【タブー】丹波哲郎さんの息子 丹波義隆さんが父親の実像を明かす! 父は非常に繊細で母は大胆、父は母のような人物を演じていた! 義隆さんによると真剣に台本を読んだのは「砂の器」、「二百三高地」、「人間革命」!

🟣丹波哲郎さんの息子 丹波義隆さんが父親を回想する動画 ↓

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🟣丹波 哲郎(たんば てつろう)さんとは?

1922年〈大正11年〉7月17日[1] – 2006年〈平成18年〉9月24日)

本名 : 丹波正三郎

日本の俳優・芸能プロモーター・心霊研究家。

東京府豊多摩郡大久保町(現:東京都新宿区)出身。

身長175 cm。

人柄

出演作を多く手がけた中島貞夫は「外見はバタくさいが義理堅い日本の男で、ワンシーンの友情出演だけなのに京都へ来てくれたこともあった。

車代を渡そうとしたら『おれはそんなつもりで出たんじゃない』と泣いて怒られた」と語り、石井輝男はもっとも信頼出来る俳優のひとりとして、文句をいわず、ひたすら言われたことを黙々と演じる丹波をいつもほめていた。

『007は二度死ぬ』の撮影中、毎日遅刻してくる丹波にショーン・コネリーがしびれを切らし、撮影時刻を守るよう注意するため、丹波のホテルの部屋を訪れたが、丹波は「ショーン グッモーニン 主役のショーン自らが迎えに来てくれるんだから、すぐに現場に行かねば、すぐ用意をして行くから、待っていてくれ。」などと得意の調子でやりくるめ、皆が苦笑したという。

裕福な家庭に育ち1949年に結婚した貞子夫人もテーラー(オーダーメイド紳士服店)を営み、自身も公団職と闇市卸副業から社会人演劇同好会を運営し、育ちの良さと素地から不義理や道理の通らない事を嫌い、監督など目上立場であっても反目する一方、和解すると信頼には誠実をもって応えていた様子は、晩年の2004年に刊行した、ダーティ工藤のインタビューによる実質的自伝『大俳優 丹波哲郎』(ワイズ出版)に綴られている。

前述した義理友情にまつわるもの、俳優養成所「丹波道場」の経営失敗とは一方で、俳優業経営は厳格で海外出演の経験から映画TVドラマプロデュースについても同様だった。

家族

息子に俳優の丹波義隆と森正樹。


妻は北一輝のいとこの娘にあたる。

公団職員時代の1949年に結婚。

貞子夫人は1958年小児麻痺発症から車椅子生活を余儀なくされたが多忙を極めるなか哲郎が献身介護していた。

妻の兄の大蔵敏彦は弁護士で、四大死刑冤罪事件の一つ島田事件で被告人の無罪を勝ち取った人物である。

杉並区西荻窪に永住したが、俳優として確固たる地位を築いた矢先、愛人と隠し子がいるとの騒動が勃発。

しかし「こんなことはタクシーの運転手さんも知っているよ」とあっさり認めてしまった。

葬儀が行われた際、愛人とその子供(元女優の江畑絢子と息子である森正樹)が弔問に訪れた。義隆は気遣って席を外し、二人に別れの一時を与えた。

エピソード等

丹波は基本的には自ら売り込みをせず、キャスティングされた時点で、演じる役は自分に合う役であるはずなので役作りは一度もしたことがなく、テレビの前の観客は意識せず、目の前に居る監督を喜ばせることのみを考えていると語っていた。

1963年の映画『丹下左膳』(松竹京都)で隻眼隻腕の剣士、丹下左膳を演じることになったが、殺陣がやりにくいとの理由から、設定上右手、右眼が無いところを左手、左眼がないことにして刀を右で持つ、という提案をし、世間を驚かせた。

歴代の丹下左膳の中でも右手なのは丹波の作品のみである。


『仁義なき戦い 代理戦争』では写真だけの出演(モデルは田岡一雄)もあった。

『人間革命』でシリアスな宗教家を演じた時期に、石井輝男が監督をした『ポルノ時代劇 忘八武士道』にも主演していたと著書で述べている。

●人間革命

https://youtu.be/gpX23aPToLE

●二百三高地

●砂の器

https://m.youtube.com/watch?v=LZQqdsZ4-VY

同作の監督・石井輝男とは新東宝時代の僚友だが、お互いに東映に移ってから協業が増えて親しくなり、石井晩年の低予算自主制作作品にも付き合っている。

丹波は先輩、後輩、監督からエキストラまで、誰とでも平等に、分け隔てなく接することを徹底していた。

丹波は撮影現場では、大俳優、大女優から、仕出し(エキストラ)に至るまで、まったく同じ付き合い方をする。

人間が大きくて素敵だと感じた。みんな同じ、平等だと、綺麗事なく心の底からそう思っていたという。

ただ、当時東映の大スターであり先輩でもあった鶴田浩二に対して丹波が「おーい、鶴田!」と呼んでいたことがたびたびあり、鶴田は丹波よりも年下ではあるが、役者としては丹波よりも先輩であったことからこの事に鶴田は苦手にしていたこともあった。

義隆は丹波より「お前は現場に入って監督にどう挨拶するんだ?」と聞かれ、「おはようございます、と言います」と答えたところ、「じゃあ、監督だけじゃなく、エキストラや掃除の人にも、同じように挨拶をしろ」と教えられたという。

「えこひいきはダメだ。あと、同じ監督と一緒に仕事をしようと思うな。こびへつらうな」と強く言い聞かされたという。

また、せんだみつおら曰く、お茶目な一面もあったという。映画『柳生一族の陰謀』で萬屋錦之介との立ち回りのシーンの撮影の時に丹波は予定の時間を1時間ほど遅刻し、現場に現れた時の丹波の第一声が「おう!錦ちゃん、遅れた、ワリい!」と軽いノリだったという。

また共演した女優らの尻を触ったり、自分の台本を見て初めて入るスタジオを間違えたことに気付き、何も無かったようにその場を立ち去ったということもあった。

遅刻は他にもあり、仲代達矢によれば「スターは遅く来るもんだ。9時に始まるなら10時に入ればいい」などと言って遅れて現場入りすることがあったという。

しかし小林桂樹と東宝の作品で共演した際、同じように遅刻した時に小林に「東宝では時間通りに来い!」と怒られたという(当時の東宝では時間には厳しかった)。


台本を覚えてこないということ

丹波は台本を読まないことで知られ、この丹波の特異なスタイルのため、机の上や壁、共演者の背中あるいは小道具である手元のミカンにまでカンニングペーパーが準備されていた。

『Gメン’75』の役の名前を覚えるのが面倒であると、大きなミカンに出演者の役柄の名前を書いていたが、蜜柑が食べられてしまったというエピソードもある、

その回の犯人が誰なのかわかっていなかったり、違う回の台本を間違えて持ってきたこともたびたびあったという(谷隼人の談)。

上述『柳生一族の陰謀』の撮影の時にはちゃんと台本を持って来たが、その台本は郵送で届いたままでまだ未開封の状態だった。

同作品の監督の深作欣二に「自分の台詞くらい家で覚えて来てよ」と言われると「俺は仕事を家に持ち込まない主義なんだよ」と返したという。

台本を読まずに本番に臨むことで知られていた丹波だが、本人は「記憶力はいい」「俺はきちんと頭に入ってるんだよ」「俺は覚える、と自分に自信がある」と言って本番ではスラスラ台詞が出て来ていたと述懐していたが、一方で「終わった途端に忘れちゃう」とも話しており、これを「一種の自己催眠だね」としている。

またこのようなことを自ら「面白おかしい伝説的なジョークに近いもの」だとも話している。

仲代達矢によれば、台詞は「1ページ(の台本を)3秒で覚える。長い台詞は、ここで(ページを)めくるというのが頭に入ってる」自分独特の覚え方を話していたが、ある日台詞を間違えた時に「(台本)1枚めくるのを2枚めくっちゃった」と言われたという。


NHKの大河ドラマ『春日局』に出演した際には、数ページにも及んだ橋田壽賀子のセリフを見た丹波は、橋田が自分に挑んできたと考え、セリフを完璧に覚えきたという。

恵俊彰は『時空警察』で丹波と共演しているが、伝説そのままに、丹波が本当にセリフを覚えてこない事にびっくりしたが、それを感じさせない丹波独特のセリフの間合いの絶妙さに、感服したという。

初の外国映画作品となる「太陽にかける橋」(1961)に出演した際には、セリフ(日本語と英語)は「丸暗記だったね」と述べている。

シドニー・ポラック監督の「ザ・ヤクザ」(1974)には高倉健演ずる主人公の義兄の田中五郎役で出演し、撮影が行われたが、高を括って一夜漬けで撮影に臨んだことと、当日の撮影が事前に知らされていたのとは別のシーンだったことなどでスラスラとセリフが出ず、撮影が中断。丹波は降板となり、「太陽にかける橋」で丹波の弟役だった日系アメリカ人俳優のジェームス・シゲタが急遽代役に立てられて来日し撮影された。

ただ、撮影スケジュールが逼迫していたために当初より田中の登場シーンが少なくなっており、完成した作品を見た丹波は、あのくらいの台詞の量なら覚えてもよかった、と述べている。

『Gメン’75』

夏木陽介の著書によれば「丹波ちゃんとは、同じ警視役で対等に付き合っていた、また丹波の性格を余りにも大らか過ぎたと回想し、全く台詞を覚えてこないことを夏木が注意すると、「俺は家庭に仕事を持ち込まない主義だ。」と返答されたと回想した。


ある日Gメン本部の屋上での夏木とのシーンの撮影に際し、丹波がいくら待てど現場に現れず、夏木が怒って帰ってしまい、次の日同じシーンの撮影では、丹波が現場に着いたら連絡をと、わざと夏木が遅れて現場に現れると、夏木を待っていた丹波が「よく来てくれた、俺は人を待たせるのも、待つのも平気なんだ。」と言ったという。

若林豪は丹波について、「言われているようにセリフをまったく覚えてこない。なんていいかげんだと皆さんが思うけど、それでも映像になると、誰よりも絵になる。天才でしたよね。」とコメント、また最終回のパリでのロケの際に、丹波に誘われルーヴル美術館へ行ったが、丹波があっという間に外に出てきて「ここは絵ばっかりだ、帰るぞ」と言ったエピソードを明かしている。

岡本富士太は、丹波が『Gメン75』の放送開始後しばらくの間番組を見ていなかったらしく、何話も放送された頃になり、「今度のオープニングはお洒落でいいじゃないか。」と話し今まで放映を見ていなかったのか驚いたと話した。

丹波の乗った車が交通違反で停められた際、丹波は警察官に「Gメンの丹波だが」と対応した。

この時の違反はスピード違反と語られることが多いが、丹波は一方通行の逆走だったと、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した際に語っている。

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