と家船」三木学評

🟣水上生活者

日本には近代以前より「家船 (えぶね)」と呼ばれる人々がいた。

九州、瀬戸内海一帯、日本海沿岸に多く、明治維新前には九州でエフネ、エンブ、瀬戸内海でフナズマイやノウジと呼ばれていた。

船住居の系統として、鐘ヶ崎、肥前瀬戸、能地、二窓、吉和などがある。

家船は第二次世界大戦後も瀬戸内海地域を中心に多数の根拠地を持っており、1962年(昭和37年)には広島県因島に200隻の家船が存在した。

しかし、1970年(昭和45年)頃までにいずれの地域でも陸地に移住したため、家船の姿はみられなくなった。

●これとは別に19世紀末頃からは、日本各地に寄港する貨物船の大型化が進み、艀(はしけ)を使った舟運や港湾物流が盛んになると、艀を所有し各地を転々とする港湾労働者の中には、自分の艀の一角を住宅化して一家で居住する船上生活者となる者が現れるようになった。

東京では埋め立てが進む前の佃、月島、勝どき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていた。

こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された。そうした光景は横浜や大阪でもみられた。

1960年代後半になると、貨物船のコンテナ船化が進み、物流における艀の需要が減って職住一体となった艀は減少し、水上生活者も転職などにより激減する。

一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなった。

1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなりほぼ見られなくなった。

●このほかに、京都府与謝郡伊根町の伊根地区(伊根浦)に立ち並ぶ民家群は伊根の舟屋といい、船の収納庫の上に住居を備えた伝統的建造物が現存している。

なお国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されている。

↑ 伊根の舟屋(2014年)

●国勢調査

日本の国勢調査では、水上生活者も調査対象となる。

一般調査区、特別調査区のほかに水面調査区が調査対象区域として設定され、重要港湾の港湾区域、地方港湾の港湾区域又は漁港の水域、河口及びその周辺水域を対象として調査が行われる。

調査区が独立する場合は一般には人口が少ないことが多いため、統計結果から個人情報が推定されないよう秘匿措置が行われ、統計は近接する調査区に合算される。

例えば東京都江東区では新木場1丁目調査区に、港区では台場1丁目[5]に合算されている。

🟣家船(えぶね)とは?

家船(えぶね)とは、近世から近代の日本に存在した一群の漂流漁民の総称である。

↑ 東京の水上生活者(1960年頃)

●概説

古代海部の系統をひく水軍の末裔とも言われているが、詳細は不明である。

数艘から数十艘にて集団を形成(「〜家船」と称する)して、本拠地を中心として周辺海域を移動しながら一年を送り、潜水や鉾を使った漁で魚介類や鮑などを採集する漁業を営み、1週間から10日おきに近くの港で物々交換に近い交易をしていた。

瀬戸内海の事例では、家船が三津の朝市で漁獲品を水揚げする姿は戦後もしばらくは見られていた。

別府温泉では、持ち舟で寝泊まりしながら浜脇温泉や別府温泉に通う湯治の習慣が古くから見られ、戦後しばらくまでは続いていた。

春には波止場に係留される舟は100艘近くにのぼり、湯治舟とよばれて季語にもなるほどの別府の春の風物詩となっていた。

家船の根拠地は、西九州及び瀬戸内海沿岸に存在した。

西九州では西彼杵半島と五島列島に多くが根拠を持ち、女性は抜歯の風習があったとされている。

幕藩体制の成立以後、家船に対する把握も行われ、藩からの公認と引き換えに鮑などの上納や海上警備などを行った。

明治維新以後、納税の義務化、徴兵制や義務教育の徹底の方針から政府が規制をしていった。

西日本では昭和40年頃には陸上への定住を余儀なくされて消滅したと言われているが、東京では埋め立てが進む前の佃、月島、勝どき周辺に多く見られ、1万人弱を数える規模となっていた。こうした住民の福利厚生を行うために水上会館や水上学校(陸上に建てられた寄宿形式の学校)が建てられたほか、治安を担当する水上警察署などが設置された。

そうした光景は同じく海運が盛んな都市であった横浜や大阪でもみられた。

これらは災害に遭ったり、都市開発により立ち退きを余儀なくされたり、設備の老朽化により徐々に数を減らし、一方で、艀の廃船を係留して住宅の代替として利用するケースが多くなった。

しかし1980年代になると艀の老朽化が進み、使用に耐えられなくなり、ほぼ見られなくなった。

🟣今も残る日本の海文化…海の漂泊民「家船」のルーツとは?

🟣貴重な海文化「えぶね」 日本財団 海と日本PROJECT in 広島 2019 #20

●家船の中。欄間がある。

🟣七大海の幸 呉おこぜと家船の紹介

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