徳島県鳴門市北灘町碁浦にあった碁浦番所と八田氏と阿波秦氏! 伊能忠敬や松浦武四郎も立ち寄った番所!

●徳島県鳴門市北灘町碁浦

●伊能忠敬

1808年に全国を測量中であった伊能忠敬が東かがわ市の引田港から出航し、碁浦港に上陸した。

●代々世襲で碁浦番所の役人を務めた庄屋の八田氏

碁浦御番所八田家文書

https://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000011057311-00/

●碁浦御番所

内容・特色等: 徳島県鳴門市北灘町大須の八田立氏が所有していた古文書を解読、徳島藩の番所史料集として第2冊目を活字化して出版。

徳島県立図書館や鳴門市立図書館で閲覧可能。

出版社: 原田印刷出版株式会社

出版年: 2010

著作者: 滝よし子/編著

https://syougai.tokushima-ec.ed.jp/manabihiroba/srch_lib/356096.html

●碁浦番所【ごのうらばんしょ】

現在の鳴門市北灘町碁浦にあった番所。

海岸線沿いの陸路の讃岐と阿波の境目に当たる。

西の小碁浦は讃岐,東の大碁浦は阿波に属す。

番所役人は八田家が代々勤め,天正13年(1585年),讃岐と阿波の国境を決定する折,重要な役割を果たした。

当時の模様は「碁浦邑御番人 庄屋 八田孫太夫 先祖覚書」に「……御国御境目為証人私先祖 八田孫兵衛高松へ罷出候節御上使様御出ニ而御境之儀此方于者西坪ケ谷筋之尾切と申上候」(鳴門市史上)とある。

海岸沿いの陸路の境にある碁浦番所は,旅人・商人等の検分に当たった。

番所跡は,国道11号建設のため埋め立てられ,現在は道路となっている。

出典: 角川日本地名大辞典

●松浦武四郎

松浦武四郎は、江戸時代後期から明治時代初期の探検家。

天保4(1833年)年、四国遍路の旅をした松浦武四郎は碁浦について、「此處山の
厓にして右の方は数十仭の断崖、左り之方は波浪岸へ打、一歩をあやまたば粉身碎身ニなる地なり、番所有。出入之切手を改む」と記している。

●碁浦番所史跡

北灘村(きたなだそん)は、かつて徳島県板野郡にあった町。

現在の鳴門市北灘町(櫛木・粟田・大浦・宿毛谷・鳥ケ丸・折野・大須・碁浦)。

●秦氏の全国分布と改姓後の姓名

阿波国 南海道 板野郡

http://kodaisihakasekawakatu.blog.jp/archives/16262974.html

●秦氏 改姓後の姓名

現在、秦、波多、羽田、八田、矢田、波多野、幡多などの姓を持つ者の多くはこの渡来人 秦一族の子孫であり、機織りから転訛した服部、一族の秦河勝にちなむ川勝の姓を持つ人もこの一族の末裔である可能性がある。

古代 秦氏の居住分布

阿波国板野郡に居住分布がある。

http://www.md.ccnw.ne.jp/rekishi_tajimi/toraijin%20hatasi.html

●徳島県鳴門市の碁浦港

私の高祖母 森キヨ (旧姓: 八田)

私の高祖母は、八田孫平の長女として、江戸時代の弘化三年に生まれ、徳島県板野郡碁浦村から藩をまたいで高松藩の森家へ嫁いできた。阿波浄瑠璃が非常に上手かった。

この高祖母の阿波八田氏は、代々世襲で碁浦番所の役人を務める庄屋だった。

八田家文書が残る。

・先祖の戸籍謄本

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